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天の白滝 三十四

雨は予想通り急に勢いよく降り出して来たので、俺と寅三は、ひゃー、うわー、とか言いながらついに本格的に走り出した。二人で雨の中を走るのはなんだか楽しくて俺の心の中の黒雲の渦は見事に立ち去り現実の空とは不調和に澄み切って晴天となって来たから、ひょっほう、こりゃええ雨じゃ、と雀躍りするように飛び跳ねながら走った。この土や草やらの匂いを混じり合わしてそれを空気中にばら撒けたような、雨の匂いも俺はまた好きである。そうやって恵みの雨に歓喜しながら走っていると、とうとう寅三の隠れ家の場所に着いてしまったので、俺は現実に戻されてしまい残念な心地であった。
寅三の隠れ家というのは外から見た感じ普通の俺の住んでいたような家であった。雨は小降りになって来ていた。「着いたらこれかいね、ははは」といいながら寅三が木戸を開けると、戸の真前に女が突っ立っており、女と寅三は互いに「きゃっ」「うわっ」と吃驚した。
「寅ちゃん、会いたかったわよぅ」と蓮っ葉な感じの女は寅三に媚びるように体をくねらせて言った。寅三は困惑したような笑いを浮かべながら「すまん、ちょう、待っとって」と俺に言い、女を連れて少し離れ、話をしに行った。蓮っ葉女は俺をちらちらと見ながら、なにやら怒りながら泣きそうになってる顔で寅三と話している。外で待ってんのもあれやしと思い、俺は中に入って待つことにした。家の中はきれいに片付いており、居心地がよさそうで、ここなら松河家ともそんなに離れていないし、毎日通うことも出来るだろう、と俺は安心していた。寅三はどうもあの蓮っ葉女とここで逢引みたいなことをしていたのだろう。あれほどの色男を村の娘達はほっとくはずはない。しかし寅三は遊郭にもよく出入りすると言っていた、村の娘たちだけでは物足りないと言うことか、品の好い水も滴るええ男でありながらにしてなかなかの好色であるようだ。
びしょ濡れになった着物を脱いで台所で絞り、適当な場所に干して、褌一丁で畳の上で胡坐をかいて待っていると、寅三が戻ってきて「いやー、すまんすまん」と言いながら着物を脱ぎだした。「着替えあるさかい、好きなん着てええで」と押入れを開けて、その中に畳んで置いてある着物を一枚とって寅三は着た。
「それと酒やあてもあるさかい好きに飲んでええよ」
俺は「何から何まですんませんなあっ」と言い、寅三の着物を着させてもらった。
「熊やん、千円取り返しに行くのん、明日にしたらどや、明日行くてゆうたんやろ?ほたらもう今日は休んどきいや」
着物を干しながら寅三がそう言うので、俺は「そうけ?ほなそないしょうかな」と喜びを必死に隠して応えた。
「ほた、わい行て来るね、あ、そやこれ百円、好きになんでも使てええけろ、博打で全部一気に負けたとかゆうたらそりゃ怒るで、ははは、まあ自分ちや思て気楽に過ごしい、ちょくちょくわいも来るけな」
「ほんまおおきにありがとうな寅ちゃん、なんや困りごとあればいつでもわしにゆうてくれや、飛んでくさかいな、ほた、気ぃつけて」
寅三は温顔で振り返って手を振ると柔軟な足取りで去って行った。
俺は寅三の心尽くしに喜びの溜息が出るほどであった。寅三がなにゆえここまでしてくれるのか、と考える、と、やはり寅三は孤独であったからに違いないと俺は思った。寅三が抱えてきたものに俺が親近感を感じたと同時に、寅三も俺の長年の孤独に自分と同じ種類のものを斟酌したのかもしれない。しかしその寅三に俺は嘘をついている。家族はみな俺が十五歳の時に家が火事になり死んでしまったと俺は寅三に話した。それを寅三は信じているだろう。そんな嘘は言いたくなかったのだが、家族はどうしているかと聞かれて、咄嗟に嘘を言うしかなかったのだ。なんたる罪悪であろうか、こんなに良くしてくれる寅三が俺の嘘を信じているという事は。家族を殺したと言うことをはじめて話したのは、しらたきであった、あの時は狂酔していたが、俺は覚えている、俺の話をしらたきは一生懸命に聞いてくれた、俺のそれまでたった一つの塊であった俺の秘密を二つに裂いてくれた、それがしらたきだった。俺の苦しみの半分をしらたきに分け与え、俺の苦しみを自分の苦しみのようにしてしらたきは生きていくと、そう思っていたのだ。しかし、しらたきはそんなものもろとも俺の記憶すべてを失ってしまった。ということは俺の秘密は俺に帰ってきた、またひとつの恐ろしい闇の塊は元の大きさに戻り、俺の腹の中で蟠っているのだ。この世界で俺の秘密を俺しか知らないと言うのは、なんという苦しみであるだろう。俺の苦しみをあらゆる人に信じてもらえたら、少しでも楽になるのか、それは違うのではないか、俺の秘密を知った人物がしらたきであったからこそ、俺は救われたように感じたのだ、誰でも彼でも多くの人間に知ってもらえたところで、俺の中に生き続け深潭から重い石の杵で打ち込まれ続けているような沈滞した疼痛は和らぐと思えない。俺のこの苦しみに重なって来た罪悪感だけを手放したいと思うがゆえに、寅三に本当のことを話したいと俺は思っているだけなのだ。俺の苦しみを知るのは、しらたき唯一一人であらねばならない、それ以外の人間に話すと、俺の罪は膨張して肥大するように感じる。許しを請うために告白するのではない、俺の罪をしらたきに融和させてしらたきと俺の血が離れないようにする為、しらたきと離れたくない為に、しらたきと交じり合う為に、俺はしらたきだけに言いたい。俺の中にしらたきを溶け込ませたいんや。しらたきの中に俺は溶け込みたいなあ。
ちょっと腹が減ってきたからなんか撮もうと思い、畳に寝転がっていた俺は立ち上がって戸棚を見るとそこには肴になる乾物類が置いてあった。俺はやっぱり何か買ってこようか、それとも飯を食いに行こうかと考えた。
と、その時、戸を外からとんとんと叩く音が聞こえた。誰か来よった、はて誰やろう、と俺は恐る恐る戸を開けて外を窺うと、そこには先ほどの蓮っ葉女が突っ立っておった。艶めかしい顔を作ってか、もともとそうなのか、上目遣いで俺を見て微笑んでいる。
「はい、なんでふやろ」と俺は蓮っ葉女に用件を聞いた。
「寅ちゃんから話聞いたわよ、あなた、熊さんてゆうんでしょ、ねえ、ちょいと上がってもええかしら、まむし買うて来てんよ」
俺はまむしと聞いて、狼狽した気分から一転、腹の中がそれを求めん、と快く女を家に上げた。
