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天の白滝 三十六

助けようとした人間がたった一日後れたがために死んでしまって、もうその喜ぶ顔は見れない、喜ばすことがもうできない、というのはなんとも悔しい思いだった。こんなことなら昨日来ておけばよかったと思ったが昨日来ていたら俺の考えは変わっていなかったかも知れず、だとすると俺が金を取り返した後に老人は同じく息を引き取ったということになっていた、それは哀れすぎる、やはり昨日行かなくて本当に良かったと思う。しかしこの老人はなんで死んだのだろうか。俺は話を聞かせて欲しいと目で訴えながら小僧は泣きじゃくってるから今無理としてその隣の婆に向かって、どうしたの、という顔で伝えた。婆は俺に気づいて何か話してくれるのかなと待っていたら俺の顔を見ながら「わしもあと長ないよってん、身の回り片付けとかにゃらんわい、あんた藤太のそばおってやってくれるかの、わしは去んでまうわ」と言ってのったりした動きで帰って行った。帰ってもうたのはしかたがない、俺は小僧に直接聞くことにした。
「爺はなんで死んだんや、小僧」そう優しく問いかけると、少し泣き尽きたという放心した感じの小僧は爺を見ながら口を開いた。
「じっちゃん今日朝はように一人で出てって、ふんで神社の前で倒れとったて久下んとこのばあちゃんが教えてくれて、ふんで医者に見てもらってんけろ、あかんかってん」
「なんで死んだんかわからんのけ」
「たぶん、老衰とかゆうてた」
「道で倒れとったんに老衰なんけ、そりゃちょうおかしないけ」
「でも医者がそうゆうとったで」
「やぶちゃうんけ、その医者」
うぅと呻いて項垂れた小僧の坊主頭がきれいな真ん丸だった。
「ほで、小僧おまえこれからどうすんにゃ、どっか行くあてあんのけ」
「ないと思う」
「ふた、どうすんにゃ」
「わからひん」
「千円そのままあんのけ」
「うん」
「ちょう持って来い」
小僧は項垂れたまま立ち上がって押入れを開けて布団の奥に手を突っ込み風呂敷に包まれたままのそれを持ってきた。
中を確かめると一円札の札束が十束、数えもしないがそのまま手も付けていないだろう。しかし何故一円札なのだろうか、五円札、十円札、はては百円札まであるというのに、何故松河家は一円札で千円揃えたのか、家に一円札しかなかったからか、一円札で揃えたほうがより大金という感じがして、俺の私利私欲を釣れるとでも思ったのだろうか、まあなんでもいいが俺としては百円札で揃えて欲しかった、しかし百円札を十枚持っていて一枚無くせばもう百円を失うことになる、恐ろしいなあとも思う、まあどっちにしろ俺の銭ではない、この武内宿禰の一円札は一番好きだけれども、どこが好きかと言われたら、この白い鬚がやたら多くてわさわさもじゃもじゃしてる感じ、顔の出てる面積より鬚の面積のほうが大きいところとか俺は好きなのではないかと思う。て、そんなこと今はどうだって良い。小僧はこんな大金初めて見たんやろ、珍しそうな顔で見とる、と言っている俺もそれまで見たことがなかった。
「小僧、千円ゆうたらどれぐらいの銭かわかるか」と俺は小僧に聞いた。すると小僧はううんと首を横に振った。
「おまえがでっかなって、ほで大工になるとするやんか、がんばって働いて、そやなぁ、十四、五年間働いてやっと千円稼げるくらいや、おまえ今何歳や」
「九歳」
「おまえまだ九歳か、おまえの人生はこれから始まるようなもんやな、おまえこれから千円でも五千円でも稼げるけろ、その銭は生きてくための銭や、なくなってく銭や、こなして目の前に千円転がっとったりしいひんにゃで、それがどうゆうことかわかるか」
「わからひん」
「それは大地主の富豪とか大商家の跡取りとか総理大臣にでもならん限り、こんな大金は手にすることさえできんっちゅうことや、そんな珍しい大金が目の前にあんなあ」
「うん」
「この銭が何のための銭かおまえわかるか」
「わからひん」
「この銭はなあ、おい藤太、お前の将来と引き換えの銭じゃ、今すぐねえやんとこ行くぞ、おいここ爺さんひとりおらしとくわきゃいかんよってに誰でもええけおってもらうようゆうてこい、走って行って来い」
「う、うん」
