天の白滝 三十一

しかし、そんな殺意もすぐに蒸発して消えてしまうのだった。それに俺はこの前、家族を殺めたことを後悔もできなくなったのだと思ったけれども、今度は積年の後悔と言った、後悔しているのか、自分は、自分に問い質してもわからない、自分のことがわからない。しらたきに会えない、逢わしてもらえない、こんなことってあるだろうか、あるのだ、苦労して可愛がって育てて来た育ての親よりも産みの親のほうが子供を引き取る権利があると、そう松河家は言う、世間の常識ではそうだと言う顔で俺からしらたきを軽々と奪った。今思ったけど、人のこと散々言っといて、しらたきの意見も聞かずに自分の娘だと思い込み、絹もしらたきの自由を奪っているではないか。いったいどうすればいいだろうか。どうすれば、しらたきに思い出してもらえるか。
門の前にいつまでいても、しらたきに会えるはずもないだろうが、しらたきから少しでも離れるのがつらい、この大きな屋敷の中にしらたきはいるのだ、ぽかんとどこ見てんのかわからん目をして、はては悟り抜いたような真っ直ぐにどこかを見て何か考えているのだ。
空を見上げると、また雲行きが怪しくなって来ておる。梅雨なものだから毎日こんな調子の空だ。まずは、この千円を無くしてはまずいから一旦宿へと戻ろう。寅三が今晩宿へ寄ると言っていた。