女は機嫌よく居間にあがったかと思うと「そうだ、お酒飲みたいわ」といい酒の湯呑みを二つ持ってきて、俺に酒を注いだ。俺は断りづらく、おおきに、と湯呑みを持って酒を注いでもらって飲んだ。まむし飯が食えるとなると、ほかに何も考えなくなってしまっているのだ。女はくつろいだ感じで俺に話しかけた。
「あたいの名は蘭てゆうの、この近くに住んでるんだけど、あなた見かけない顔だわね、熊さんは寅ちゃんと付き合い長いのかしら」と、妙に粘りつくような話し方をする。歳がよくわからないが、俺よりも年上かもしれない。
「寅三とはここ最近知りおうた仲で、よう世話んなっとるんでふわ」
「あら、そうなの、寅ちゃん人とあまり深い仲にはなりたがらないのに、あなたとは仲良してるのね」
まむし飯を二人で食いながら段々と、俺は女を見ながらいったいこの女は何をしに来たのだろうかと、考えに至って食い終わった俺は「ごっつぉさんでした」と言い女の顔を覗いた。
女は俺の視線に気付き、箸を置いて、妙に目をしばたかせて俺を見ると「あたい、さみしかったのよぉ」と言った。
「寅ちゃんなんだか最近いないのよ、どうしてかしら、あたいのこと嫌いになったのかしら、ねえ、寅ちゃんに女できたとか、あなた聞いてない?あたい心配でならないわ」
「そうゆう話は特に聞いとらんね」
「ならなんでここに来なくなったかしら?」
「いやぁ、そりゃ俺にはわかりまへんわ」
「そうよね、それですっかり会わなくなったと思ったら突然相方にここを貸すだの言われて、そんなのってひどいわよ、ねえひどいと思わない?」
「うーん、確かに一言蘭はんにゆうとくべきではあるね、そうゆうこと俺全然知らなんだで」
「でもねぇ、寅ちゃんのそうゆう冷たいところも含めてあたい好きなのよぉ」
好きやたら別にそれでもうええやんけと俺は思ったが言わなかった。女は美人と言えば美人ではあるのだが、全体から醸し出される嫌というほどの毒々しい雰囲気が俺には少し苦手に感じるのである。
女は酒を一気にくっと飲んで「あら、あたいちょっと酔っ払っちゃったみたいよ」と、そりゃそんな風に一気に飲むと酔いも早く回るだろうと思っている俺の肩に盛りのついた雌猫のような感じで馴れ馴れしく寄り掛かってきた。俺はある危機感を覚え、何かこの女をすぐに帰らせる方法を素早く頭の中で回し始めた。俺も調子に乗って結構飲んでしまったので、どんなに早く頭を回そうと思ってもいつもの半分の速度にも満たないのろのろとしか回ってくれない、とにかく用事があって、今から俺は家を出なくちゃならないのだというと、女は嫌でも帰るしかないだろうと思い、そう伝えようとした。
すると女は俺の顔をとろんとした目で見上げ「あなた、寅ちゃんとは全然違う種類やけど、あなたの顔もええわぁ、あたいそうゆう顔にも弱いのよ、ねえ、あたいを好きにしていいのよ」と舌をもつれさせながら言うのだった。べろべろになったあるやん、俺はこの危機に酔いが抜けて行きそうで素面に戻って行く俺はいよいよ焦った。
「いやいやや、そんなこと俺にはできまへん、蘭はんに手ェ出してみい、寅三に縁切られてまいますよって」
「いいのよ、どうせ寅ちゃんはあたいのことなんてもう好きとちゃうのよ、せやから、ね、抱いてよ熊さん、いいでしょう?」そう言いながら蘭は俺を押し倒して俺の体に抱き着いて来たので俺は「ちょう、待ってくれ、待ってくれ、な、落ち着いてくれ」と言い、蘭の体を離そうとするのだが、蘭は執拗に俺にへばりついてなかなか離れてくれない。しかし悲しいかな男の体と言うものはここで反応してしまうのである、俺はしらたきの顔が浮かんで、俺はしらたきに嫌われてしまうと思った、しらたきに嫌われたない、ここで肉欲に負けたら俺はしらたきに嫌われてしまう。
蘭は俺に力尽くで接吻しようとしてきたので、俺は、きゃあーと思いながら顔を背けると蘭は俺の頬や耳を舐め回してきたから、こりゃかなん、と思い「あんな、ちょう、ちょう聞いてくれ、俺ほんまこうゆう色事好きとちゃうんにゃ、しゃあからな、すまんが、俺にはどないしても出来んにゃわ」と言うと、蘭は怒りと悲しみの混じったような顔で起き上がり「ねぇ、あたいのここ、もうどうにかなっちゃってるのよ、ねぇ、触って」と俺の手を掴んで自分の股座に持っていこうと着物の裾の間に入れたから、俺はもう手を思い切り引っこ抜いて、そして怒鳴った。
「ええ加減にさらさんかあ、われ、好きちゃうゆうたら好きとちゃうんや、嫌いやねん、嫌いなんじゃ、こんなことされるんのんは」すると蘭は一瞬おびえたが、負けじと強気な顔で
「興味ないてそれどうゆうことなの、あたいの体に興味ないやて?あたいはこれまで誘った男に断られたことなんて一度もないのよ、そんなことあるわけがないわよ、ははぁ、あなたもしや男色なんでしょ、そう言えばあんた男色っぽい顔してるわ」と言ったので俺は笑いながら応えた。
「はは、どんな顔やねんな、それ、ほたまあそうゆうことにしといてや」
「あなた寅ちゃん狙ってんでしょ、あたいの寅ちゃん取らないでよ」
「取るかあ、取るこた絶対あり得ひんから、もう安心して帰ってくれ、もう帰りぃ」
「ゆわれなくても帰るわよ、ああ、気色悪、まむし代返してよ」
「かやしてほしいならかやすがな、なんぼやね」
「かやしていらなんだわよ、あたいと寅ちゃんとの逢瀬場を返してよ」
「ほた、ここで二人で会いたい時は俺去ぬがな、そん時はゆうてくれたらええね」
「わかったわ、そないするわ、寅ちゃんここで待つ時も出て行ってもらえるかしら」
「ええがな、ええがな、いつでも出て行きまっさ」
「ほな、そうしましょ、もう顔も合わしたくないけど、しゃあないわね、じゃああたいは帰るわ」
「ほた、さいなら、気よつけて帰りや」
「大きなお世話だわ、さよなら」
蘭は睨みを利かして立ち去ると、わざとそうしているのかわからないのだが腰を大げさに振りながら歩いて帰って行った。
俺は、ふう、と安堵の溜め息をついた。寅三もえらい女を色女にしとるな、わからんわ、もう。人の趣味をどうのこうのゆうたところでしゃあない、はあ、疲れたな、酔いが戻ってきよった、ちょう横になろう。俺は居間に戻って布団を敷き、その上に横になった。肉欲に負けなかった俺は偉い、神も褒めてくれるに違いない、きっとこうやって一つ一つ小さな善行を積み重ね、しらたきは俺の元にやっと舞い戻ってきてくれるような気がするのだ。そしたら、俺はまたしらたきと二人で生活が出来る、くふふ、くふふ、ああ、嬉しいなあ、はよ、その未来がやってこうへんかなあ。俺は淫欲に打ち勝てた喜びと、しらたきと楽しく暮らす妄想に浸りながら、宵のうちに眠りへとついたのであった。

