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天の白滝 四十

夜明け方、寅三はやってきて俺に何度も話しかけているのだが、なにを言っているのかが攫み取れない。
「うわっ、熊やんえらい熱あるやんけ」そう言ったのが聞き取れたので、あ、俺熱あんのかと思い、しらたきに移ってしまうではないか、と寅三に向かって声を出すのだが、舌が上手く回っていないような感じでしか喋られない。何度も聞き返され、二三度繰り返す。
「はひょう、しらはひ、ふれて帰っれふれ」
「はよう、しらたき連れて帰ってくれ?」
「ほう」
「わあった、わあったけろ、明日看に来るさけ、安静にしときや」
「ほんなん、めひ食うれ、屁えこいれ寝はら治る」
「そらええこっちゃ、けろ心配やさけあいた薬持て来るわ、ほたしらたきちゃん去のけ」
俺は帰ってしまう前にしらたきの顔が見たいとその方を見やるのだが、ぼやんとしか見えず、どんな顔で俺を見ているだろうかと気になった。
二人が帰った後、俺は気を失うように眠りにと入った。

朝か午が来たような気配が外からしている。俺は夢と現の間らへんの微睡の中で昨日のことを憶い返していた。
川からしらたきを負ぶって連れて帰った。行きしのあの足の重みは何処へやら、帰りしの俺の足の軽さはまるで空中を蹴っているかのようだった。しらたきを負ぶっている安心感は俺のすべてを満たしてゆくのだろう。しらたきはちくとも嫌がらず俺の背中で呼吸をしていた。家に帰ってよく似合うている白藤色や薄杏色の浴衣から、白と薄墨色の市松模様の浴衣に着替えるように言い、その間俺は湯を沸かしていたのだが、着替えたけ、と振り返らずに聞いても一向に返事が帰って来ないので振り向くと帯をうまく結べずにまごついておった、俺はふっと頬が緩んで、そういやしらたきはまだ蝶々結びがうまくできんやったなと思い出した。俺はしらたきの前に膝を付いて、鹿の子絞りの入った焦茶色の兵児帯を後ろでなく前にきゅっと結んでやると、涙が零れそうになり、「おおきなったなぁ」と言い帯の蝶々の中に顔をうずめた。
素麺を食い終わったしらたきはまたしくしくと泣き出した。
「泣いてばっかおったら鵲も悲しがんで」俺がそう言ってもしらたきは泣くばかり。
「おまえのせいで死んだんとちゃう、あいつはああゆう天命やて始めから決まっとったんにゃ、今頃天の川を自由に飛び回っとるかもしれんで」するとしらたきは赤く泣き腫らした目で俺に問うた。
「自由になるっちゅうことは死ぬっちゅうことなんか」
「そうと決まっとるわけやあらひんが、あの鵲に於いてはそうやったか知れん、ずっと狭い鳥篭ん中に入れられて暮らしてたかも知れんやろ」
しらたきは何か考えるような顔つきで外のほうへ見向いて、そして言葉を放った。
「自由ってそんなええもんなんやろか」
俺はしらたきのあどけなさの残る横顔を見詰めながら言葉に詰まった。しらたきがまるでまだ生まれて此の方一度とて自由というものを経験したことがないと言う風に言ったように聞こえたからだ。悲しみに暮れながら俺は言葉を振り絞った。
「自由っちゅうのは人によってはええもんになるんや、それは欲しがっとる人にはええもんになるやろ、しらたきおまえは自由っちゅうのんが欲しいか」
「ぼく自由よりも欲しいもんがある気ィがする」
「それはいったいなんにゃ」そう聞くとしらたきは一瞬憂え顔になったがすぐに確信に満ちた顔になって「それはぼくがわかることやない」と横を向いたまま応えた。
渾沌な気持ちになって「ほた、誰がわかるんにゃ」と聞いたが、しらたきは向き直ると俺の二つの目の中心部をじっと見ているだけで何も応えなかった。俺は不安になったが落ち着いてしらたきに話した。
「おまえがもし、ほんまの心で俺んとこに戻って来たいと、そない思たら、そんときはしらたき、いつでも戻っといでや、お前はまだ子供や、周りの事は考えんでええ、俺はずっと待っとるさかいに、おまえが帰って来んのん待っとるさかいな」
そう伝えるとしらたきは目まぐるしく何かを考えているように視線が俺の顔中を走った。そしてふとしらたきから出た言葉に俺の体は垂直に稲妻が走り抜けたようになった。
「あんさん」
「いっ、いいい今なんちゅうた、しらたき」
「ぼく、そう呼んでたことを今思い出してんや、あんさんて呼んどったんやろ」
俺は感激のあまり忘我に陥って咄嗟に返事をすることさえできなかったが我に返るとしらたきを抱き上げて膝の上に乗せると「もっかい呼んでくれるけ」と頼んだ。しらたきがあんさんと俺を呼ぶ、頭が天に昇った感じになって事実頭がふらっと来て俺は後ろに倒れ思い切り後頭部をぶつけて「あいたっ」と言うと、俺の膝の上にちょこんと座ったしらたきが声を出して笑った。しらたきの笑った顔、嬉しそうな顔、お天道様の何万倍もまぶしいしらたきの笑った・・・・・。

