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天の白滝 二十九

しらたきの不安そうな顔。俺も不安やで、しゃあけろ不安がっとったらしらたき守られひんやろ、そう思う俺の心は弱いけどな、強いで、負けひん、絹に負けるか、あんだら、絶対しらたき連れて帰るんじゃ。静かに闘志の炎が燃え盛って来た俺はじっと絹を見据えた。絹はその勝負受けて立ちまひょやない、ほほほほと言う余裕綽々の笑みを浮かべた。しらたきは俺と絹の間の壁をずっと見ていた。

別の間で俺は待たされていた。板戸は開け放たれており、外は雨が降りしきっていた。低く雲を下げ、絶え間なく降る雨が広い庭園に造られた池の水嵩を増し、水面に当たって跳ねる、を繰り返す。波紋だらけの水面の下では錦鯉の影がゆらゆら動く光景を俺は何も考えずにただ眺めていた。俺の中に今誰もいないと感じるのに俺は突っ立ってその光景を見ている。ただ目があったからそれを見ているというだけで、他に俺は雨や空や雲や鯉や石や苔と何も変わらない、今は苔になる、苔でいる、そうしなければ耐えることが出来ないだろう。お前は私と同類だと、そう苔に言われたい、今、今、今苔だから雨に打たれたい、恵みの雨を俺の頭上に降らせてくれませんか、天よ。

数時間後、俺は己の願い通り地面の上で苔みたいに雨に打たれていた。俺の傍らにはしらたきの代わりに千円もの大金があった。金持ちなんかがすることなんて決まったあるやんか、わかってたよ、こうなるて、闘ってんけど、呆気なく負けた。何があったかと言うと、源次郎と絹に手渡された千円、これでしらたきを渡してほしいと頼まれた。俺は頭の線が切れて言った。
ほた逆に頼んでもええでふか、お宅の辰次郎はんでも寅三はんでもどっちかてええけろ、一人わいに千円で売ってもらえますか。できますか?そんなこと、できませんよね、人をコケにすんのもええかげんにさらしてけつかりください、すんませんが、しらたきはあんたんとこのすえとちゃいます、しらたき連れて帰らしてもらいます。といいしらたきの部屋に走って行こうとした俺は源次郎に腕を掴まれ床に平伏せられ、今日のところは帰ってもらえまふかな、城戸はん、と怖い顔で言われ、そこへ呼ばれたやくざたちに手荒な暴行を加えられ屋敷の外に放り出された。だから今俺はこんな冷たい雨に打たれている。俺は今や苔とは掛け離れた怨嗟と虚脱の塊になっていて怨嗟だけの塊なら何か行動することも出来うるだろうがそれを上回る虚脱が酷すぎる為、また殴られたり蹴られたりした場所が痛むのでこのように寝そべっている。信じられない。俺ってなんなんやろうと思う。信じられん、弱すぎるやん。あのおっさんめっちゃ力強かった。暴力と金で片を付けようとする腐った性根夫婦の下でしらたきは今後生きてゆかなくてはならないというのか、俺が弱いばっかりに。俺が一瞬でも苔になりたいとそう思ってしまったばかりに。そんなことを許して俺は正気で生きてゆけない、あいつら俺を嘗め腐っとる、俺は何でも、何でも、阿保か、何でも出来るわきゃあるかいな、どないすればええんにゃろ。悄然とずぶ濡れになって横たわっている俺に誰かの声が掛かった。
あれ?城戸はんやないかいな、どないしたん。

寅三に助けられ二人は小料理屋の座敷にいた。俺の話を聞いた寅三は、やっぱそう来まひたかあ、と恐ろしく二枚目なのにへらへらした顔で言った。と思ったら急に真顔になり、うちの家族はね、みんな恐ろしいでね。と口調は変えず言った。それはどういうことかと聞いて寅三に酒を注いだ。
寅三はにかっと笑い軽く話し出した。
まあ、息子のわいが感じる恐ろしさなんやけどね、簡単にゆうとね、親の愛情を感じたことないちゅうかね、見てひんねんね、わいや兄貴のこと全然、わいらの姿を通り越して何も見てないみたいなね、いっつも冷め切った目ェで見られるさかい、わいも親に対して愛情みたいなん持ったことないんやね。ふんで、兄貴もね、何考えてんのかようわかれいん、喧嘩したこととか一度かてないし、上辺だけみたいな優しさを感じんねんね、兄貴もわいのことなんかほんまに見てひん。ほんまの優しさちゃうんやたらないほがええのにて思うのになあ。