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天の白滝 三十三

着いた家というのが、なんとも侘びしい嵐でも来れば壊崩してしまいそうな古びた小さな貧家であった。土間ともう一つの部屋は六畳ほどしかなく、そこへ通されると目の見えないように思えない動きで老人は俺に汚い座布団を持って来てくれて俺はそこへ座った。
老人に言われて小僧が茶を入れに行き、まだびくびくしながら小僧は欠けた湯飲みに入った茶を俺の前に置いた。
「で、話ちゅうのは、なんやね」俺が聞いて、やっと俺の前に座っている老人は口を開いて時間あまりないと言うたのにゆっくりと話し出した。
話とはこういうものだった。
尾上伊兵衛という老人とその孫の藤太は今二人で暮らしている。以前には父親の佐五郎と藤太の姉であるちずも一緒に暮らしていた。が、三年前に佐五郎が病の果てに死んでしまい、後に多額なる借金を残していたということがわかって、その借金を返済する為ちずは借りていた商家の元にもらわれて今も働かされている。そこに藤太が千円を拾ってきたので、これはまさしく神様の御加護だと信じて、今から早速商家の元に持って行こうとしていたところであった、そこへ千円の持ち主であると言う俺と出会った。どうか助けてやってもらえないだろうか、自分はもうこの先長くはない、自分が死ねば藤太は一人天涯孤独の身となってしまう。そうなる前にちずを戻って来させることが出来たら、二人で力を合わし暮らして行けるだろう。
俺は苦渋な気持ちで「まあ、さっきもゆうたけろ、その金はわしの金やあらひんからね、助けるとなると人の金で助けることになんにゃわ」と言って、考えた。
確かに俺の金ではないが、千円はいったい何のために置いておく必要があるか。それはしらたきが戻ってきた場合に、松河家から千円返してくれと言われる時に俺は返さなくてはならないからである。昨日は寅三になんとかなるやろと言われて俺もその気になっていたが、それは無くしてしまったからもう仕方ないということで諦めただけであって、今千円が見つかったのだから、そこにどんな頼みごとをされたとしても俺は千円を貸すわけには行かない。しらたきが戻ってきても千円がなければ、しらたきはここのちずのように松河家にまた嫌でも戻る羽目になる。そうなるわけにはいかない、だから俺は千円をどうしても貸すわけにはいかない。俺の話を今度は聞かしたかったが、昼までに宿へ戻らなくてはならない。俺はここは人情をたたっ切って千円を取り返さなければならないと攻撃的な態度になって断ろうとした。俺は強引にでも千円を奪い、帰ろう、と思って老人の顔を見た。老人の目は俺の表面をまるで見ていない目でしかし俺を見ていた。俺はその目に戦慄した。老人は俺の内部を見透かしているように見えた。第六感の開いた目で俺の心を見抜いている。俺はその目に耐えられず、目を逸らして小僧を見た。小僧は横を向いて阿呆面で鼻糞をものすごいほじっていた。そんなに指を突っ込むと鼻血が出るのではないかと俺は思った。
俺は思い出した。この二人に会う前に俺は誓った、神に喜ばれることをする、と。俺は迷っていた。本当ならすぐにでも、無理や、すまんな、と言い捨ててさくっと千円を取り返すだろう。しかし、そうすればどうなるであろうか、神の怒りに触れはしないか、目の前に泣いて嘆願する老人と子供を見捨て、金を取り返し、俺としらたきは幸せに暮らすが、老人と小僧はこの先どうなるのだろうか、多分幸せにはならないだろう、小僧は老人が死ぬとその孤独に打ちひしがれて生きる気力も失せ、野垂れ死にするかもしれない。そうなると俺としらたきは本当に幸せに暮らすことが出来るのだろうか。神は許した俺にしらたきを与えたが、俺は自分としらたきの安穏だけを祈り、他人は見捨てた。俺は逡巡して答えが出なかったので窮余の果てに仙人のように俺を見据える老人と、今度は天井を見ながら鼻をほじっている小僧とを交互に見て、そして口を開いた。
「ちょうな、まあその話考えとくよってな、まだ千円持ってかんとってくれ、明日また来るわ、ふなわし去ぬで」
哀れな老人と小僧を後にして俺は家を出た。なんだか疲弊してしまった俺はそのまま宿へと戻った。まだ昼前だから寅三は来ていなかった。畳の上にごろんと横になり、どないしょうかなあ、という考えから、考えあぐねてもやっぱり答えが出ない、しかし俺の中ではもう決まっているのも同然だろう、なので、しらたきどないしてるかなあと、しらたきについて思い巡らしていた。