意味が通じたのかどうかはわからないが、俺があまりに力を込めてゆうたその鬼気が伝わったか、藤太は疾駆するように足を空回りさせながら家を飛び出して行った。
爺と二人きりになって、俺は爺に向かって、すまんやったな、爺さん、と呟いた。
神社に願掛けするため、朝早くから出て行ったのだろう目も見えないのに一人で向かうことの危険を伴う命がけの行為を神さんはちゃんと見てくれとったんやろう、しゃあから俺の考えを爺さんの命と引き換えに変えさした。
「ようやったなあ、爺さん」爺の手の上に手を乗せると冷たく、生きている人間の質感と全然違い、違うのにかつて生きていたその肉体がここに確かにあるということのずれた感覚のそのずれの部分は闇のように思えるが、恐ろしい闇ではないのはこの老人が生き切ったという顔で寝ているからだろうか。思い残すことはない、そうやって誰もが死んで行けたら幸せであろうな、生きている間何があったとしても。こうやって死んで行けたことはむしろめでたい事ではないだろうか、俺は沁々とそんな気持ちになって、持ってきた酒を畳の上に転がっていた湯呑みに注いで爺と祝盃する気持ちで一杯これを飲んだ。

藤太が息を切らして帰ってくると「今晩通夜するからみんな来るって」と言い、俺はそれを待たずとして爺に「ちょう行ってくるね」と言い残し、藤太と二人で家を出た。何故そこまで焦っているか、自分でもわからないが、いち早く小僧をどうにかしてやりたい、早くねえやんに会わせてやって、そして姉と弟の再会の喜びと爺が死んだことの悲しみを姉弟ともに分かち合わせたいという気持ちが急かし俺がその二人を傍から早く見てそして感涙したいなあとか思ってしまってこんなにしてまで急いでしまうのだろうかと俺は思った。
雨がまだ少し降っているので小僧には笠を被らせ俺は手拭を頭に巻いてそして千円を懐に入れ、ごわごわなった変な出で立ちで藤太の姉、ちずが働く商家のところへと向かったのであった。


天の白滝 三十五

早くに寝てしまったものだから、早朝も早朝、まだ暗い時間に目が覚めてしまった。俺は今日せねばならないことについて考えた。いつ死んでもおかしくないような年老いた老人と、まだ働かせるには幼すぎる小僧、その二人に今日、怒鳴り散らして千円を奪い返しに行かなくてはならない。それを思うと、気が重くなって、外の雨の音を聞いていると、老人と小僧は今頃そんなことは知らずとすやすやと眠っているのだと思うと、胸の内が縮こまるようであった。しかし俺は寅三の意見に歯向かう事は出来ない。寅三の言ったことは尤もなのである。助けるのならば、自分の金で助けるべきだろう。俺のすべての残っている田や畑を売り払っても、千円には程遠い。地道に働いておっても千円もの貯蓄をするのは難しいだろう。しらたきに出会うまでの以前の俺であるならば、人情を重んじるなんて事はなかったから、何も考えずに行動に移せていたのだが。しらたきに出会って俺は変わったのだなあ。自分でもわからない場所で、他人の心を考えることが身についてきたのかもしれない。他人の苦しみを自分の苦しみのように感じる、そこまでいかないとしても、他人を苦しめることについて自分も痛みを感じるようになった気はする。その俺に出来るのか、出来なくともやらなくてはならない。そうとなれば、どうやって取り返すか考えよう。無難な方法と考えるが、これに及んで無難なやり方などあるはずがない。俺が千円をやっぱり返してくれと言った途端、老人と小僧は絶望するだろう。絶望した老人と小僧から俺は実際に千円を奪い取り去って行かねばならないのだ。ああ、これで俺の罪は増えるようだ。罪と言うのは望んでいなくとも増大して行くようだ。俺は少しでもその新たなる罪を少なくしたい。そうだ、こういうのはどうだろうか。最終的に怒鳴り散らして相手を脅えさせ、捩じ伏せようとするから気が引けるのだ。ここはもう頼み込む姿勢で行こう、まずは俺の身の上話を聞いてもらう、そして、それなので俺もほんまはこの金をやりたいのだが、俺の娘の代金なのだ、この千円は、だからどうしても貸すというわけにも行かない、いつ娘が記憶を戻して俺の元に返るかわからないのだ、そのときには絶対に千円が手元になくてはならないのだと。しかし、それでも素直に返してもらえないときにはどうするか、そう来たらもう俺は暴れ倒して家の中をめちゃくちゃにして、壁を鍬で掘ったりして、狂態を演じ見せ付け、千円を奪い取るしかない。