ソオラアヨーイトーコサーサアノオヨイヤアサーッサ、エー。みんなが楽しそうに河内音頭を踊っているから俺も踊っている。でもここはどこなんにゃ、まあええか。踊りつかれて近くの河畔で休んでおると俺の目の前に何かが跳ねて騒がしい。覗けば石で囲まれた生簀の中に一匹の半透明の白魚みたいな魚がまるで俺に話し掛けているようではないか。きっと外に出してほしいとか言っているのだろう、そう思った俺は白魚を手で掬ってやると、ありがとう、と半透明の声で俺に礼を言ってぽちゃんと逃げてすいすいと泳いで行った。ええことした、俺はやっとこさええことができたやんけ、もう死んでもええんかな、あれ大事なもんなんか忘れてる。祭りの場所に戻ってみると、静まり返って誰もいない、俺は取り残された櫓に上っていっぺんやってみたかってんよね、と音頭取りのまねをして歌っていると真っ暗だったはずの空が突然真っ黄色になって、空からうねうねと何かが降りてくる。近くまで降りてくるとそれはなんとも阿呆みたいに長くて大きな白魚であった。そしてかわいい目玉の白魚が俺に言う。「おまえをええとこに連れてってやる、早くわしの背中に乗れ」しかし俺はそれを断る。だいたい白魚が言うええとこが人間の思うええとこに思えない。白魚はそれに激怒する。「それならおまえの大事なもん持って帰る」と云って俺の家のほうへ向かって飛んで行った。俺は取られてたまりますかいなと激憤して白魚より先に家着いたらあ、とおもくそ走る。すると白魚は白魚大群連れて俺の家の周りをもう既に囲んでいる。しまった、遅かった、こうなったらもう俺はお前らを踊り食うど、と叫ぶと白魚大群をどこから持ってきたのかどでかい網杓子で一気に掬うとまたどこから持ってきたのか酢醤油の瓶の蓋を開け、網杓子の中の白魚大群めがけぶちまけるとそのまま吸い尽くしてやろうと思ったその時、家の中から出てきた先程の白魚親分が何かを頭に手拭を頬冠りするかのように巻いてぴょほろろろおんとかなんとか口笛かなんか吹きながらむかつく顔で泳いで空に昇って行こうとしている。待たんかいわれ、われの頭に巻きつけているその布、それは俺の俺の大事なもんやんけ、返しやがれあほんだらが、と俺は白魚親分の尻尾を掴んでぶんぶんと振ると尾がちぎれてちぎれた部分から何百万もの白魚大群が俺に飛び掛ってきて、今度は逆におまえを酢醤油につけて食うてもうたるわ、と一斉に声をそろえて半透明で言われて、それだけは勘弁してけろ、酢醤油付けで食われるならまだ山葵醤油漬けで食われるほうが少しはましだと思う、とか言っている間にも俺の布が、昇ってゆく、待ってくれ、待ってくれ、俺の、俺の大事な、俺の愛娘なんにゃ、白魚、しら、うお、ちゃうわ、しら。

外から涼やかな風が入ってきて、俺は目を開けた。何かが揺れている。簾を通し入ってくる夏風にしなやかに舞っている、柔らかなそれは光を透き通らし白く揺蕩う、しらたきが昨夜つけていた帯であった。昨夜その帯を簾の上のところにかけて干したのだが、寅三が忘れて帰ったようだ。俺はその中空をふわりふわりと舞い踊る帯を見ながら、まるで天女の羽衣のようやなぁと思い、しらたきが羽衣をつけて俺のもとに降りてくるところを夢想しては、しらたきが無性に恋しくなるのだった。しらたきぃ、しらたきぃ、と言いながら俺は熱にうなされていた。


天の白滝 三十九

近くに流れる小さい川縁に建てられた共同の風呂小屋の中を覗いた寅三は振り返ると嬉しそうな顔で「開いとるわ」と言い薪をくべ始めた。
「ここ俺入ってもええんにゃろけ、俺、村のもんとちゃうしやね、見つかって何や言われるんちゃうかいな」
「なにちょろこいことゆうとんにゃ熊やん、ひとりんとき見つかって何にゃ言われたら松河んとこの寅三んの従兄や、とでもゆうたらええね、それでひつこうゆうてくる奴ァおらんやろ」
「ほな、そないゆうわ」
「しゃあけろあれやで、最初ィ気ん弱いとこ見せたらつけ上がりよんさけ、やくざの熊やんで通すんがわいええ思うんで」
「そら、われの従兄がやくざや思われてまうけろ、ええのけ」
「ははは、そいたらわいの評判も上がるか下がるか見物や、おもろいがな」
「下がってもおもろいんけ」
「村のもんなんかにどない思われても構うこたないね、もう焚けとるで、熊やん先入りい」
「俺は後でええわ」
「熊やんはわいのあんにゃんやさけ先ィ入ってもらわな困るんにゃ」
そう言われてぐんぐん背中を押され俺は狭い脱衣場で帯を解き着物を脱いで、ざぶんと木桶で出来た湯船の中へと入った。
「湯加減どない?」
「ああー、ええ加減ぬくいわ、気色ぇえわあ、ひっさしぶりや、風呂」
「ははは、やっぱ夏でも風呂は気色ええやろ、川で行水ばっかしとると鴉なんで」