しらたきのことばかり考えていると、外でプェッ、プェッ、っと変な鳥が鳴いた。それは愉快な気分にさせる声であった。
プェッ、プェッ、と鳴くあの鳥を俺は捕まえたい。そして、俺に捕まえられたプェップェは、嘆くだろう、わたくしを放してくれよ、プェッ、プェッっちゅうてな。でも俺は放さない。なんでと思う?そりゃあね、しらたき、おまえに見せるためだよ。プェッ、プェッ。プェップェそりゃないぜ、がくんと来るぜ、だってそうだろう?せっかくこの広い空飛び回してたのによお、人間に捕まえられちゃもうおしまいって話だぜプエェ、プエェ。プエェップエはさらに啼いた、その悲しみの激情はそのまま嘴からこぼれ出た。プエーペッペペ、プウェププペペェ、ペムウェ、プミゥウェイ。と啼いてやかましいので、どないしたと思う?しらたき、しらたきならどうする?俺はな、むかつくから度突く、え?可哀想やて?せやけど、こうせなしらたきに見せるまで、こいつは発狂して死ぬかもしれんで、ええんか?それで。プエップウェはしらたきに会いたい、会いたいけどよプウェッー。って鳴いてんねんで?やはりここは度突いてでも正気に戻させて、ふでしらたきに連れてくんが正解っちゅう話や。わかるか?しらたき。大人の考えは深いんやで。で、はい、しらたきのとこに連れてきったで、と、その時、はわわ、puwextupuweはすでに息絶えておりました。何故って?それはね、しらたきに会えたことが嬉しすぎて感激のあまりに心臓がびっくりして止まってもうてん。めでたし、めでたし。めでたしちゃう?プウェップウェという鳥、おしまい。と。
俺はいつもしらたきが寝つくまでに即興で作ったお話を聞かせていた。だいたいなんでか悲しい終わり方をするのだ。しらたきを悲しませるつもりはないのだが、そこでいつもしらたきは泣くのだ、そしていつも泣き疲れて眠る。可哀想だと思うのだが、何故か俺の話はなかなかハッピーエンドに向かってくれない。自然に話すとそうなってしまうので、俺には止められない、止められない世界なのだ、止められない世界と言うと現実の世もそうであるなあ。望まないほう、望まないほうへ行くのは何でなんやろな。わかりません、俺には。そんなのみんなわからない。わからないでみんなよう生きてんなあ。そりゃ生きるでしょう。生まれてしまったのだもの。生きるしかしゃあないわなあ。生まれて、生きて、死ぬ、どうゆう世界なんや。俺は問うのだ、神に、俺はどうすればいいのですか。神は応える、あの千円を、あの爺と小僧から奪い返すのだ。そうしなければおまえは死ぬ。そんなことを言う神はいるはずがない。まずいないだろう。なら、もう答えは明白だ、あの千円は諦めるしかない。それは人助けとなるだろう、己の利己的な考えを幸福なる未来を投げ捨て、他人を救う、これはすごいことでなかなかできることでない、しかし俺はそれをやる、やって見せる。すると、神は喜ぶ、だから俺の元にしらたきを返してくれる。結局利己的な考えに基づき行動をする。それを見抜く神に怒られて、しらたきがなかなか戻ってこない。俺は嘆く。いかんやんか、やはり、やはり、どっちが正しい選択と言えるのか。利己的な考えに則り、そのまま行動を起こすほうがより純粋的と言えよう。何故ならその裏には何もないからだ。しかし、利己的であると俺が幸福にならないための善行を行うことには汚い裏があるために、神なのだから当然人間の裏も見る。すると神はやはり、俺にがっかりするだろう。そうであってはならない。ならどうすればいいか。それは俺が本心からの善行を行わなければならない。本心からあの尾上家を救い出さなければならないのだ。救うと言っても俺の千円ではないのだが。あの千円があるのとないのとでは全然違うのだ、この先の俺の困難が。それにしらたきが戻って来たいのに戻って来れない状態になりえる。どないすりゃええねんや。そう来たらここは、もう無心となろう。俺のところに必ずしらたきは戻って来る。俺はそれを信じる、ただ、信じ続ける。だから、だから、あの千円いらんよ、別に。そうでしょう、まあ人の銭なんですけれどもね、でも要らないでしょう、俺には。てことは、ということはつまり?俺は何も考えずに、あの千円を尾上家に渡せばよいのだ。尾上家は全員喜ぶ、俺も喜ぶ、しらたきも喜ぶ、神も、神はどう思うかもう知らん、神にお任せするのみだ。
それから少しうとうととして俺は畳の上で寝ていた。寅三がやってきて起こされた俺は、今日あったことを寅三に話すか、話さんほうがええか考えて寅三はきっと今回のことも、何とかなるやろと色好い返事をしてくれるだろうと思うから、隠す必要はないだろうと思い、また俺は話すことにした。
すると話を聞き終わった寅三は俺の意に反していつもと違う深刻な顔つきになった。不安になった俺は「寅ちゃんはどなしたらええ思う?」と聞いた。
「あー、うん、せやなあ、難しいね、銭見つかったとなると、なあ、みすみす知らんもんの手に渡すんも、なんかそれええんかなあて思うし、その千円は熊やんとしらたきちゃんがまた一緒に暮らすためにやっぱ必要やん?返せゆうやろしなあ、うちの親は。しゃあからここはやっぱ何の事情があろうと奪い返すべきとちゃうかなあ」
「そう、そやねん、そやんなあ」
寅三にそう言われた俺は、やっぱそうかあ、それが正しいわなあ、と思いながらも動揺した。確かにそれはそのとおりやとは思うのだが、寅三の意見が俺と相反してしまったことが何がなし悄気てしまうのだった。しかしここで、いや、でも俺はあの千円は尾上家にやると決めたから、と寅三の意見も聞かずに我意を通すのもそれはやりづらい。ここはやはり寅三の言った通りにするしかない、そうしなければ俺は寅三に顔向けが出来なくなってしまうだろう。
俺はいつにも増して真面目な顔になっている寅三に言った。
「寅ちゃんがそないゆうんにゃったら、俺もそない思うわ、それやったら早いほがええね、隠れ家教えてもろたら、その足で直裁行てくるわ」
すると、ほっと気が抜けたようになって寅三は「おっ、さよけ、あんじょう行くよう願っとおで」と太息をついた。
「任しといたって、怖い極道もん演じでもしたらすぐィかやすやろ」
「わいも出来たら肩入れしたいねんけどな、ちょうこの後用事あってね、ごめんやで」
「大事ないがな、んなん俺一人で十分や、相手は脆弱な爺と小僧や、ちゃっちゃっちゃと一気に片つけてこましたらあ」
「それもそやね、ほた、そろそろここいのけ」
「おう、去の去の」
二人は宿を出て、寅三の隠れ家がある場所へと向かった。寅三と並んで歩きながら、俺の目の前には暗い雲がどんよりと、しかしこの展開が楽しいねとでも言うような黒雲が愉快な感じに流れてきて暗くなってむかついて来るのだった。寅三にはああはゆうたものの、俺はまったく気乗りがしないでいた。意気軒昂と片をつけると言ったが、俺はあの老人と小僧の悲しい顔を見たくないなあ、と思った。しかし、もうどうにもならない、そもそもあの千円は俺が持っていたもので、ただそれを取り返すというだけのことなのに、なんだかあの老人と小僧の持ち物をすべて奪い去る様な気持ちになるのだ。何故なのだ、何故こんなことに?俺はもうそういう罪深いようなことは一切したくはないのに、避けたいのに。そうしないとしらたきが遠のいてしまいそうな気がするのに。しらたき今頃どないしとんねやろ。俺は隣を流麗に歩く寅三に声を掛けた。
「なあ寅ちゃん」
「なんやい」
「しらたきぃ、どないしとお?家ん中でいつも何してんにゃろ」
「しらたきちゃんなあ、わいが覗いた時よう庭におんね、鯉見てたり、池ん中入って遊んどったりな、はは、家ん中はさぞかしつまらんのやろねえ」
「あいつ人は苦手なんにゃが、自然の中におんのとか好っきゃなんゃわ、特に迷惑かけとらんけ?」
「だいじょぶちゃうかなあ、あんま知らんけど、うちの母親はえらい可愛いがっとおで、息子より娘がほしかったみたいやからなあ、そんでなにゃしらたきちゃんはまるで子供みたいやんかあ、手ェかかるのんも余計に可愛いみたいやわ」
「ほう、そないか、そんなに可愛いがってもうとんにゃなあ」
俺の前にもう埋め尽くされた黒雲の海が巨大な渦を巻き出して、その中心に絹の勝ち誇ってほくそ笑んでいる顔が浮かんで、俺の心は撃沈されるのだった。その口惜しさに半狂乱になりそうな俺は、違うことを考えねばと思い、これからしなくてはならないこと、そうだ老人と小僧に怒鳴り散らして金を取り返すことを考えて、俺は逃げ出したいなあと思った。寅三が優しいばっかりに寅三を裏切れない、寅三が優しくなければよかった、と思ったり思わなかったりしていた。寅か象かはっきりせえ、寅と象は果たしてどっちが強いのか、寅と象と熊ならどれ?などと俺は自分を狂乱から救うためにどうでもいい事を考えて耐えようとした。しかし俺を救うには何が一番か俺は知っているのだ、そう、しらたきのことだけを考えるのである。そしてまた妄想にとりかかる。しらたきが最終的に選ぶのはなあ、ははは、ざまあみさらせ、ははは、絹、てめえやのおてなあ、それは俺様よ、へっへっへっへへへへへ。その時、寅三が「あっ、熊やん、雨やわ、こりゃ大降りしそうやで、ちょう急ごけ」と言ったので、俺は「えっ、あ、はい、うん」と言って出来るだけ走るような感じで、でも基本歩く、みたいな感じで二人で隠れ家に向けて急いだ。