俺は本音をぶちまける寅三に心から同情した。寅三が抱えて来た根本的な寂しさは、俺の中にある小さい時分からの寂しさと似ているはずだと思った。寅三という人間があの家におってくれることに、俺はほっとした。辰次郎は珍しいくらいにええ人間やとは思ったが、表が素晴らしければ素晴らしいほどそれは裏には、それと掛け離れたとんでもない醜さを隠しているのではないかという恐怖を俺に与えたからである。それに比べ、寅三のような元からへらへらした人間はその裏には真面目なものを持っているとわかったが、最初から二面性を表してくれたから、この先どんな面が現れたとしても俺は然程驚かないのではないか、まあ、わからないけれども。
それから二人は酒を酌み交わし、互いの身の上話に花を咲かせ、寅三は俺を熊やん、と呼ぶようになった。

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天の白滝 二十八

何も考えていないような目でしらたきは俺から目を逸らした。俺の死んだ声は早くも腐りだして辺りに腐敗臭が充満し出した。その臭いに吐き気がする。俺の周囲だけが物凄い醜悪なものに充ちて行く。気持ち悪くなり俺は畳に手を着いた。あんなしらたきの冷たい目を見たことない。誰か呼んでいる。
城戸はん、大丈夫ですか、どないしはった。
俺は顔を上げずに応えた。
大丈夫、ちょう気分悪うなっただけでふね。
何が起きているのかと思った。俺としらたきの間にかつて存在したことのないものが今在る。俺は少しの間顔を上げることが出来なかった。腐敗した世界は徐々に透き通って行き、凍てつくような空気に変わり、漸く俺の体は動きを見せた。
しらたきに近づいてゆく、しらたきは蛇に噛まれた左手首をじっと見ている。
しらたき。
もう一度、しらたきの側で俺は口に出した。
しらたきは俺を間近に見た、何の感情も入っていない目だった。
それでも俺はたくさんの言葉を投げ掛けた。
しらたき、大事ないか、気分はどや、しんどないか、腹減っとんやろ、噛まれたとこ痛ないか、見せてみ、青くなったあんな、蛇怖かったやろ、可哀想に、なんでこないなこと、なんで、なんで、しらたきがこないな目に。
怺えていた涙が溢れて俺は言葉に詰まった。
しらたきの前で泣きたくはなかった俺は顔を背けた。涙が止まらんでどないしょうと思った、上膊に涙と洟をこすりつけてしらたきに向き直り言った。
しらたき、俺のことわかるけ。
しらたきは微かに眉間に皺を寄せて俯き顎を左右に振った。
俺は何故かその瞬間、くわえたいという言葉が浮かんだ。その次には、鸛が飛ぶ光景が浮かんだ。鸛になってしらたきをくわえて今すぐ何処か遠くへ飛んでゆきたいとそう思った。そうしないと、盗られる、絹に奪われる。なんで俺は鸛やないんにゃと嘆き悲しんだ。
俺のことわからんのか、ともう一度聞くと、しらたきは俺を怯えるような目で見て小さくこくんと頷いた。
目の前が真っ黒い闇で覆われた。しらたきに噛み付いた蛇を怨んだ。戸を開け放ってくれなかった寅三を恨んだ。こんな展開を齎した世界を憎んだ。己の不甲斐無さは今となっては恨まない。自分を恨む余裕はもうない。吐き気が堪らない。突如辰次郎が言い放った。
どうやら記憶を無くされてはるようですね。
わかっている、そんなこと、言われなくてもわかる。辰次郎にさえむかむかと腹が立つ。そこへ、あの絹が部屋に入って来たものだからもう耐えられない。絹はさだめて嬉しいのだろう、朗らかな顔で食膳を運んで来た。膳にはおかいさん、揚出豆腐、大根と豆の炊いたもの、鮎の甘露煮、焼玉子などが並んでいる。絹がしらたきに向かって発した言葉に我が耳を疑った。
さあ、すえ、食べられそうなんあるかえ。
すえ、とは一体誰か、人の娘を勝手に違う名で呼びさらすな、と怒鳴りたい憤激をしらたきの前だから押さえ付けた。
しらたきは黙って膳を見つめている。絹が横から、少しでも無理して食べなあきまへんで、すえ、と言いながら碗と箸を手に持ちしらたきに食べさせようとした。それを目にした俺の体は考える間もなく動いていた。俺がやります、と言い絹から強引に碗と箸を奪い取り、しらたきに食べさせようとしたのだ。
しらたき、お前ちいこい頃こやって俺が食べさしとったんやで、懐かしいなあ、ほら、口開け、食べなあかんがな、ようさん食って元気出たら俺のこと思い出すか知れんで。
しらたきは知らんおっさんに無理強いさせられていつもの不機嫌な顔になった。
ははは、その顔、嫌なんやろ、こないして食わせられるんは、しゃあけろちょびとは食わな死んでまうで。
城戸はん、ええかげんにしてくらはい、すえが嫌がってるやおまへんか。
誰がすえやねん、こいつはしらたきやねん。言ったあと、しまったと思った。絹が俺を睨みつけていた。
すんません、でも、俺が身魂注いで可愛がって育てた、こいつは俺の娘なんです、しゃあから、連れて帰ります。
しらたきは俺を見たが、このおっさん何ゆうとんにゃ、という顔で俺を見ていた。俺はしらたきに向かって言った。
しらたき、俺はおまえの父親や、どないしてでも連れて帰るで。