「ほんまやのお、毎日入りたいわ」
湯気がむんむんと上がる中に寅三が腕を伸ばして湯桶で湯を汲んだ。
「あちっ、糞熱いがな」
「そう?俺これくらいが好っきゃわ」
「わいは温めが好っきゃて、ちょうこの熱湯で垢こすっとこ」
「はは、熱湯ちゃうやろ」と笑いながらも、何か頭がくらくらとして来るのだった。もしかして自分で感じるよりも湯は熱いのだろうか。その間にも寅三は機嫌よく何か喋っておったがいったい何の話をしておるのかわからなくなって来て、ひとつ理解できた言葉は「すえぶろ」と言っているのがわかったのだが、俺はその言葉に湯に入りながらも湯冷めするような感覚になってしまった。すえぶろて、なんにゃ、まさか、す、すえの入っとる風呂場覗いてもうたとか話してんちゃうやろね、ははは、死ぬる。
「おい、熊やん、いつまで入ってんね、湯で蛸なんで、てもうなってんやん」
「ちょう、やばい、逆上せてもた」俺はぐつぐつ煮え滾っているかのように思える五右衛門風呂からまるで岸辺に上がるセイウチのように洗い場にずべん、となった。
「ちょう水汲んで来るさけ待っとき」と言い寅三は川で水を汲んで来て俺の体にばしゃっと勢いよくかけた。俺はその間、寅三は素っぽんぽんで川原へ水を汲みに行ったのであろうかと心配していた。冷たい水をかけられ、井戸水を飲ませてもらって俺の体は鮮魚のようにぴちぴちぴちとはならず、ぐたんとなったまま洗い場にぐでんと横になっていた。それでも寅三が風呂に入っている間に俺はどうにか体を洗いたいと思い、横になったまま湯に浸けた手拭でごしごしと体を擦った。
気分が本復したところで風呂屋を出て、辺りはまだ宵の口にもなっておらず祭りにはまだ時間が早いとそこいらをぶらぶらと二人でしておると道の向こうから見たことのある歩き方で歩いてくる女が視界に入った。俺らの姿を見つけるや否や、女は走り寄って来たのだがおれは気持が後退り。
「あ、蘭や」寅三が特に何の感情も込めずに言った。そこへ走ってきた蘭は俺を咎めるかのように尻目に見て寅三に話しかけた。
「どこ行ってたんよ」
「どこて、風呂屋行っとったんにゃんけ」
「屋処行っておらんかって探してたんよ」
「まだ来ると思てひんかったんにゃ、そりゃすまん、ておい、ちゃんと待合の場所に来てんか」
「行ったわよ、そこにおらんかったからここに来たんやないの」
「時間早いゆうてんね」
「もう宵宮始まってるわよ」
「あー、あー、あー、ちゃうがな、おまえは阿呆かい、ははは、ちょいとこっちィ来なせえ」と言いながら寅三は蘭を連れて俺から少し離れ何かこそこそと耳元で話していた。俺は何かなあとそれを見ながら二人は仲がえろおよろしいんやなあと思うと、この前のことがとても、蘭が俺を、ではなく、俺が蘭を侮辱、陵辱した、みたいな気持になって甚だ心苦しくなってくるのだった。待っている合間に俺は訳もなく石ころを取って狭い川にポチャンと落としたり、石ころを蹴って川に落とそうとして草履も一緒に飛ばしてしまって川に入って取りに行ったりをしていた。
兎角、はよう酒が呑みたい、とそう思った俺に話が付いたらしい寅三が近寄ってきて「熊やん、すまん、わい大事な用事思い出してもうたんにゃ、すぐ帰るよってにそれまで待っとってくれんかな」と言うのに、蘭とすぐ離れられることにほっとした俺は「おお、ええど、なんぼでも待ったんで」と応えた。
「おおきすまん、ふたわいちょう駆け足で行てくるさけ、小一時間もかからん思うけろなかなか来んやったら、あっこの近場のでらい川あるやんか、あっこんとこ渡らんで待っとってくれんかな、渡ってまうとあっこ牛車がようさん通るさけ邪魔ィなんにゃわ」
「おお、ほなそこ渡らんで待っとくさかい、気ィつけて行っといで」
「うぃ、ほたら行てくゥわ、蘭、行こけ」
蘭と並んで歩いて行く寅三の後姿を見ながら俺は、頼むから早いこと帰ってくれ、一人が耐えられひん、あ、しかし祭り行っても蘭がおれば俺ずっと邪魔者扱いされるわけやん、そんなん俺嫌だわ、あ、蘭の口調が移ってもうたじゃないの、どんならんわ、と途方に暮れる思いであった。