天の白滝 三十二

思い起こしてみると、しらたきを追って崖を登った時点で持ってなかった気がするから、多分しらたきを見つけたあの場所におきっぱなしにしたままなのではないか、と思った俺はそこへ急いで戻った。
しらたきを見つけた場所、そこには千円の包んだ風呂敷は見当たらなかった。あれ、おかしいなあ、と思って俺は周りを見渡した。すると、ちょうど俺が登ってきた道の坂を下ろうとする所に、ひとりの小僧がその風呂敷を持って立ち去ろうと足早に歩く後姿が見て取れた。俺は、あの糞餓鬼がっ、と走って追いかけると、小僧は振り返り、うわっ、と驚いて走って逃げ出した。俺は「待ちゃがれっ」と坂道をダダダダッと下り走って追い駆け、突き当りを右に曲がると、小僧の姿は消えており、俺は血眼になって探し回ったが、とうとう日が暮れても小僧の姿は見つからなかった。
疲れきった俺が一旦、宿へ戻ると、寅三がすでに宿に着いており「熊やん、どこ行とったやあ」と飄々とした顔で言った。
「いや、それがな」俺は今日起きたことを正直に寅三に話した。話を聞き終った寅三は一瞬渋面をしたが、開き直った感じで「ま、何とかなるやろ」と軽快に言った。
俺は、意気消沈して「そうかなあ、千円なくしたなんちゅたら、返してくれるもんも返してもらえんような気ィすんで」と言うと、寅三は「そんなんゆたかて、なくしてもうたもんはしゃあないやん?それに、銭返したかて意味ないて、それより頭つこてええ方法考え出さんにゃね」と俺を励ました。そう言われて、俺は気分が明るくなって来たので「せやんね」と言い、きっと大丈夫やわ、という気持ちになった。
寅三は飯と酒を頼んでくれ、俺は腹が減ってるのを思い出した。
盃を持ちながら、二階の窓枠に肘を付いて外を眺め、ええ気分になってる寅三に俺は声を掛けた。
「寅ちゃん、あんね、いつまでもこやってね寅ちゃんに世話なるわきゃいかんこったって、俺うち帰ろう思うんにゃ、ほで、銭がないさかい、残っとる田ァや畑売り払て、その銭でここら近場で空家探そかて思うにゃわ」
「熊やん、それやたら心配ないで、わい近くに隠れ家持ったあんねん、そこィ住みぃや、あと銭のこともなあ、気んせんときぃな、いつか余裕出来たときィれも返ィてくろたらええね」
「えっ、ほんまけ、それはほんにありがてえこっちゃけんろ、やっぱ銭は自分でなんとかするわ」
「ええにゃんかあ、それに、わい、ちょう親父に見つかったらあかん銭があんね、それ熊やんに預かっとってもろてほしいんよ」
「そら、なんぼほろにゃ」
「百円や」
「百円も、そんな、また俺なくしたらどないすんにゃて、あかんて、どっかほかィ預けえるほがええど」
「ないからゆうてんねんかあ、熊やん、頼むわ、好きィつこてええさかいィな」
「ふなん、好きに使えっかあ、よっしゃ、その金倍にして返ィたるわ」
「わはは、どなひて倍するにゃ、返されたら困るんに」
「博打で勝つんにゃんけ、こう見えて俺よう勝つんにゃわ」
「どう見えてか知らんけろ、まあ博打でもなんでもつこたらええで、ほんまばれたら偉い五月蝿あてかなんね」
「ほた、しっかィ今度はなくさんようィ預っとくわ」
「おおきな、熊やん」
「なんゆうとおけ、こっちゃこそえれえ世話なってんに、おおきにござるな」
それから二人はまた銚子を五本ほど頼んで楽しい酒盛りを終えると、寅三は明日の昼に来るから、ほしたら隠れ家に案内するわと言って帰った。
賑やかな寅三が帰り一人になると、部屋はしいんと静か過ぎて、またしらたきのことを思い出しては悲しくなるのだが、しかし寅三が本当にええ奴で嬉しい、友、寅三は俺の友だ、俺のもう一人の友と言えば弥五になるのか、弥五あいつなんしとんにゃろ、しらたきと俺が姿を消して心配しとおやろな、明日帰ってみよかな、やっぱええか、あいつのことやからまた娼妓とかに岡惚れして銭貸ィてくれてゆわれるや知れんひな、でもあれやな、心配なんは、兎か、生きとおやろか、兎が死んだらしらたきが戻ったときにすごく悲しむ、やっぱ帰ってみるか、はあ、傷が痛いな、しらたきに次はいつ逢えるだろうか、いつ思い出してくれるだろうか。しらたきの手を掴んだ感触、しらたきを抱きかかえた感触が俺の体に今も残っていて、しらたきの感触を抱くようにして俺は眠りについた。
翌朝、さわやかな感じのする朝だった、何日振りだろう、こんな感じの朝は、何故かわからないが、なんだか空気が違う濁った感じのない透明な空気の中の朝だ。しらたきと一緒に暮らしていた頃もこんな朝が何度かあった。しかし己の妄想に脅かされ、しらたきとおる間も俺は苦しんでいたよなあ、懐かしいな、今はそんな妄想はとうに消え去った。何故ならしらたきと離れ離れになっているのが妄想の中でなく、現実に起こっているからである。でもこの先ずっとこのままという気はしない。近いうちにしらたきは俺の元に戻って来るだろう。そんな将来を暗示するような朝だ。いつも間抜けにしか聞こえない鴉の声さえも、この賛美なる朝の交響曲の中に含まれるひとつの聖なる音のように聞こえる。今日も雨が降るのかもしれないが、俺は迷わない、今日、うちへ帰り、兎を連れて帰ってこよう、そしてしらたきに会えることを神に祈ろう。
俺は布団の中でごろごろしていた、早く寅三こおへんかなあ、俺はいても立ってもいられず、宿の周りを散歩した。今日のこの空の感じっていいよね、傷が痛いとか、そんなん気にせえへん、だってこの傷は今日で治るよ、絶対治る、治ってみせるて傷がゆうてるね、そんな独り言を言いながら歩いていた。
道の端で薄い青紫色の紫陽花が咲いていて、朝露を吸うているのか、蛞蝓に貝を乗せた変な生き物、即ち、蝸牛が葉っぱの上にぬめ、といた。俺はそれをじっと見ながら、蝸牛のあまりの歩く速度の遅さに、俺は心底蝸牛でなくてよかった、と思った。俺が蝸牛であったなら、いったいうちへ帰るまでどれぐらいの月日を要するのか、家に着くまでに死ぬだろう。ああ、俺が俺で、しらたきがしらたきである、っちゅうことは不思議やなあ。なんで俺は俺でしらたきはしらたきなんやろう。なんで出逢ったんにゃろう。俺が家族を殺してしまったから、かなあ。そうやと思う。俺が家族殺さなんだら、しらたきと俺は会うことはなかった、そんな気がすんのは何故なんやろね。俺の中から生まれてきたような気さえする。俺が望んだから、望まずして俺が求めていたから、だってしらたきに出会う前俺は子供を育てたいなんぞ一度とて考えたこともなかった。しらたきと俺は、子と親ではない。俺はもっとすごい繋がりをしらたきに感じる。それが何かはわからないが、しらたきを失っては俺の生きる意味が消失する。せやから、しらたきとおりたいんやない、俺はしらたきと一緒に笑うたり、一緒に悲しんだり、けんかしたり、いろいろしたいんにゃ、俺としらたきが一緒に生きるということを誰にも、神さんにも奪われたくないだけなんや。奪うことは許されんのや。神をも許さない、そんなことになって生きていけるのかわからないが、というか、俺は神に生かされているのか、まずそれを神に問うて、そうだ、イエス、とそう返って来たならば、それなら俺としらたきを離すのはおかしいでしょう、と言えるが、神は何を考えているのかわからない、俺を殺そうとして躍起になってるのだとすれば、そんな神はいったいどんな神なんだと思うが、そうだとするなら、神は俺を殺すためになんでもする、あらゆる方法をとるだろう、しかしそんな神がこの世を治めていると思うか、俺は思わない、俺がいつから神と言う存在を信じるようになったか、それは家族を殺してからである。俺がそれから随時抱えている罪は、神なくして存在しないものだからだ。己に罪を感じたと同時に神という存在を信じたのだ。俺のその罪に対する苦しみは相当に苦しいものだった、生きている感覚を奪われたのだ、生きている感覚を奪われながらも死ぬことが出来ない残酷な人生を俺は歩んで来た、一思いに死ねたらよかったのだろうが、俺は死ねなかったのだ、死ぬことが怖かった、思えば生きる為に家族を殺したようなものだ、しかし実際殺してしまったことで、俺は自分に被さる自分には到底手に負えないほどの重苦しいものを自分のものとして生きることになった。こんなことになるなら殺さなければよかった、と、しかし俺は思えなかった、殺さなくては俺は多分死んでいたからだ、狂って死んでいたに違いない。自分を生かす為にしたことで俺は生きる心地も生としての喜びのようなものもすべて失ったわけだ。それでも死ぬことが怖いがためにしぶとく生きていたのだ。神は怒っていると、俺は思っていた。だから死ぬことも許されないこの生き地獄に俺を生かすのだと思っていた。しかし、そうではないと感じたのは、しらたきを俺に与えてくれたからである。神は俺に救いの手を差し伸べたのだ。しらたきの存在は俺にとって救いだった。神は俺を許したのだと、そう思ったのだ。やっと許してもらえたのだと。俺はだからと言って、まあそれから特に神に喜ばれるようなことを何もして来なかったのだが。だからかな、だからまた怒ってんのかな。喜ばせにゃ、いかんのだ。どうしたら神を喜ばせられるか。精を出して働き、人の為に何かをする、人に優しくする、人に喜ばれることだけをする、人を悲しませることはしない、人を悪く言わない、やな、多分こうゆうことをすれば神はきっと喜ぶに違いない。そうゆう人間になろう、そしたら、きっと俺にしらたきを戻してくれるに違いない。
俺はそう堅く心に誓い、力強く足を踏みしめまた歩き出した。