天の白滝 二十七

せやから、こちらかて見す見す連れて帰られるてなことできしまへんね。同じ連れて帰るゆうんなら、しらたきはんの意思をしっかり聞いて、ふて、納得承知した上で連れて帰るんならよろしいがな。それを、ああた、しらたきはんの気持も身体も無視して寝込んでるのを無理押しして、はあ、もうええですわ、明日にしましょう、今日はもう休んでくださいまし、わても寝ますわ、心配やからしらたきはんの隣で寝ます。
呆れ疲れた顔で絹は部屋を出て行った。
部屋で一人になった俺の眼から堪えていたものが堰を切ったように流れた。大人に怒られて怖かったから泣いている。違うわい。自分の不甲斐無さが悔しくて悔しくてしらたきが可哀相で可哀想でならん、俺は今までもいつもそんなんやった、しらたきを困らせてばかりいた、悲しませてばかりいた、さみしがらせて、自分は何をしていたかとゆうと、博打を打ったり、酒に酔い潰れ夜遅くに帰ったり、娼妓らとほたえたり、むかつく相手を誰彼構わず度突いたりしていた、しらた きはその時間一人で遊んだり俺の帰るんを今か今かと待ち草臥れて一人で寝たりしていたのだ。そんな俺に愛想を尽かし出て行くのも当然のことであろう。しらたきにとって俺は最早必要不可欠な存在ではなくなっただけのことだ、巣立ちの時が到頭来た、ただそれだけのこと、親として喜ぶべきことだろう、悲しみながらも喜んで見送るのが本来の役目で、後は、本物の余生が早く来たものだなあ、と言いながら屁をこいたり豆腐を食ったりしながらいつか自ずと死して土に帰らんば、申し分ない。ことあるかれ、あほんだら、あの女何訳わからひんこと吐かしてけつかりやがる、なんやあの自信、はあ?なんやおまいのその根拠の浅い自信は、しらたきの母親がおまえであるわきゃないやろ、人間違いも大概にせえっちゅうんにゃ、しらたきが目ェ覚まひてわれを選ぶとでも思っとんのか、たわけがっ、しらたきが見ず知らずのおばはんの方がええとこない吐かすかあ、度阿呆目がっ、わしが連れて帰るに決まっとんじゃ、粕、渡して堪るか、死んでも渡すか、絶対渡さひん、殺してでも渡さいん、なんでもやるで、俺ァ、もう既に血まみれの両手やさかいのお、人の一人二人殺すことくわいことあるかれ、ははは は、くわないわっ、しらたきを失うことに比べたら、なんも怖いことあるかあっちゅうんじゃ、惚け、蛸、南瓜めがっ。はははのは、殺したんねん、殺したんね ん、阿呆臭い、明日にはきっとしらたき目ェ覚ますやろ、絹よ、あんたの袖を噛み噛みしながらの悔し顔楽しみにしとるで、ははは。眠うなてきたので寝よ。
俺は懸命に己を激励しかつ心を癒し宥めすかしやっと眠りについた。所謂、子守唄、俺を寝かしつけるにはこうするしかないと己が知っていたからである。まったくもって阿呆で餓鬼である。

朝が来たで、と鳥が鳴きさらすのだ、わあっとるわ、あんだら、天井を見上げぼんやりしらたきのことを考えていると、唐紙を開けて誰か入って来た。
あ、起きてはったんですね、おはようございますぅ。
俺はばさっと飛び起きて。
こりゃ、辰次郎はん、おはようさんでごじゃりまふ。
朝早いのにも関わらず逞しく凛々しげな顔の辰次郎が快活に言い放った。
城戸はん、しらたきはんが、目を覚ましはりましたよ。
その言葉に俺の頭の中は震え軽い脳震盪のようになった。