宿に一旦戻ってこの待ち時間に俺は何度酒を飲もうと思ったことか!俺の頭ン中が箆棒に孤独を恐れていることを一人になってみて気付いてしまったという事は、なんという因果か。こんなことになるとわかっていたなら、いくら蘭でも一緒におってもらったほうがまだしも良かったはずだ、ちょうあんた嫌かも知れんけろ、一緒に宵宮回って待っとかへん?とか言えたのだ。俺はなんて他人を利己的に扱うことしか頭にないのか。こんな俺を何故寅三は慕うのか、わからない。俺は今なんにもないと思う。今の俺なんにもあらひん。ここから俺がどんな風に歩いて行けばいいのかを俺はわからないというのに、そんな俺を慕ってくれる人間の為に俺は何が出来るというのか。考えることさえやめさせてほしい、こんなことを考えることに意味はあるのか。俺はいったいなんどき失ったのか。俺はあの帰り道に失ったのだろうか。そうかも知れない。あの帰り道に何があったのか思い出せないのだ。遠い昔のことのように思える。昨日のことなのに。あの帰り道、俺は確かに失ったのだ、失った、何をか、名を呼べなくなった存在を。もうひとつの名前は呼べんにゃけろなぁ。すえ、すえ、ちゅうとった、そう呼んでいた、その存在に向かって、すえ、と、まるで恋人を見るような視線で見詰め合っていた。すえは俺でない人間に向かって、微笑んでいたのではなかったか。その微笑みかけたそこに立っている人間、俺知ってるわ、あれは辰次郎やったな、なんで俺今まで忘れとったんにゃ、あの帰り道に見てもうたんやった、辰次郎とすえ、が仲睦まじそうに歩いてたところを。それくらいで、はは、たったそれだけのことで、この喪失感とか、笑う、はは、この底無しみたいな喪失は何者なんにゃ。
俺は居ても立ってもいられなくなり宿を出て待合の場所まで歩いた。もうじきに夜の帳は降りて来ようとしていた。俺は苦しさのあまり闇に包まれてしまいたい思いながら足を引き摺るようにして歩いた。一足、二足、と着実に足は前に進んでいるのに、足の裏に付いている黒い影のようなものが粘って離れず俺の足跡にへばり付いたままそこにあるような気がして俺の足は酷く重かった。俺の歩いて来た痕跡はすべて真っ黒な粘体と化して、いずれその黒くおぞましい粘体に俺の現今も包まれ誰の目にも見えなくなってしまうのではないかと恐怖に陥った。俺の目は今恐ろしい目になっているのではないか、そう思った俺は眼をつぶり震える手で目を覆った。目を覆いながら歩いた。そうして歩いていると、ずさささささあ、と転げ落ちた。目を開けると目の前には横軸に白く大きな帯が敷かれていた。川音が静かにしていた。それは川であった。底に敷きつめられた白砂が月明に返照している。この光り耀く川に身を清めれば俺の引き摺ってきたものは洗い流されるだろうか。そんなことは起きない。だけれども、この川は俺を誘うかのようにあんなに眩くもそこに流れているではないか。俺はこの川を渡って何処へ行くのか。ゆく場所はあるんやろか。一層のこと、この川の底に沈んだほうが俺はゆく場所があるのではないのか。ぼんやりと俺は立ち上がると川に向かってじゃり、じゃり、と砂を蹴り進んだ。
その時、前方に声が聞こえたような気がした。
「ぼくのことおぼえとおか」
川の向こうに俺の、俺の、存在がまさしく立っていた。俺は涙交じりの声で叫んだ。
「なにゆうとんにゃ、忘れるわけあるかい」
「ぼくのほんまの名前なんやったっけ」
「おまえのほんまの名前、忘れへんよ」
「教えてや」
「おまえの名前はな、おまえの名は」俺は声が出なかった。何故俺は名前を呼べないのか、代わりに涙ばかりが目から溢れた。
「忘れたん、ぼくも、忘れた、これでよかってんや、ぼくの帰るとこないんや、ないんやな」遠く離れているからどんな顔で話しているのかがわからない、声は震えているように聞こえた。
その瞬間何かを川に放ったのか、ぱちゃん、と音がした。その辺りから突然、クワッ、クワッ、と鴉のような鳴き声が響いた。前方を見ると、今に川に入ろうとしていた。俺は叫んだ。
「待て!俺が取ってきたるさかいそこで待っとけ!」俺は着物と草履を脱ぎ払ってばしゃばしゃと川に入って行った、広い川なだけあって段々と深くなって行く。流れは溶々としているから流されることはないが、深さが大分ある為泳ぎの下手な俺は遮二無二泳いだ。風呂敷に包まれた箱のようなものが浮かんでいて、そこからクワッ、クワッと聞こえる。俺はそれを捕まえると傍に見えた岩礁の上に乗り上げて包みの結びをほどいた。中には籠に入った鴉の一回り小さい鳥が助けを求めるように鳴いていた。ふと前方を見ると、そこに姿が見えない。水の跳ねる音がして横を見ると向こうのほうで溺れて手をばたつかせている。死に物狂いで俺は助けた。岩礁の上でぐったりと首を垂れており、泣きながら俺は口に空気を吹き込んで胸を強く押すのを繰り返した。いくらやっても変化が見られなかった。俺は強く抱きしめて泣き叫んだ。
「し、し、しぃ、しらたきぃっ」
しらたき、しらたき、しらたき、聞こえるけ、俺の声。おまえは俺のしらたきなんやで、わかるか、それが、どうゆうことか、俺、遅かったんか、おまえ死んでもうてから、名前呼べても、おまえ、死んでんのか、なあ、なんかゆうてくれよ、しらたき、しらたき、俺の、俺のしらたき、しらたきい、しらたき愛してる、愛してる、愛してるんや、戻って来てくれ、頼む、しらたき、俺が死んでもおまえは生きててほしいんにゃ、しらたき。