なんとなく松河家の方に向かって歩いていた。
すると前方から一人の小僧が老人を連れて歩いて来た。近づくとその小僧は昨日千円の包んだ風呂敷を盗んで姿を眩ましたあの小僧であった。俺の顔を見た小僧は、ひっ、と言い老人の背中に身を潜めた。老人の目は青く濁り切っており一目で盲目なのだとわかった。そんな老人の前で一瞬引け目を感じたが、ここを逃してなるものか、と俺は小僧にわざと憤激を抑えていると見せるように低い声を作って問い質した。
「おい小僧、昨日の小僧やなおまえ、昨日われが知らんと持ってったもん、あれはな大事な人様のものなんじゃ、あれ返さんとどえらいこと起きるにゃ、しゃあからわしィ返したってくれへんけ」
すると小僧はぶるぶる震え上がりながら「あ、あれ、ひ、人に盗られてもうて、わい持ってひん」と応えた。
「人に盗られたて、いったい誰に盗られたんじゃ」
「し、知らん人、み、道でぶつかった時ィ、銭がぶっ飛んでって、何で餓鬼がこんな大金持ってんねて、ゆうて盗られたんや、ほんまやって、信じてください」
「ははは、そんな嘘が罷り通るとでも思っとんのけ、大人をなめくさっとっちゃらあかんど、あんな、嘘付いたら地獄の閻魔様に舌ちょんぎられるて知らんのけ、おいこら、えらい目ェ遭うど、この先、ええんかわりゃそれで」
「ほ、ほんまにゃて、ほんまに盗られてわい一銭も持って帰てない」
「おい、ほた警察行こけ、ふんでわれの家中探してもらお、それがええわ、そないしょ」
すると、小僧は黙りこくって項垂れてしまった。ほれ、見ってん、やぱ嘘付いとった、と思ったその時、爺が突然口を開いた。
「そのわけをわたひが話ひますよってでに、うちィ来てもらえましゅやろかな、すまんこっただふけんろ話しゃば長うなるこってんでふ」
俺は、長い話ていったいなんなんよ、と思いながら、何か気負いが抜けて「わあったわ、爺さん、あんま時間ないけろ、話聞かしてもらおやないけ」と、その話を聞きに俺は爺と小僧の家に一緒に連れ立って向かったのであった。