宿へ戻った俺は、部屋に千円を置きっぱなしにして宿を出た場合誰かに盗まれるやも知れず、出られひんがな、と思い、しかたないので千円を持ってまた松河家の周りをうろちょろとしていた。時間はもう午を少し過ぎている。
両側が木で生い茂る斜面になった細い道を歩いていた。道は日蔭になっているからひやっとしていて涼しい。猿みたいな声で鳴く鳥や、犬と鵞鳥が合わさったような何の動物かわからないような阿呆みたいな鳴き声がずっと聞こえている。上り坂を超えると、草原や畑や田があちこちにある広い場所へ出た。狭い間の道にしゃがむ人影を見つけて、俺の胸は大砲で打たれたようになった。
朱色地に紫の格子模様の着物を着て肩に届かぬほどの黒髪が頬で揺れている。
俺は高鳴る想いで静かに近づいて行った。
側まで行って、前に俺がしゃがむと、ぎょっとした顔で俺を見上げ、そしてすぐにまた地面を見下ろした。
「こんなところでなにしてんにゃ」震える胸を気づかれぬよう俺は尋ねた。
しらたきは無言だった。いつも他人にはこんな感じだったから、俺は一瞬悲しくなったが目の前にしらたきがおる喜びにどんな悲しみさえも吹っ飛んで行ってしまうのだ。
俺はしらたきが見つめておる地面を見た。赤い甲殻の翅を持った虫がおどおどとしていた。
「この虫見とったんけ」
しらたきは、はよおっさんどっか行ってくれんかなという気持ちを体から滲ませながら、俯いたまま、こく、と頷いた。
しらたきが人間以外の生き物全般を好きなのは前からよく知っている、道の真ん中を歩いていた毛虫を、毛虫は刺すから怖いがどうしても道におると誰かに踏まれてしまうため、それは可哀想だから道の脇の草叢に移動させたいと、葉っぱの上に漸く毛虫を乗せ、いざ草叢に落とそうとすると、毛虫がしらたきの手のほうへ歩き出し、びびってしらたきは咄嗟にその手を放してしまい、前を流れていた川溝に落としてしまい、毛虫は、あっという間に流されて行って見えなくなった、その日、しらたきはいつまでも泣いていた、家に帰っても、ぼくのせいで、死んだ、ぼくが殺したんや、と言って泣いていたのを思い出す。
「この虫なんやずっとおろおろしとんな、なんでにゃろな」
そう言うと、またしらたきは虫を見下ろしたまま、こく、と頷いた。
「もしかして、あれちゃうかな、昨晩嫁はんとえらい喧嘩してもうてから嫁はんが、実家帰らしてもらいまふ、とかゆうて家出てってもうたから、どないしょどないしょてなって困ってんのとちゃうかな」
しらたきはもう六歳の時の冗談を真に受ける年頃ではないのだが、どうしても子供の時のしらたきに話すようになってしまう。しらたきは俯いたままだ。こんな子供騙しの冗談を信じるわけはないのだ。
すると、突然しらたきはすっくと立ち上がったかと思うと「ぼく、探しに行ってくる」と言って歩いて行こうとした。俺は「えっ、なに探しに行くんにゃ」と聞くと「嫁はん」と応え、畑を超えた小さな崖の方へと歩き出した。そんな、無謀な、と思ったが俺はとりあえず着いて行くことにした。崖を猿みたいに登ろうとしているしらたきに「おい、だいじょぶけ」と言いながら駆け寄っているうちにしらたきはひょいと登り終え、俺も崖を登ってしらたきの後を追った。
しらたきは歩きながら急に立ち止まってしゃがんだりして、また立ち上がって歩き出すのを繰り返した、どうやら本気で探しているらしい。しらたきの側におれるだけで俺はものすごい幸福に包まれていた。このまま連れて帰りたいわ。何か思い出させる方法はないにゃろか、俺がいつもやってたこと、いつもゆうてたこと……。
しらたきはずっとしゃがんだまま、また地面を見ている。俺も座って「この虫ちょっと形がちゃうんとちゃうけ」と言った。俺はあっと思い出して、これ、いいかも、と思い、しらたきに向かって大声で怒鳴ってみた。
「この、しょんべん垂らし小僧めがっ」
すると、しらたきはびくうっとなって見るからに怯えた顔で俺を見たから、駄目?あかんかあ、じゃあ、これはどうかな、と思い「しらたき、ちょう、これとこれとあれ、持てきてくれうけ」と言いながら、酒と湯呑みと肴を持って来てくれの動作をした。いつもそれで、しらたきはちょかちょかっと土間へ走って持って来てくれたのだ。しかし、しらたきは怯えた顔のままで動かなくなってしまい、これもあかんか、と思い、ほかなんかないかなあと考えていると、しらたきが立ち上がってぴょたぴょたぴょたと走り出した。
そして、崖端を走ったしらたきはずるっと勢い良く滑り、崖下に転落した。体内が一瞬にして真っ青となった俺が狂乱的に走って行って見下ろせば、しらたきは今にも折れそうな細い木にしがみついてかろうじて転落していなかった。下は渓流が流れておりでかい岩がごつごつしていて落ちると甚だ危ない。慌ててしらたきを助けようと身を乗り出して手を伸ばした。
「しらたきっ、はよつかまれっ」
しらたきは苦しそうに手を伸ばし、後一寸、一寸、とやっと俺の手に掴まることが出来て、さあ引き上げようとしたその時、俺の足を着いていた傾斜した場所が崩れて二人で崖下に転げ落ちた。俺はしらたきの身体を庇う様にして転がったからか、しらたきに大きな怪我は見当たらなかった。「痛いとこないけ」と聞くと「うん」と応えたので俺はほっとした。俺の右肩と左臑が枝で切ったのかざっくり切れており血が流れていた。
俺は「大した傷やあらへんで、大丈夫や」と心配そうに見るしらたきに言い、川の水で傷口を洗い袖を千切って傷口を縛った。しらたきの身体についた泥を落とそうと手を伸ばすとしらたきはそれを避けた。しかし、しらたきはずっと俺を見ているので「どなしたんや、しらたき」と言うと「ぼくの名前、すえやで」と言った。
「今はそう呼ばれてるかも知れんけろ、おまえのほんまの名前はしらたきや」
しらたきは困惑に苦しむ顔をした。その時、上の方から、すえお嬢様、すえ、と呼ばう声が聞こえた。しらたきを探し回っているのだ。しらたきと離れなければならない、俺は心の内で悲嘶の叫びをあげた。ひひひいいいん、ひひいいいいん、と泣いていたが、時間は過ぎて行く、過ぎたらしらたきは直に連れて帰られる。嫌だ、離れたくない。俺は何を思ったのか、しらたきを抱きかかえ、来たほうと逆のほうへと歩き出した。しらたきは嫌がって暴れるし、傷口からは血が噴出しているのがわかる。俺はそれでもしらたきを抱えて歩いた。歩いても歩いてもしらたきは嫌がり暴れた。俺は気付くや実際涙がこぼれていて、何も言わずにしらたきを降ろした。降ろされたしらたきは一瞬悲しげな顔をしたように見えたが、即時小鹿のように走って行き、それから猫のように振り返って俺を見たかと思うと、また前だけを見て走ってった。残った俺はひとり悲泣さめざめの中で、そういえば千円をどこに置き忘れたかということを思い出さなければならなかった。俺の頭上で、雛鳥を探しているような親鳥の悲痛な啼き声が木霊するように鳴り止まなかった。

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