その時、しらたきの身体がどくんとなって突如激しく咳き込んで水を吐き出した。
「しらたきっ、おまえ、おまえ」うわあっと俺は声を出してしらたきにしがみ付いて泣いた。しらたきが声を発したので俺は身体を剥してしらたきを見た。
「ぼくが鳥殺した」
籠の中を見ると、鳥は息絶えておった、この鳥は確か鵲という鳥であろう。寅三の遊び心がこんなことになるとは寅三は夢にも思っていなかったのだろう。
「ぼくはどうすればいい?」しらたきは黒く光る目から大粒の涙をこぼしながらそう俺に向かって言った。
「おまえは、最初俺だけを見とったんにゃ、けどおまえは何かを知って、俺を見てんのが苦しくなってったんやろな、それで俺から離れた、おまえは記憶を全部失って俺を拒んだけろ、俺は、俺はずっとおまえのこと見とるさかい、安心せえ、おまえはこれから生きてくんや、何があっても、俺も生きてくさかい、いつか一緒になれるんやも知れん、それはわからんことや、今はまだ」
「わからんの?」と不安そうな顔でしらたきは俺に聞いた。
「俺がおまえだけを愛してるっちゅうのはわかるよ、それだけは、わかるか」
しらたきは首を横に振りながら言った。「いつかわかる日来るん?」
俺はしらたきの頭を撫でながら応えた。「ああ、わかる、おまえわかるわ」
よろこびとかなしびが一緒くたになったような涙が俺の目から落ちてしらたきの手の甲の上に跳ねて飛散した。

しらたきを連れて俺は棲家に帰った。鵲を土に埋め、俺としらたきを繋いでくれたようなこの鵲に俺は手を合わし感謝した。ぬれた浴衣を着替えさして、二人で祭りには行かず、ちょうどあった素麺を湯がいてしらたきと一緒に食った。けつねうろんしか目になかったしらたきが素麺をうまいとゆうてくれて俺はほっとした。寅三がずっと迎えに来なければええのになと思ったが、寅三のおかげで俺はしらたきとこうしておれるようなもんや、帰ってきたら礼言わにゃ。
それまで俺は思いきりしらたきを何べんも何べんも抱き締めたりしたから、しらたきは疲れて眠ってしまい眠ったしらたきを抱いて俺も眠った。


天の白滝 三十八

棲処に帰ると、もう即寝た。何も考えたくないなぁと思って、酒飲んで即俺は寝た。でも横になっていると寝られるまでにいろいろと考えてしまう。何をええ気んなって俺は善人、義人みたいなことをしようとしてんねやろう。人の銭で仁徳も糞もあらひんやん。わかってたよ、わかってたけれど、俺はやっと、やっと人に何かええ事をしたいとそう思えるようになったって、俺は、俺は思ったんですけれども、俺は向いてないんやろか、そんな人間にはなれないということを今回のことで俺に示し表し教えられたのであろうか。俺はもう一生善行を行うことはできない、死ぬまで罪人、赦されないつみびととして苦しみ生きて死ねということか。罪を贖うには善い事をしていてもむだで、地獄のような苦しみの中におらねば到底贖えることはないということか。悪業の猛火の中でおれはひとりいつまでも踊り狂っていなければならないのだろうか。俺は最も愛する存在を失ったのだろうか、最愛なるその名を、俺は呼べなくなっているのだ、仮の喪失というものが俺の外側で成り立っているもので、本当の喪失というものは俺の内側で成り立っているものだとするなら、俺は、本当に失ってしまうのか、名を呼ぶことができなくなった愛する俺の存在を、俺の存在、俺の中にいた、ずっといた愛なる存在、俺の、俺の、おれ、の、あかん、呼ばれひん、どうしても。涙を流すこともできなくなってしまった。言葉も、体も、心も成り立たなくなってしまって、俺、俺、何処、おんねやろ。あいうえおかきくけこさ、さ、さ、さ、さすせそ、さの次の言葉が呼べない、とうた、ちず、いへえ、さごろう、えいじゅう、とらぞう、やご、たつじろう、げんじろう、きぬ、みんな呼べんのに、俺の愛する、いっちゃん愛するものだけ呼べない。俺、忘れてくんやろか、母親の記憶を忘れたように。誰もおらんようなって、死んでくなや。殺したんやった、俺、自分で殺したんか、記憶、そうやったっけ、覚えとらん、明日朝来るんかな、来るん?俺に、どないしたっちゅうねん俺、何があったか俺は教えてくれんにゃ俺に、俺が俺なのに、明日考えとくわ俺、考えとくわ、もう寝え、はあ、寝。
そうして俺は深く眠りに就いた。

翌朝、俺は一度目をさましたが、また眠った。
魚たち、俺の好きな魚たちを飼っているんだけれども、魚が食う魚、貝、なんか生き物たちをやらねばならない、魚を飼っている以上、生き餌をやらなくてはならず、魚や貝、いろいろ捕まえてきてそれを魚に食わす、飼っている魚はそりゃ可愛い、しかし餌として捕まえてきたのもやはり可愛い、でもそれらは餌としてやらねば可愛い魚たちは死んでしまう、ガラスの水槽に入った魚たちに捕まえてきた魚、貝、とかをやるため手で掴み入れる、魚篭の底にひっついた魚、貝が食われたくないと言うかのように変にひっついてなかなか取れない、俺はそれを無理矢理剥がす、べろっと剥がれると内臓のような醜い肉片が俺の手にひっつく、水槽に入った魚は思った。なんて残酷なことをおまえはしたのだ。