天の白滝 三十一

しかし、そんな殺意もすぐに蒸発して消えてしまうのだった。それに俺はこの前、家族を殺めたことを後悔もできなくなったのだと思ったけれども、今度は積年の後悔と言った、後悔しているのか、自分は、自分に問い質してもわからない、自分のことがわからない。しらたきに会えない、逢わしてもらえない、こんなことってあるだろうか、あるのだ、苦労して可愛がって育てて来た育ての親よりも産みの親のほうが子供を引き取る権利があると、そう松河家は言う、世間の常識ではそうだと言う顔で俺からしらたきを軽々と奪った。今思ったけど、人のこと散々言っといて、しらたきの意見も聞かずに自分の娘だと思い込み、絹もしらたきの自由を奪っているではないか。いったいどうすればいいだろうか。どうすれば、しらたきに思い出してもらえるか。
門の前にいつまでいても、しらたきに会えるはずもないだろうが、しらたきから少しでも離れるのがつらい、この大きな屋敷の中にしらたきはいるのだ、ぽかんとどこ見てんのかわからん目をして、はては悟り抜いたような真っ直ぐにどこかを見て何か考えているのだ。
空を見上げると、また雲行きが怪しくなって来ておる。梅雨なものだから毎日こんな調子の空だ。まずは、この千円を無くしてはまずいから一旦宿へと戻ろう。寅三が今晩宿へ寄ると言っていた。

宿へ戻った俺は、部屋に千円を置きっぱなしにして宿を出た場合誰かに盗まれるやも知れず、出られひんがな、と思い、しかたないので千円を持ってまた松河家の周りをうろちょろとしていた。時間はもう午を少し過ぎている。
両側が木で生い茂る斜面になった細い道を歩いていた。道は日蔭になっているからひやっとしていて涼しい。猿みたいな声で鳴く鳥や、犬と鵞鳥が合わさったような何の動物かわからないような阿呆みたいな鳴き声がずっと聞こえている。上り坂を超えると、草原や畑や田があちこちにある広い場所へ出た。狭い間の道にしゃがむ人影を見つけて、俺の胸は大砲で打たれたようになった。
朱色地に紫の格子模様の着物を着て肩に届かぬほどの黒髪が頬で揺れている。
俺は高鳴る想いで静かに近づいて行った。
側まで行って、前に俺がしゃがむと、ぎょっとした顔で俺を見上げ、そしてすぐにまた地面を見下ろした。
「こんなところでなにしてんにゃ」震える胸を気づかれぬよう俺は尋ねた。
しらたきは無言だった。いつも他人にはこんな感じだったから、俺は一瞬悲しくなったが目の前にしらたきがおる喜びにどんな悲しみさえも吹っ飛んで行ってしまうのだ。
俺はしらたきが見つめておる地面を見た。赤い甲殻の翅を持った虫がおどおどとしていた。
「この虫見とったんけ」
しらたきは、はよおっさんどっか行ってくれんかなという気持ちを体から滲ませながら、俯いたまま、こく、と頷いた。
しらたきが人間以外の生き物全般を好きなのは前からよく知っている、道の真ん中を歩いていた毛虫を、毛虫は刺すから怖いがどうしても道におると誰かに踏まれてしまうため、それは可哀想だから道の脇の草叢に移動させたいと、葉っぱの上に漸く毛虫を乗せ、いざ草叢に落とそうとすると、毛虫がしらたきの手のほうへ歩き出し、びびってしらたきは咄嗟にその手を放してしまい、前を流れていた川溝に落としてしまい、毛虫は、あっという間に流されて行って見えなくなった、その日、しらたきはいつまでも泣いていた、家に帰っても、ぼくのせいで、死んだ、ぼくが殺したんや、と言って泣いていたのを思い出す。
「この虫なんやずっとおろおろしとんな、なんでにゃろな」
そう言うと、またしらたきは虫を見下ろしたまま、こく、と頷いた。
「もしかして、あれちゃうかな、昨晩嫁はんとえらい喧嘩してもうてから嫁はんが、実家帰らしてもらいまふ、とかゆうて家出てってもうたから、どないしょどないしょてなって困ってんのとちゃうかな」
しらたきはもう六歳の時の冗談を真に受ける年頃ではないのだが、どうしても子供の時のしらたきに話すようになってしまう。しらたきは俯いたままだ。こんな子供騙しの冗談を信じるわけはないのだ。
すると、突然しらたきはすっくと立ち上がったかと思うと「ぼく、探しに行ってくる」と言って歩いて行こうとした。俺は「えっ、なに探しに行くんにゃ」と聞くと「嫁はん」と応え、畑を超えた小さな崖の方へと歩き出した。そんな、無謀な、と思ったが俺はとりあえず着いて行くことにした。崖を猿みたいに登ろうとしているしらたきに「おい、だいじょぶけ」と言いながら駆け寄っているうちにしらたきはひょいと登り終え、俺も崖を登ってしらたきの後を追った。
しらたきは歩きながら急に立ち止まってしゃがんだりして、また立ち上がって歩き出すのを繰り返した、どうやら本気で探しているらしい。しらたきの側におれるだけで俺はものすごい幸福に包まれていた。このまま連れて帰りたいわ。何か思い出させる方法はないにゃろか、俺がいつもやってたこと、いつもゆうてたこと……。
しらたきはずっとしゃがんだまま、また地面を見ている。俺も座って「この虫ちょっと形がちゃうんとちゃうけ」と言った。俺はあっと思い出して、これ、いいかも、と思い、しらたきに向かって大声で怒鳴ってみた。
「この、しょんべん垂らし小僧めがっ」
すると、しらたきはびくうっとなって見るからに怯えた顔で俺を見たから、駄目?あかんかあ、じゃあ、これはどうかな、と思い「しらたき、ちょう、これとこれとあれ、持てきてくれうけ」と言いながら、酒と湯呑みと肴を持って来てくれの動作をした。いつもそれで、しらたきはちょかちょかっと土間へ走って持って来てくれたのだ。しかし、しらたきは怯えた顔のままで動かなくなってしまい、これもあかんか、と思い、ほかなんかないかなあと考えていると、しらたきが立ち上がってぴょたぴょたぴょたと走り出した。
そして、崖端を走ったしらたきはずるっと勢い良く滑り、崖下に転落した。体内が一瞬にして真っ青となった俺が狂乱的に走って行って見下ろせば、しらたきは今にも折れそうな細い木にしがみついてかろうじて転落していなかった。下は渓流が流れておりでかい岩がごつごつしていて落ちると甚だ危ない。慌ててしらたきを助けようと身を乗り出して手を伸ばした。
「しらたきっ、はよつかまれっ」
しらたきは苦しそうに手を伸ばし、後一寸、一寸、とやっと俺の手に掴まることが出来て、さあ引き上げようとしたその時、俺の足を着いていた傾斜した場所が崩れて二人で崖下に転げ落ちた。俺はしらたきの身体を庇う様にして転がったからか、しらたきに大きな怪我は見当たらなかった。「痛いとこないけ」と聞くと「うん」と応えたので俺はほっとした。俺の右肩と左臑が枝で切ったのかざっくり切れており血が流れていた。
俺は「大した傷やあらへんで、大丈夫や」と心配そうに見るしらたきに言い、川の水で傷口を洗い袖を千切って傷口を縛った。しらたきの身体についた泥を落とそうと手を伸ばすとしらたきはそれを避けた。しかし、しらたきはずっと俺を見ているので「どなしたんや、しらたき」と言うと「ぼくの名前、すえやで」と言った。
「今はそう呼ばれてるかも知れんけろ、おまえのほんまの名前はしらたきや」
しらたきは困惑に苦しむ顔をした。その時、上の方から、すえお嬢様、すえ、と呼ばう声が聞こえた。しらたきを探し回っているのだ。しらたきと離れなければならない、俺は心の内で悲嘶の叫びをあげた。ひひひいいいん、ひひいいいいん、と泣いていたが、時間は過ぎて行く、過ぎたらしらたきは直に連れて帰られる。嫌だ、離れたくない。俺は何を思ったのか、しらたきを抱きかかえ、来たほうと逆のほうへと歩き出した。しらたきは嫌がって暴れるし、傷口からは血が噴出しているのがわかる。俺はそれでもしらたきを抱えて歩いた。歩いても歩いてもしらたきは嫌がり暴れた。俺は気付くや実際涙がこぼれていて、何も言わずにしらたきを降ろした。降ろされたしらたきは一瞬悲しげな顔をしたように見えたが、即時小鹿のように走って行き、それから猫のように振り返って俺を見たかと思うと、また前だけを見て走ってった。残った俺はひとり悲泣さめざめの中で、そういえば千円をどこに置き忘れたかということを思い出さなければならなかった。俺の頭上で、雛鳥を探しているような親鳥の悲痛な啼き声が木霊するように鳴り止まなかった。