早く会いたい、早くしらたきに会いたい、会いたい、けれど、胸が張り詰まってものすごくしょんべんがしたくなったから先に手水に行くことにした。
ほな、しらたきはんのお部屋で待ってますさかい。辰次郎の声を後ろに、手水に入った俺は心を落ち着かせながらしらたきにまずなんて声を掛けたらいいかを考案した。こうゆうのはどうだろうか。しらたき、おまえこんなとこで何してんにゃ、阿呆かいな、蛇に噛まれたちゅて、噛んだ蛇がわしの家に来てからに、しらたき噛んでもうた、堪忍してけろ、はよしらたき助けてくんろ、て詫びにきょったんや、しゃあからこなしてここにわしがおんねや、ほんで、しらたき、具合はどや。
これではしらたきの心配より先に己の言い訳を先に優先してんやん、あかんあかん、ほたこんなんはどかな。
襖を開け放った途端しらたきに抱き着いて行き、しらたきいっ、おまえ、おまえ、おまえのあほぅっ、わしゃの知らん間ァに出て行きゃがって、あほんだらあ、ぎゅぎゅぎゅの刑じゃあ、ああ、よかった、よかったあっ、しらたき無事でほんまよかったなあっ、さ、けえろけ。
終わりかいな、しらたきに具合聞くの入ってもいいひんやん、あかんやん、あかんわ、うわあっ、どないしょ、なんて言えばええかなあ、なんてゆうたらしらたき、むってしないかなあ、笑ってくれるかなあ。ふぁらららららあ、ああ歌いだしそう、しらたきが目を覚ましましたよ、ほんまに?ほんまに?うわあ、うれし、うわあ、うれし、うわあ、緊張すっわあ。
はしゃぐ心気を胸一杯に湧き咲かせながら、しらたきの部屋の唐紙を思い切って開けた。
振り向いた布団の上に起きて座っているしらたきと目がぱちと合った。
その双眼はまるで知らないおっさんでも見るような冷たい目で、確かに俺を見ていた。
しらたき、と俺の放つか細い声は大雪崩によって雪中に埋まり凍え切って死んだ。


天の白滝 二十六

どんなに考えてもどっちがいいのかわからない、それなら一か八か、寅三がここまでゆうてくれているのだ、やってみるべきではないか。俺は意を決して、寅三に向かって、やります、頼んます。と言った。
よっしゃ、そうなれば、はよしらたきはん連れて来よ。

寅三と一緒にしらたきの部屋の襖を静かに開けて中に入った。しらたきは変わらず眠りこけている。
動かしても大事ないやろか。
もう蛇の毒は完全抜けたて医者はゆうとったさかい、寝込んでるんは別の原因とちゃうかなあ、蛇に噛まれた衝撃とか精神的な要因かも知れんね。
精神的な要因と言われて俺はしらたきに果てしない憐憫を感じた。俺にしてやれることは何かあるのだろうか。
さ、はよここ去なんと、誰か来たらおじゃんやで。寅三に言われ、眠るしらたきを無理におぶって部屋を出た。起きるかなと思ったがしらたきはぐったりと寝たままでおり、心配は嵩んだ。足音を消して二人は薄暗い廊下を進みやがて内の戸口を寅三が開けて、外に出て、さあ後は門戸を抜けたらええ、地獄から抜け出すことが出来る、出口が目の前にある、確かにあれはそうだ、一条の光に向かう、しらたきを連れて向かう、俺としらたきの将来がこの向こうで待っている、俺としらたきの黎明がこの向こうに必ずある、白々明の中しらたきは目を開けるだろう、そう信じる思いで一歩、一歩進み門戸に寅三が手をかけてさあ、開く、開くよ、開いたら駆け出そう、眩しい光のようなものに向かって走ろう、あ、その前に寅三に厚い礼をしなければならない、そう思って寅三に声を掛けようとしたその時、地獄の底から響いて来るような恐ろしい声がした。
何してはりますのや。
俺は、しまったあ!と心で叫んだ。隣を見ると万事休すという寅三の顔があった。あかんのんかあ!と俺はまた心で叫んだ。確かに見つかってはしまったが、それでも、もしかして、ここで寅三は男伊達を貫いて素早く門戸を開け放ち、さあっ、城戸はん、ええから行きなはれ、後のことは気にせんでよろしい、娘はんと幸せに暮らすんやで、さいなら。と言いながら俺を外に追い出し、俺は泣きながらありがとうございましたあ!と叫び、そして様々な恩義を振り払うようにして走り去って行く。みたいな展開を期待していた、期待したらあかんかってんや、期待した俺が悪い、期待する俺は愚かだ、そんな期待は罪なのだ。絶望している俺に、地獄の使者は冷酷な能面をつけた顔で近付いて来る。
一体何事ですの、寅三、あんた一緒になって何してはんね。
いっやあ、別に何ちゅうことないよ、城戸はんがな、しらたきはんと一緒にちょう外散歩したいわあて呟いたからね、わいも散歩したいなあ思てから、これからちょう、ま、ちょびっとだけな夜の散歩に、て、ほら、酔い覚ますんに散歩てごっつぅええやんかあ、酒あんま飲まひん母さんにはわからんか知れんけろもさあ、そんで門戸開けよとしてたとこやんかあ。
阿呆なこと言いなはんな、病臥のしらたきはん連れて散歩行く人がどこにおりますねや、ええから早うしらたきはんを布団に戻したりなはれ。
俺にきつい一瞥をくれ絹は先に屋敷に入って行った。俺と寅三は黙って後を着いて中に入った。
しらたきを寝かしたあと俺は一人呼ばれ絹と向かい合って俺の寝室に座っていた。
城戸はんなあ、あんまり気が早いのとちゃいますか、しらたきはんの体をもう少し思いやる気持ちはあんたさんにはないんでっしゃろか。
黙って連れて帰ろうとしたことがやはり完全にばれているのは、仕方ないが、絹の突き刺さるような言い回しに押され傷付き黙しておると、絹は冷静に話し出した。
明日話そうと思てましたんやけど、先刻も言いましたことです、あなたが拾って育ててくれはった娘、しらたきはんは間違いなくわての娘ですわ、しらたきはんの左首筋と鎖骨の左下辺りに痣がありますやろ、あれな、わての娘にもちょうどおんなじ場所にありましたんです、それにあの雪をも欺く白い肌、あんな白い肌の娘はここらどこ探しても見たことありしまへん、間違いありまへん、あの子は二十年前に神隠しに合うたうちの娘ですわ。
俺はその話を俺には関係のない劇か何かをただ見ているだけのような奇妙な感覚で聞いていた。銚子を耳に当てて銚子の内側で鳴り響いているくぐもったぼわんとした声がただ聞こえているだけで、何一つ現実の事として頭に入って来ない、この世界は夢ではないのか、この女の話していることがまったく理解出来ないのだ。俺はこの世界を壊したいと思った。意味が全然わからないから。こんなふうにぼわんとする空間におんのが虚し過ぎて狂いそうだから、俺は壊さなければならない。しらたきを連れて脱出しなければならない。壊すのだ、壊すのだ、壊すのだ、破壊する、破壊する、破壊する、破壊する、壊す、壊す、壊す、壊す、壊す、壊したる。