約まるところ、同じである。俺は出来うるあらば、最初から最後まで穏やかに金を取り返したい。そしたら、こういうのはどうか。俺はそれでも千円を返してもらえないようだったら、台所で包丁を探しあてて「ほな、俺死にますわ」といい、包丁を胸に突き当て男涙を流す「だって、そうでしょう、俺生きててもしゃあないですやん、俺に娘帰ってきても、俺千円返せなんだら娘はもう一生松河家のもんになるっちゅうことや、俺は生きてることにもはや耐えられると思いますか、思いません俺は、せやから死にまっすわ」と言い、今に死ぬと言う演技をしてみせる。すると、やめなさい、という者は、おるかと言うと、老人は目の見えないから、いったい何をしているかちっともわからない、目が見える小僧は子供だから「やめろ」と叫ぶこともしない、ただ事の成り行きを切迫しながらも見ているだろう。誰も止めてくれない、と言うことは俺は実際に死ななければならないのか、俺は死なないよ、あほんだら。可哀相な話だがここは、心を鬼にしてことに及ぶしかないだろう。
試行錯誤している間に夜は明けて来て、俺はしらたきに想いを馳せると喪失感に打ちのめされては胸から腹にかけて苦しくなるのだった。しらたきに逢えるのは次はいつの日だろうか、俺はそれを厖大な光明としているから、この身にこれから降りかかる困難も罪も自分のものとして受け入れることができるのだ。俺は心を強く持つことが出来たので、その態勢のままそれから朝が少し過ぎるまで家の中で待っていた。

あまり朝早くに行っても、それはなんだか可哀相なので、と言ってもどの時間に来ても変わりはなく可哀相な話なのだが、俺は丁度少し朝飯を食ってのんびりしてるかなという時間に出向くことにした。行く前に腹ごしらえをしてから行こうかとも思ったが、腹が満腹しては出る気迫も出ないような気もしたから空腹のままで行くことにした。
寅三の家から尾上家までは、松河家に行くのと逆のほうへ歩くのだが、それほど離れてはいない、具体的な言う言葉などを考えているうちに、すぐに尾上家の前まで来てしまった。
俺はその戸の前でいかつい侠客になった自分を演じ、豹変する俺、こんな感じかなとかを作ってみたり「いてこまされたないのんやたら、素直に返してもらえませんか、この通りや頼んます」と優しく言う台詞を頭の中で復唱してみたりして、よしこれで行こうと決まって、深く呼吸をひとつして、戸をドンドンドンと若干強めに叩いた。にわかに盲目の老人か、阿呆面の小僧かどちらかが出てくるだろうと思っていた。しかし待っていても誰も一向に出てこない。俺はもう一度今度はもっと強めに戸を叩いてみた。そして「おい、おらんのけ」と怒鳴ってみた。それでも誰も出てこない。俺は戸を引いて「邪魔すんで」と言いながら中に入った。すると家の中には誰の気配もなく、老人も小僧もいない。どういうことだ、まさかあの二人俺に千円を取り返されるのは嫌で二人してどこかへ逃げたのか、しかし家の中はそのままである、逃げるなら全部持っていくだろう。だとしたら二人はただどこかへ出かけているだけなのか、俺が今日来ると言ったのに、いったいどこ行っとんにゃ。しゃあない、また時間開けて来るしかあらひん。
俺は半ばほっとした気持で、飯屋に向かった。
じとじととした空気中にあって蒸し暑く、食欲がこれといって湧かない感じであったが、店の暖簾をくぐって旨そうな匂いを鼻に吸うとなんとなく食欲が少し出てきてうどんと豆腐を注文してこれを食らった。暑かろうが、熱いうどん、温かいものを食べるととても心が落ち着く。でも豆腐は冷奴で、これは熱いうどんと熱い豆腐ではいくらなんでも熱すぎるからである。熱いうどんの通った咽に次は冷たい豆腐がすっと通る、これが旨いのだ。