天の白滝 三十

家族を皆殺しにしたことは話すことは出来なかったが、しらたきを六年前に拾い、行方をくらまし、再会したらなんでか弐拾歳頃の娘になっており、確かにしらたきであることを俺は寅三に話した。
寅三は上品な面立ちで「ほー、そんなことってあるんにゃなあ」と心底不思議だという顔で言った。俺は嬉しかった。寅三に認めてもらえたことで、半分幻のように感じていたしらたきの存在が確かに現存することに自信を持つことが出来たのである。

宵の内に店を出て、酔い心地の残存する中、少し寅三と道を歩いていた。
静かな道の脇の草叢で蛙と虫が鳴いていた。俺は蛙や虫たちが涼やかに鳴く季節が一番好っきゃ。
不意に俺は「寅ちゃん」と後ろから声をかけた。
「なんにゃ」と寅三は透き通った顔で振り返った。
「しらたき取り戻せるまで、どうかしらたきのこと頼む」俺は頭を下げて言った。
「熊やあん、わいと熊やんの仲やんかあ、そない、堅苦しいせんでよう、わあってん、わあってん、熊やん、しらたきちゃんわいがしかと守るさけ、心配せんときな、これから一緒に考えてこおやんか、奪い返す方法を」
俺は愛しさが溢れ寅三をがしっと抱き締め「寅ちゃん素敵」と娘の声を真似て言うと寅三も「熊やん愛してるわ」と両方女のようになってきゃあきゃあとふざけ合った。

その晩は寅三の貸してくれたお金で宿に泊まった。
布団に横になるとしらたきの冷たい目や不機嫌な可愛い顔を思い出しては涙が流れ出すのだった。人間が大の苦手なしらたきが知らない人間たちに囲まれて生きて行くのは地獄のようだろう。早く、早く連れて帰らないと、しらたきを救ってやらないと、しかし連れて帰っても俺のことを思い出さないと同じなのだ、俺もしらたきにとっちゃ知らんだだのむかつくおっさんなのだ。悲しい。とにかく、明日から毎日しらたきに会いに行こう。毎日会っていれば思い出すやも知れない。しらたきが俺を思い出して、そしたらしらたきは俺とまた一緒に暮らすというわけではないかもしれない。また旅に出ると言うのかも知れないが、悲しいが、でもしらたきが記憶をなくしたまま、籠の中に入れられた文鳥のように生きるよりずっといい。俺と暮らさせる為にしらたきを奪うのではなく、しらたきを自由にする為に俺は奪い返さねばならない。しらたきの為になることはすべて俺の為になり、俺の為になることはすべてしらたきの為になるだろう。やくざに度突き回されている時は全員殺してしらたきを奪いたいという考えが過ぎったが、そんなことをしたらしらたきの為にも俺の為にもならない、それに人を殺すことはもうしたくない、これ以上人を殺せば、俺はしらたきに触れることすら出来なくなる、しらたきをどうしても守るためなら俺は殺すが、しらたきはそれも望まない気がする。
睡魔に襲われ俺は目を閉じ、深く眠りについた。

明くる朝、早朝から俺は松河家の門の前にいた。門を叩くと、下男が門を開け「何の御用でございましょう」と聞いた。俺は事を話し、娘に会わしてほしいと頼むと下男は一旦引っ込みまた戻って来ると「すえお嬢様は奥様と御一緒にお出掛けになられました」と言った。俺はここで折れたら意味がない、と「こんな朝早うからどこ出掛けるちゅんでふね、ええから源次郎はんを呼んでもらえまふやろか」と言い、下男は渋そうな顔でまた引っ込んだ。
少し待たされて、源次郎が漸く現れた。源次郎は明らかな険相で「こない朝はよからなんだんね」と聞いた。第一印象がとても親切で優しい源次郎を知っている為余計心が一瞬挫けたが、奮い起こして俺は言った。
「松河はん、おはようさんでこざいまふ、今日から毎日しらたきに逢いに来まっさかい、よろしゅう頼んまふ、それとこれ」と俺は風呂敷に包んだ千円の金を源次郎に差し出し「これお返し致しまふ、持ってて無くしたらえらいこっちゃて、受け取るつもりはないでふさけ」と言うと、源次郎は大きな嘆息をつき「悪いが、もうあんたをうちに入れるこた出来ん、何するかわからいんておとろしいてならんわい、話すんにゃたら、別の場所で話するしかあらへん、娘にも会わすことは出来ん」と言った。
「せやったら、今からわいの話を聞いてくらはい」
「今日は忙しいて、明日にしてくれ」と源次郎は門を閉めようとしたから俺は門戸に手を掛け「待ってくらはい、すぐ終わる話やけ」と言いながら半身を中に入れようとすると、源次郎にどんと胸を押され地面に尻餅を着き、なおも起き上がって、中に入ろうとする源次郎の足に縋り付いて「お願いしまふ」と叫ぶと源次郎は俺を思い切り蹴り付けた。何故かその時親父と源次郎が重なり、まるで親父にされているような感覚になり深い悲しみを感じた。それでも俺は自棄になって足に縋り付くと何度も何度も蹴られ地面に叩き付けられ勢いよく門を閉められた。俺の中に親父に捨てられたような悲しみが覆いかぶさった。釣りが好きだった優しい時の親父と源次郎が一瞬でも重なって映って見えたからかも知れなかった。俺の内部で悲しみの殺意が積年の後悔とは裏腹に生まれ来る事に戸惑いながら、絶望の轟が地響きのように押し寄せて来るのだった。