ドンドンドン、熊やん、いてるか、入んで。
目が覚めた俺の目の前に剽軽な寅三が立っていた。
「熊やん、もう昼やで、調子悪いんけ?顔色悪いな」
「おお、寅ちゃん、大事無い、ちょう変な夢見とった」
「そうけ、ほな安心や、焼穴子買うてきてんけろ食う?」
「寿司け?」
「おう、寿司寿司」
「魚か」
「魚やで、穴子は」
「魚やなぁ、うん、食うわ」
ご機嫌な満面で穴子を頬張る寅三を見て、悪夢が消化して行ってくれたので俺も穴子寿司を食らった。
「旨いな、穴子」
「よう脂乗っとるね、安値で売っとったけろ」
俺はまむしを買うて持ってきた蘭のことを思い出した。きんの、ちゃうわおとついや、おとついのこと寅三に言えんなあ、寅三が蘭のことをどう思っとんか知れんからな。寅三と気まずくなるのは避けたい。
「あ、せや、おとつい蘭がまむし持って来てんやろ?聞いたで」
「んお、おう」げっふ、げっふ、げっふ「おお、そう、そうそうそうそう、ゆおうおもてたとこや」げっふ。俺は咄嗟にそう言われてむせて穴子を吹き散らした。
「ははは、だいじょぶけ、茶飲みィ」
「おお、おおきに、すまんすまん」
「蘭、あいつ変わっとるやろ、変なこと言われんやた?」
「おお」げっふん。「いやあ、特に別にィこれと言って変なこと、うーん、あったかなぁ、なかった思うけろなあ、多分、おぼえてないわ、はは」
「そうけ?ならええんにゃ、これからも会うことあるかも知れんさけ、なんかあったらわいにゆうてくれな」
「おお、おお、おっと合点、承知之助」
「ははは、恐れ入谷の鬼子母神」
「待ってえなあ、それ、俺もゆうてみたい、ちょう合点のくだりゆうてみて」
「おっとそれは?おっと合点承知之助」
「おそれええいっりやあのぉ?きいしぼおじん」
「くははは、歌舞伎なったあるやん」
「歌舞伎っぽかった?ゆうてみたかってん、これ素面やで、どなする?」
「ええやん、今日祭りあんね、行くやろ?」
「それはそれは驚き桃の木山椒の木」
「いやじゃ有馬の水天宮」
「どうぞ叶えて暮の鐘」
「あたりき車力車引き」
「ありがとうござる、蟻が十匹猿五匹」
「蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨」
「蟻が十なら蚯蚓は二十蛇は二十五で嫁に行く」
「然うは烏賊の睾丸」
「烏賊にも蛸にも鯣にも」
「その手は桑名の焼蛤」
「真っ平御免素麺冷素麺」
「誰がなんきん唐茄子かぼちゃじゃ」
「ゆうてへんにゃ、てこれいつまで続くね、まいった参ったさん成田山」
「そうか、草加越谷千住の先」
「申し訳有馬温泉」
「田へしたもんだよ蛙のしょんべん」
「あー、もう出てこんわあ、あ、熊やん」
「何か八日九月十日」
「きんの、どやった?千円すんなり取り返せたんけ?」
「ああ、そうそう、きんのな、きんのとんだ目に太田道灌」
「とんだ目におおたてなんにゃね、どなしたん」
「それは、まあ・・・・・言わぬが花の吉野山」
「なんにゃ、気になるやんけ、ゆうてえや」
俺は頭の中で、しまったあっ、あのことを寅三に話すか話さんかと決めていなかった、と右往左往した。どないしょ、どないしょ、嘘つく?嘘をつく、嘘を築地の御門跡、てゆうてる場合ちゃうしやね、嘘はつきたないなぁ、できうるならもう、嘘をつくの疲れてまう、ええか、ほんまのことゆおかな、寅三ならきっとわかってくれるやろう。俺はそうと断案し、包み隠さず事の経緯を話した。
「あんな寅ちゃん、きんの行ってんね、尾上家に、そしたらね、爺さんが死んでてな、小僧が泣いててんね、ほんで聞いたら爺さんは朝早うに神社に行って倒れて、そのまま死んでもうたてゆんねんね、それで小僧におまえこれからどうすんねん、行くとこあんのけて聞いたら、ない、ゆうてね、んで、でも俺その前に気持ちが変わってしまっててんね、寅ちゃんに言われたことは正しいとおもててんけろね、熱いうろんと冷たい豆腐食ったらなんでか気持ちが変わってんね、やっぱり千円取り返さんほうがいいかなぁって、ほんで行ったら爺さん死んでたさかい、さかい」
「うん、さかいどなした?」
俺はそこまで話してとんでもなく、くたくたになってしまっていた、何故こんなにも疲れるのか、俺はもうこの先本当のことを言うことは耐えられない労力を費やすのだと恐れを感じた。しかたない、簡略化しようと決めた。