腹も膨れて元気になったことやし、良かったなあと喜んでいられない、これから俺はひとつの家族をどん底に突き落とさなければならない。いや、元々どん底におった家族をいったん救ったと見せかけたのも束の間、それはまやかしでしたと宣告、絶望のどん底、ドン族にまた戻すだけのことである。見知らぬ家族を助ける、そんなことはやっぱり俺にはできませんでした。俺は薄情者だ、極一般的な。やはり己を捨てて他人を助けるなんてな事は情も情、本物の情がない人間でないと無理なのだ、慈悲深くなるには己の欲を先決していてはなれない。俺一人が生きて行く為の千円だったらどうだろうか、それでも俺は自分を優先するか。わからない、俺独りだった場合死んでるみたいに生きて行く為になるが、それでもこんな事態になった場合どうするか。わからない。今の俺にはかつて独りでいたときの俺を考えられないのだ、信じられないと思う、しらたきの存在を知らずに俺はたった一人の孤独の中よく生きていたなと思う。しらたきに出逢ってからしらたきといない俺の存在が考えられない。しらたきと出会ってそれまで俺の見えてなかった目が開いた。確然として開き渡って、何を見たか、その眼は何を見たか、その目はしらたきしか見えなくなった。しらたきの事しか考えられなくなった。しらたきと二人で生きていくためなら何でもする、なんでもする、他人を不幸に陥れることなど朝飯前ではないのか、何故ここで疑問系なのか、それはしらたきはそれを望んでいるのかと言うことが俺には引っかかるからである。俺にはしらたきが俺と同じ事を望んでるとは思えないのだ。だからしらたきは旅に出た。俺と一緒に生活することを第一に考えていないと言うことだ。と言うことは、俺ひとりの我欲のために尾上家を見て見ぬ振りをするということになる、俺がしらたきと暮らして行きたいがために、寅三にええ顔して協力してもらわなくてはならないために、なんて浅ましいのだろうか、こんな考えの俺の衷心を知ってしまって、それを悲しんだしらたきは俺を変えるために旅に出たのではないか。だとしたらこれから俺が起こそうとしている行いは間違っている。それをしたばかりにしらたきが戻って来ないとするならば、何の意味で千円を奪い返せねばならないというのか。それにやっぱり千円は取り返すのをやめたと寅三に言って、それなら、もう協力するのはやめる、なぜならそんな奴は嫌いだから、みたいな事を寅三は言うだろうか、寅三はあの美形の下に吃驚するような厚い情とものすごく深い孤独を持った人間だと俺は思っている、その寅三が俺が反抗したからと言ってもう手を貸すのはやめるとかは言わないだろう、昨日の蘭も言っていたではないか、普段は人と深い付き合いを持たない寅三が見知ったばかりの俺にここまですることは珍しいことだと、それは寅三が俺を認めているからではないだろうか、そうだと俺はすごく嬉しい、だから寅三を試す、ではないが信じて逆らっても良いのではないだろうか。だとするならば、もう俺はこの後老人と小僧を甚振る事をしなくて良い、その千円、やるわ、とは言わないが、千円貸ィたるわ、と言えば良いのだ。俺は重荷がすっと取れた気持になって、そや、酒の一本でも買うてったってあの伊兵衛という老人と祝い酒でも飲みたいな、と思い一升瓶を買って俺は快然と店を出、尾上家に向かってなにやら早く喜んだ老人と小僧の顔が見たく、わくわくしながら歩き出した。
俺の顔を見た二人の憂懼な顔が俺の発する一声を聞いた瞬間、ふぁあっと安心して喜ぶ二人の顔を思い浮かべては、ははは、俺はそう言えばそんな良いことを今まで他人にしたことはないなあ、弥五に銭をやったことがあるが、あれは結局しらたきを廓から取り返せたのは弥五の銭のおかげということになる、あ、俺、弥五に銭返したらないかんのんか、と思いながら道を歩いて、尾上家が眼と鼻の先になって、近づくと俺は、あれ?と思った。
なにやら尾上家から人が出たり入ったりしているのだ。なんだろうと思いながら俺は開いた戸口から中を覗いた。中には布団に寝ている老人と、その側で泣いている小僧とそれを宥める老婦の姿が見えた。俺は黙って入ってって小僧に向かって「おう、どなしてんや」と言いながら居間に上がり、寝ている老人を一瞬見て、向き直る瞬間違和感を感じた俺はもう一度老人を見た。老人は死んでいた。小僧を見ると泣いて鼻水を垂れ流して鼻水が口に入っている、小僧を優しく撫でながら婆も泣いて手拭で目を押さえている。さっきまで晴れていたのに雨がしとしとと弔うかのように降り出してきた。俺は黙って老人の前に座り老人のそのすべらかな冷たそうな肌の感じをずっと見ていた。真っ暗闇の中で生きてきたこの老人は、今は目の前に闇さえもないのかと思った。心が無響となってとても遠くに行くような感覚になって行くようだった。