天の白滝 二十五

いったん沈澱した心はもらもらとした希望のようなもの、闘争心のようなもの、愛惜のようなものを浮游させていた、それをぼんやり心の目で追ったり掴まえては放したりしていると、寝ているしらたきがにわかに、うう、うう、と呻いた。怖い夢でも見てんにゃろけと俺は心配の顔を近付け、しらたき、しらたき、大丈夫か、と話し掛けた。すると、しらたきは、ケツネのしっぽ食われひん……と言った。俺は一体しらたきはどんな夢を見とんにゃろ、と空想した。変態狐の親分にわれの尻尾を食わんかれ、食わんとおまえを油揚げで巻いて稲荷寿司にして食うてけつかるど、と脅されているみたいな感じの夢だろうか。それとも、出逢った狐、出逢った狐が何故か、どうかわたくしの尻尾をお食べになってくだされコンコン、と鳴くものだから、心優しきしらたきはこれを素直に食い、食い、意外にうまいねコンコン、とか言いながら、もう散々狐の尻尾食いまくったから、もうわし食われひん、てわなないている楽しく可笑しな滑稽劇みたいな夢だろうか、後者やたらええにゃけろね。するとこんだ、しらたきは、うう、くさい、と言った。なるほどなあ、狐の尻尾そんな臭かってんにゃあ、と俺は思った。信じられん、と俺は感じた。今、俺の前で確かに息を吐いては吸うて、夢を見たりしているしらたきは生きている、生きていることが信じられんのでなく、もし、辰次郎がしらたきの場所を通らなかった場合、少し遅れて通った場合、しらたきは確実に死んでいたのかも知れないのだ、それが信じられんと、今頃俺の体が震え出した。恐ろしいにも程がある、そんな恐ろしいことは他にない、俺はそのいっちゃん恐ろしいことがいつ起きてもおかしくない、いつ起きるかわからないこの意味のわからない世界に置かれているのだ、わけがわからなすぎると思う、この世界は、だってそう思いません?俺からしらたきを奪おうと毒蛇を操ってしらたきに噛ましゃがった誰は誰?ふざけんなよ?マジで、しらたきを殺すか殺さないかとするこの世界を撲殺したい、世界が死んだら俺としらたきも死ぬからあかんけど、だから殺さないけども。俺は情けなあてしゃあなかった。しらたきを助けたのは俺じゃなかった。今ここにいるしらたきの命は誰の物か、天から見据える神さんの物か、それとも己の手ェでしらたきに死と生どちらか自由に選び与えることのできたあの辰次郎の物か、俺の物では決してないだろう、情けない、悔しい、口惜しいわい、こんなに近くにおってんのにしらたきが遠くの鼻糞くらいの大きさのところにおるように感じる。俺は何と無く鼻をほじると指の先に付いた小さな鼻糞を直視し、これくらいやな、と思い、それからこの鼻糞をどうするべきか考えて、わざわざ庭に捨てに行くのもおかしいし、一瞬躊躇った後、それを口に運んだ。静寂を破り裂く襖を開ける音に振り返ると辰次郎が立っており、待たせてどうもすみません、夕飯の用意が出来ましたで、こちらへどうぞ。