「さかい、どないしたらええかわからんなって、ほで小僧から千円返してもらってん、で小僧は一応姉のちずが働いとる商家に連れてったってんな、ふんだらそこの主人あっさりと小僧を引き取るとそうゆうたさかいな、安心して帰ってきたっちゅうこっちゃね」
話し終わって寅三の顔を見ると、交錯的な顔をしていた。
「ほう、そないなことなったんか、まあ、爺さん死んだんは、気の毒やったな、けど千円戻ってきたっちゅうことはよかったとしょうや、大事な銭やし、それはしらたきちゃんの」
「寅ちゃん」
「なんや、顔色急に変えて」
「いや、すまん、俺もそない思っとるてゆおうとしたんにゃ」
「熊やん、だいぶ心労祟っとんちゃう、祭りの時間まで休んどったらどや?」
「いや大丈夫や」
「祭り行ったら元気なる思うわ」
「せやな、地元のとちゃうし楽しみやな」
「七夕祭りやで」
「七夕か、今日」
「厳密には今晩から明朝にかけてやね」
「ほうか、七夕ってなんやええね」
「うん、織姫と彦星が一年に一回天の川で会える日らしいの」
「そうらしいのお」
「一番の願い事叶えてくれるっちゅう話やから決めときや」
「おお、願い事か」
願い事、俺の願い、そう考えて俺の腹の中がまた言いようのない悲しみで埋め尽くされて息苦しくてならなくなった。
「熊やん、ちょう今から風呂屋行かへん?」
「ええね、風呂、行こ行こ」
俺は真っ黒の洗っても落ちそうにないへどろのような垢みたいなものを体内の表面にぬたくり付けたような気持ちのまま寅三と並んで風呂屋へと向かった。


天の白滝 三十七

変に気は焦って、藤太の足取りに合わせていられなくなり俺は藤太を負ぶって小走りで走ったものだから、着いたころには、それほど遠く離れているわけでもなかったのに、疲労と小雨が染入って寒く、出て来た番頭に青い顔で俺は用件を伝えた。手短に話そうとして余計伝わらない。
「しゃあから、ええからちょう旦那はん呼んで来てくれてゆうてんですやんか」
「ええ、ええ、しかしまずは、わたくしがですね、ご用件をお伺いさせていただきましてですね、そしてそれから旦那様に」
「しゃあからな、はあ、しんど、しゃあからさっきゆうたやん、手短に、ここに働いてるちずっちゅう娘の弟を連れて来たんや、あんな今日ここの爺さんが死んでもうてんや、でやな、こいつひとりになってもうてんね、生きてかれんやんか、こんなチビ、ふだから、ちずを返してもらうためィわしがここにこうやて連れてきてんにゃんか、いやいや、ただで返してもらおてなこと思てうわけちゃうね、銭を持ってきてん、さけ、ここのだんはんとやね、話したいゆうてんねんやん?伝えてきてくれません?そう」
「はあ、あんたさんはこの藤太とどういうご関係で」
「それはやにゃ、ええっと、ここの死んだ爺さんにやね、昔ごっついこと世話なった人間なんやわし、しゃあから俺がこいつなんとかしたろ思てね、ほんで銭拵えて来たんやんか」
「さいですか、せやったら今からそうご主人に伝えてきまっさかい、どうぞお上がりなってお待ちください」
俺はやっと伝わったことに心緩んで、藤太を連れ客間で待たされることとあいなった。
出された熱い茶をすすると、冷え切った五体が生き返り突如なる眠気に襲われ、俺はごろっと畳に寝ると畳が新しくてええ匂いやなぁと思いながら藤太に向かって言った。
「ちょう俺寝とくから、旦那来たら俺の代わりに話とって」えっという顔をする藤太の顔を見て噴出しながら「ふははっ、冗談や、おまえ、そうやのうてやな、俺が口ぱくぱくさせとるからそれィ合わしてちょう腹話術でゆうとってくろたらええんにゃ、え?腹話術でけひん?おまえ腹話術くらいやっとかな将来嫁はんもらわれんど、ははは、おもろ、冗談通じひんな、おまえ」
などと藤太をおちょくりながら待っていると、唐紙がぱすっと開いて俺は慌てて起き上がり居住まいを正すと奥から主人と思われる痩躯の長身で五十程の男と、その後ろに清純そうな娘、続いて先ほどの番頭が中へと入って来た。
途端、「ねえちゃん」と叫んで藤太が抱き着きに走って行き、ちずは涙をぼろぼろと流しながら藤太を抱き返す。そんな場面、を俺は今か今かと心待ちにしていたのだが。
強張った顔のちずはずっと下を向いており、一旦閉まった襖がまた開いてづらづらと三人もの人相が悪いとしか言えない様な男たちが入って来て右手に座った。俺の心にどす黒いものが湧いた。相手がどす黒いものをよこしたことで、それが反射して俺の心に映ったのである。俺がもしここに一人で来ていた場合、まだ良しとした、いや、ちずもここにおるのは間違っているのだが、何よりもこの幼い餓鬼の前に何故このような侠客を連れてくるのか、その神経を俺は許せなかった。しかし凶暴的な気持ちを押し殺して俺は主人の口が開くのを待った。