案内された室には家族勢揃いで俺を待っていた。
えらいおおきすんません。と言い、緊張の中ご馳走を賜り、酒を注がれ注がれて酔いは緩やかにも回り出し、みんなええ人間とちゃうかなあという気分になり、なんとかあんじょうゆくやろ、と思っては松河家の持て成しに大いに満悦していた。実際皆、愉しそうに俺にべんちゃらを言ったりしているように見えて、まさかこの後でしらたきは渡せない等とは言われないのではないかと酔いどれた頭でおもんぱかってはいたが、酔漢の思考が正常の慮りであるはずもなく、実態は慮りというより、ぱかおもんみたいなあほらしい脳内であった。

盛大な宴と酒の余韻に浸りながら辰次郎に連れてかれた寝所に敷かれた布団に横になったが、横になって最初のうちは外の雨音を聞いていると、何か猿が金盥の中に煎餅を集めてはその中に入って煎餅を踏み潰し楽しんでいるみたいやなあなどと心象していたが、やがて心眼は開いて来て、俺は何してんにゃと冷静になり、途端物凄い尿意を覚え、手水を探して屋敷内をうろうろし出した。

手水を探している振りをしながらしらたきの部屋に行きたいなあと思っていると、何してんの、と後方から声をかけられびくうっとして振り向くと、そこには、先程夕食の席にいた可成の美男好男子である次男の寅三が立っていた。
あ、寅三はん、いやね、手水どこかいなあて探ひておったんでふわ。
手水やたら、ここ突き当たり右行たらあんで。
あ、ほんまでっか、おおきありがとう。
そう言って手水に向かい、用を足し終わり、またこっそりしらたきの部屋を探そうと思っておると、手水の戸の前で待っていた寅三に声をかけられた。
城戸はん。
うわっ、びっくた、なんでっしゃろ、寅三はん。
しいっ、静かにしてゃ、聞かれたらあかんこっちゃね、ちょう中入ってもらえる。寅三に背中を押されて俺と寅三は手水の中に入った。
あんなあ、城戸はん、手短ィゆうけどなあ、わい思うのだけれどね、娘はん今のうちィ連れて帰ったほがよろしい思うよ。なんでかちゅたら、ね?わかるでしょ?あんの頑固なお絹のことゃ、絶対しらたきはん渡しよらんて思いますねんかあ、だってわいわかるもん、せやからね、今わいが静かあに門戸開けたりまふさかいね?そおっと連れて帰たらよろしいわ。
俺はそれを聞き、出来うることあらばそうしたいっと心内で叫んだ。
おおきに寅三はん、しゃあけろ、見つかってしもた場合、なんちゅ言えばええんわからんし、それにここまで手厚うひてもろて、礼も言わず連れて帰るんはなんぼなんでも出来ひんよってに。
すると寅三は頓狂な声で、なあにを暢気なことゆうてはりますのんね、娘はんうちに取られても知りまへんすよ、今日はまだみいな気ィ抜いてるかも知れん思て敢えてゆうてんですぜ、明日からは多分目茶苦茶厳重になる思うねんけどなあ。
俺は頭を抱え込み唸った。どないしょどないしょどないしょ、しかし今日の今日会ったばかりの仲でここまで考えてくれる寅三はほんまええ奴である、それに加えこの変な喋り方気楽過ぎる話し方に緊張がほどけるなあ。ああ、どないしょう、寅三の目算は正しいか知らん、この家で育ったのだから俺よりすべて解り尽くしているからだろう、しかし見つかった場合の損失はどんなものだろうか、見つかったらしらたきを猶更連れて帰るのが難しくなる気がする。
俺は便器を見詰めながら、うーん、どないしょ、うーん、と懊悩した。
それと今誰か手水に入って来られたらまずいよ?男二人ではばかりで何をしているのか怪しばまれてしまう、そうなると益々しらたきを連れて帰るのが難しくなって、ああ、どないしょ。そんなことで頭を悩ませておると寅三が男前はなはだしい顔で明るくこう言った。
わい、あんたの味方やで。


天の白滝 二十四

敷かれた布団の中ですうすうと寝息を起て眠っているそれは、白いそれは、確かにしらたきであるように見えた。が、なんなのだろうこの胸の中のさびしさみたいな、そこにいるのはもう俺がいなければ泣いてばかりいたあのしらたきではない、子に捨てられた親みたいな気持が、しらたきにやっとこさ再会できた喜びを遥かに超えてしまうなんて、俺思われんかった、そんな自分の心に哀しめられて、何も考えられなくなってしまった。それに昨夜はしらたきの死を望んでいる己を悟ったりしたやん、今は全然そんなこと思えんにゃけろ。そんなあやふや過ぎる自分に絶望する、絶望、はははん、絶望していて何になるというのか。しらたきが俺をどう思っていようと構わない、というたら嘘だ、俺はしらたきに真っ直ぐな目で、あんさん、とそう言われたいのだ、俺を見て欲しいんにゃ。
そんな俺をしらたきでなく辰次郎がじっと訝しげに見ている。何?あ、そうか、俺まだなんもゆうてひんかってんにゃ。
間違いありまへん、この娘は、わいの娘でふ。
そう言うと、辰次郎は複雑そうな表情を浮かべた。
さいですか、それはそれは一安心ですね、しらたきさん、今は大分落ち着いてはるみたいですね。
ほんまに、なんちゅうてお礼を申し上げたらええのんか、ほんまに、ありがとうございます、感謝します、ありがとうございます、ほんまに命の恩人です、辰次郎さん、ありがとう、ありがとう。
俺は辰次郎の手を取り一心に礼を述べた。それに対し辰次郎はなんたる善良な息子であろうか、謙遜な態度で辰次郎は話し出した。
城戸さん頭をお上げになってください、私は当たり前のことをただしただけであって、しらたきさんの命が助かったのはきっと、城戸さんの強い思いが伝わってしらたきさんが頑張ったからやないでしょうか、私はそう思いますよ。私の力やのうて城戸さんのお力ですよ、きっと。
そんなことを言われた俺は涕と洟をぶわあ垂れ流して、そうやおまへん、辰次郎はんのおかげだす、この御恩は一生忘れしまへん、いや、死んでも忘れまへん、ほっんまにありがとうござんした、とまるで辰次郎を菩薩や如来のように敬い崇め奉る思いで感謝の意を伝えた。感極まっておると、開いた襖から下女に呼ばれたらしく辰次郎は、城戸さん、ちょっとすみません、呼んでるので行って参ります。と言いすったんと部屋を出て行ってしまった。俺は部屋にしらたきと二人にされたことで素に戻り、しらたきの方を見やった。穏やかな顔で眠っている。快方に向かっているようだ、よかった、ほんまによかった。しかし、これからどうなるっちゅうんやろ、あの絹というおっさんの嫁の能面のような何か恐ろしい自信を具有して相手を錯乱させ狂死させることわて出来ますのよ、ほほほというようなあの顔を思い出すと震撼する。しらたきの母親であるはずないのに。しらたきの本当の母親とは一体どんな人間なのだろう、しらたきを捨てたのだろうか、そうか、こいつも母親を知らなんだな、俺も母親を知らない、俺が四歳の時に死んだ母親がどんな人間だったのか、話を少し聞いたぐらいであとは何も知らない、覚えていない何一つ、一体どんな顔で俺を見てたんやろ、一体どんな声で俺を呼んだのだろう、小さい俺を残して死んで行く気持はどんなものだったろう、どんな悲しみがそこにあったか、母親が生きてさえすれば俺は多分家族を殺さずにすんだ、いや、ほんのすこしの記憶でもあれば、あんな悲劇は起こらなかったかも知れない、そんなことを考えて何になるというのか、もうやめよう、俺に母親の記憶はない、俺が家族全員殺した事実、現実は一生変わらない、俺が死んでもその事実は消え失せはしない、俺は後悔をすることさえ出来なくなった、後悔することさえ俺に与えない、後悔する資格さえないんや。俺はしらたきの頬に触れた。しらたきの体温を俺が感じることで俺はしらたきとして生きることが出来る、そうすることで、俺はまた生きようとした、しらたきの生の隣には俺の死が横たわっている。両方生きることは許されない。俺が生きたならしらたきは俺の中で死んでしまう。一緒に生きることが出来なかったのに、しらたきは俺の側で俺をいつも見ていた。それってどうゆうことなんや、自分で考えててわからんくなって来てるけども、つまり、こうかな、俺の不在を俺自身が感じている、俺の不在した俺に育てられたしらたきが誰を見て育って来たかというと、俺の中に入り込んだしらたきを見て育った、しかし、しらたきは実は俺を吸い取った、てことはしらたきが俺で、俺がしらたき?違うと思うんにゃけど、でも違うと思うことが違うと思う、頭回らん、いつものことやんけ、ああ、俺の爪、俺の爪やわあ、てことは俺の手ェやんね、これ、俺の手がしらたきの頬に当たっている、持って帰りたい、このまま、しらたきが目を覚まさないうちに家に寝かせて、ふんで、しらたきが目を覚ます頃、俺は、死んだ俺を墓から掘り起こして腐り切った本物の心でしらたきに告白すんねや。
これがほんまの俺やで。て。