丸橋味噌醤油醸造蔵元の主人丸橋永重は尿意をとても今我慢しているがそれは自分のために我慢しているのであってなにを言われる筋合いもないというような妙な顔つきで俺の左下斜め辺りを見ながら口を開いた。
「んーと、何か勘違いされておられると思うのですけれどもな、番頭から話しを伺った限りでは、ちずの御祖父さんが今日亡くなられはったと、それでちずを引き取りたいという話を聞いたんですけれども、それは間違いありませんかね」
俺はそう言われて心がざわつきながら「へえ、間違いありまへんですけろ、勘違いというのはさてなんでふやろ」と聞き返した。
「ええ、ええ、そうゆうことでしたら大層勘違いなされておりますな、ちずは決して貸し金の返済を終えると返すようには聞いておりません、ちずはうちの養子として一生ここの娘になるという誓約を、ちずの父親佐五郎とちずと私で承諾して決めたことです、その証拠にこれが誓約書と戸籍謄本です、ご覧になってください」
そう言いながら丸橋永重は懐から封筒を出して中に入った紙を俺の前に広げた。
誓約書には、私、尾上ちずは丸橋家の養子として入籍することをここに誓約いたします。というような文、戸籍謄本には尾上佐五郎戸籍から丸橋ちずとして入籍というようなことが書かれていた。
俺は頭の内部が乾いた音でからんからんと鳴っているような感覚になって、ちょっと間何も考えられなくなった。そしてその後、えっ、それはどうゆうこと、えっ、それはどうゆうこと、という言葉がそのからんからんの中で走り回って疲れて一休みをしたりして汗をかいたりしていた。
俺はそんな頭でどうにか言葉を搾り出し出た言葉は口からふわっと出た。
「ぅとなると」はい、とつかさず永重は応えた。
「となると、どんなに銭を積んでかてしてでも、ちずは渡してもらえないと、ゆうことになるんでっしゃるんですよね」と変な口調になって俺は言った。
「ええ、その通りです、ちずはもう、うちとこの娘なんですさかい、それは何を持ってこられましてでもご無理な話ですな」
俺は藤太の顔が見られなかった、ちずの顔も見られなかった。ふと嫌な視線に右を見ると侠客らがさっきまでの強面がなくなってやらしい顔で思いきりにやついていた。くそぅ、殴りたい、うーん、どないしょう、こうなったら哀訴の限りを尽したらんければ、そう思った俺は左に置いている風呂敷の包みを解き永重の前に置いて力を入れて懇請した。
「千円あります。この銭はここにおる藤太が姉のちずと一緒に暮らせるように俺が願って用意した銭です。頼んますっ。藤太をここにおいてやってもらいたいんにゃ、この銭で藤太をちずの元で育ててやってくれませんですやろか、お願いしますっ」頭を下げ、そう頼むと、調子っぱずれな低い声で永重は応えた。
「なんやそんなことですかいな、そんなことはうちらかて考えてたことですわ、何も大金を持って頼まれませんでも最初から藤太はうちの子として育てようと思っていましたんや、私はまた侠客っぽい人やきかされて反対にせびられるんかて思ってましたがな、はは、えらいこちらも勘違いしたことですな、相すみませんな」
「えっ、さいでふか」俺は拍子抜けして、惨め、というのを疾うに超えて、無残、悲惨な気持ちに襲い掛かられながら、これならもういっそもともと度阿呆な人間ですからという感じで誤魔化をしたいという気持ちになって阿呆そうな言い方で返事をした。
「しかし早くに知らせを届けてくださった御礼を是非したい存分なのですが、今から私たちは早急にちずの御祖父さんの通夜へと向かわなくてはなりません、なので御礼としてまた後ほどにお伺いさせて頂くということでもよろしいでしょうか」
「はい、それはええでふけろ」と魂の抜け落ちたような声で俺は応えた。
すると「おおきに感謝いたします、では、ちず、藤太、この方を送りなさい」そう永重が言うと、ちずが躊躇いがちにも立ち上がって俺の傍にまた座り深々と頭を下げ「ほんとにありがとうございました。藤太を連れてきてくださったことを感謝します、ありがとうございます」と言った。そして藤太の横に座り「ほら、藤太お礼をちゃんと言いなさい」と言い藤太があたふたしながら「あ、あ、ありがとう、お、おおきにぃ、ございましたあ」と言って下からちろちろと見上げた。俺はまだ魂が戻ってこないような感じながらも「おうっ、きょうだい仲良う、ぅ暮らすんやで、おお」と言うと、すかさず永重が番頭に「ほな、お送り差し上げて」と言い俺はなんだか半無理矢理家の外へと押し出される形となり玄関の外に出されてから、薄暗い宵の空を背に、あれ、俺、なんもゆうてひんのにどやって礼に来んねん、と思ったが、まあええわ、という気持ちになって千円をまた懐に入れるとごわごわの変な人となって、俺は複雑でやるせない思いを抱いてとぼとぼと帰路へとついた、俺の歩く両側で鳴く蛙と虫の声に慰撫されながら。