天の白滝 二十三

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>膳の上に茶を差し出され、俺は、あ、すんません、と言い互いに礼をし合って、年婦は静かに話し出した。
お初にお目にかかります、私は松河源次郎の妻、絹と申します、右におるのは長男の辰次郎でございます。主人から話を聞かしてもらいました、娘さんを探しているとのことで、それで、早速娘さんかどうか確かめて頂きたいのは山々なのですが、出来たらもう少し詳しいお話を伺ってからでもよろしいでしょうか。
明らかに物凄く疑惑をかけられているのだとわかり、小便がしたくなった。まだ此処におるのがしらたきやと決まった訳でもないのに変な話やが、俺は大まかに嘘を少し交えて話した。六年前に赤ン坊のしらたきを拾って、今は二十歳です。というのはおかしいから、そこはしょうことなしに、拾ったのは二十年前ということにした。すると絹は、俺の年を聞いて来たから、三十六だと応えた。十六歳の時に拾って育てたのですかと聞かれ、伯母と一緒に育てたと言うと、ますます怪訝そうな顔つきで見られ、それでも俺は真剣な顔で努め事実を装っていると、はてそれでなんで娘さんは出ていかはったんですか、と聞かれ、良い嘘が瞬時浮かばない、くわぁっ、ほんまのこと言うしかないと思いそのまま話した。
いや、それがね、いきなしね、旅に出るっちゅうてね、出てってしまいよったんでふわ、理由はさっぱりわかりまへんのでふわ。
一層擬雲に覆われた目で見られているなあと思いながら、頂きまふ、と茶を啜った。苛立ちは沸いて来る、そんなんどうでもええから、早うしらたきに会わして欲しい、何故そんなに疑うのか。苛立ちと悲しみと不安の渦に取り巻かれ叫び出したくなるのを必死に抑えておると、辰次郎が痺れを切らしたというように、もうええやないですか、母さん、会わして差し上げましょう、と横から口を挟んだ。その言い方が如何にも良衆のぼんっちゅう感じで気に食わなんだが、やっとしらたきに会えるのだと歓呼したかった。しかし、それでもまだ絹は渋って俺と辰次郎の気持ちに応えようとしない。見た目に反し相当な強情振りである。俺はこうなれば心血を注いで畳に頭を擦り付けて嘆願した。
お願いします、娘に会わしてください。
静寂の中に鳥の鳴き声と水が流れる音だけが聞こえている。
少しの時間を置いて絹は口を開いた。
城戸はん、とおっしゃいましたね、あの娘はね、わての娘ですよ。
それを聞いた俺は心魂が戦慄した。頭をゆっくり上げ、恐怖の対象を見据えて俺は更に慄いた。そう言われて絹の顔をよく見てみると、何処かしらたきと似ている気がして来たのだ。自信満々に言う絹が恐ろしくてならなかった。しらたきを実際拾ったのは六年前のことだから絹の娘であるはずはないのに、しかし待てよ、と思う。この家におんのがしらたきでなかった場合辻褄は容易に合うではないか。とにもかくにも俺はしらたきかどうか確認しなければならないのに、この 女は一体何を懸念しているかというと、俺がしらたきを自分の娘だと確認して連れて帰ることになるのを畏れているのだろう。しかし、そんなことを言っても俺は当然しらたきを連れて帰る。なにがなんでも連れて帰る。俺の闘志が伝達したのか絹からもじりじりと燃え上がるような気魄が漂って来る。そうかと思うと、 絹はさっと顔色を変え、辰次郎、城戸はんを娘はんのところに案内しなはれ、と言った。空籤を引かされたような気持だった。わからない、全然わからない、何を考えているのか、おとろしい。しかし、遂に遂に会える、しらたき。俺はまだ対面していない内から涕が出て来て止まらない。俺の前を歩く辰次郎は振り返り、娘さんやったらええですね、と優しい顔で言った。本当にしらたきだった場合、俺はこの辰次郎に一生頭が上がらない。
へぇ、おおきに。

通された間の真ん中で、眠っている、俺は変に鎮まる心奥で、抜き足で歩き一足、一足近づく毎に世界の殲滅なる風景を何故か感じて行く。