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天の白滝 四十三

親父の夢を見ていたような気がする。
目を開けた瞬間、仰向けに寝ていた俺の目から涙が伝って左耳の中に入って横を向いた。
どんな夢だったかを思い出せない。外は静かな雨だった。
ぴゃっふしょい。俺がくっしゃみをすると、目の前で眠っている弥五が寝たまま、んふふ、と笑った。
なんやこいつ、どんなええ夢でも見てんねやろか。はみ出た弥五の足に布団を掛けなおしてやって、俺は外の厠へ行った。
用を足し終わり戸を開けると、見ないようにしていたが、それは俺の目に入り込むようにして俺に見せた。それは、すべてを失った悲しい空だった。
葬式の日、帰りがけにふと見上げた空に嗚咽して一人しゃがみこんだ、あの日の空と同じ空だった。
周りから親戚らが抱きかかえて連れて行こうとしたが、俺は頑なに動かずその場にうずくまった、そうしていると意識がやがて遠のいて行き、雨だけが降っているのがわかった、雨だけが俺の体にあたっているのがわかる、石のように固まった俺にただ雨があたっている、ただそれだけが救いだった。季節は真冬だったが、冷たさも感じなかった。あの時俺は石になっていた。
あれから、俺は石から人間に戻っただろうか。俺の体に今も雨があたるが、ひどく冷たい。
ぴゃっぷふん。またくっしゃみが出て、おおさぶ、ひどく寒気を感じた俺は悲しみを懐で温めるようにして家に戻った。
芋茶粥でも作ろうと思い、土間でへっついの前に立ち、やおら仕度をしていると、ぴっひゃひゃん、と後ろでくっしゃみが聞こえて振り返ると「あー、さぶっ、あー、おおー、なんかええにおいする、兄貴ぃ」っつって、弥五が子供みたいな寝起き顔で膝をつけて前足と後ろ足で動物みたいに近づいて来た。
「おはようさん、おまえは犬か、えらい雨がきつうなってきたわ」と俺が言うと
「兄貴、おはようさん、なんや嵐みたいやな、ほんで何作ってんのん、えらいええにおいさして」と弥五が土間を覗きながら言った。
「芋茶粥作ってんにゃ、俺はそれほど好きちゃうけろ、しらたきが好物でよう作っとったんにゃわ」
「へエー、芋茶粥好きなんかあ、しらたきは、わいはあんま食った覚えないわ、兄貴の作った料理食うのんはじめてやなあ」
「いや、おまえの分作ってないねんけろね」
「そんなあ、兄貴、せっしょうやで、わいにも食わしたってえなあ」
「ははは、ちゃんとあるがな、たらふく食うてはよ帰れ」
「兄貴ぃ、帰らせんといてえなあ」
「はははは」

芋茶粥うまー、うますぎる、うまいっすわーほんま、毎朝食いに来てもええか、うんまー、と言いながら弥五が食いまくっているところを見ながら俺はふうふういわしながらちょびっとずつ食って茄子の浅漬けばかり食っていた、極度の猫舌だからである。しかもこのねっとりとした薩摩芋から出るとろみで普通の倍くらい熱くなったような粥が苦手なのである。一度水を多めにしてさらっとしたのを作ったら、しらたきが「ねちねちしたんやないとやや」てゆうたからそれからはねちねちした芋茶粥しか作らなくなったのであった。たぶんしらたき三歳くらいのときであろう、懐かしいなあ、まだ芋虫がちょっとでっかくなったくらいの頃や。松河家でもねちねち芋茶粥は食わしてもらえただろうか。
とまあ、そんな話を弥五にもしていると、飯を早々に平らげた弥五に「兄貴、ほいでしらたきは今どこにおんのや」と訊ねられ、俺はあの日、しらたきを揚屋から身請けして連れ帰った夜、しらたきが豁然と言い放った霊妙な言葉からまだ熱いわ、と思いながら芋茶粥を食いつつ弥五に話すことにした。
あの夜、しらたきに背中をぶっ刺された弥五を家に送って、しらたきと一緒に我が家路へとついていたとき、俺は喜びのあまり歓天喜地の有頂天と成りしらたきがそばにいることにじっとしておられず、つい川の中にばしゃばしゃ入って行って泳いで魚を手掴みで捕っては、しらたき!獲れたで!とか叫んで、そのあともでんぐり返しで道を進んでゆき、田圃にはまって泥だらけになって、また河に入ったりして、それを見ながらしらたきも一緒に河に入ったり楽しそうに笑っていたのだが、家に帰って来て少し落ち着いてしらたきと話がしたいと思った矢先、しらたきは変に俺から目を逸らすようにして「ぼく、もう寝る」と言ったから、そやな、疲れたやろう、今日はもう寝よ、と別に布団を敷いて俺も床についたのだが一向にまだ胸が高鳴ってなかなか寝付けない。しらたきが寝付いたと思う頃起きて酒を飲んでしらたきを眺めて、で、あ、でまあ、また布団は入ったが、まだ寝られない、ふと横を見るとしらたきが寝ながら俺を見ていて俺に言った「ぼく間違ってる気ィがする、明日旅に出る」と、俺はそれなら一緒に着いてってやると言ったが一人で行くと言って聴かない。次の朝、起きたらしらたきがいなかった、俺は飛び起きて外に出るとしらたきが家を出たところだった、俺は追いかけてしらたきをどうにか留めさせたいと思ったが、それが俺にできんかったんや、なんでかて、親が子の自立を引き留めることがなんでできようか、引き留めることはできんかった、どうしても、しかし俺はこっそり後をつけた。何故なら心配でならんかったから。しらたきはまるで目途地があるみたいにすたすたと歩いてゆくんにゃ、やがて山の奥まで歩いてってそこにあった洞窟の中へと入って行った、その広い洞窟内で俺はしらたきを見失ってしまった。その洞窟の違う出口から抜けて俺は探し回った、どこを探せばええんかわからんがとにかく探してたら、この村に来てたんや、ここの渓流で釣りしてたおっさんと知り合うてな、そのおっさんに魚を食わしてもらったんや、そして娘を探しておることをおっさんに話したらば、おっさんの家にそのような娘がいてるとゆうんや、話を聞けば娘は蛇にかまれて倒れていたところをそこの長男坊が助けて連れ帰ったのだと、おっさんと一緒に家に帰って、娘を確認したところ、その娘は聢としらたき本人やった。しかし、しらたきは俺の記憶を失っていたんや。あ、その前にそこの松河のおっさんのごりょはんの話があってね、しらたきは、どうもそこのおらんくなった娘らしいのよ、生まれたばかりのときに突然神隠しのように消えて行方知れずとなったうちの娘に違いないと言い張るんよね、それで、あ、ちょうそこどいてくれる、と言って神妙な面立ちをしてそれまで聞いていた弥五を退かして俺は畳を捲り上げた、何事や、と訝る弥五に畳を持ってもらって、床下から風呂敷包を取り上げるとまた畳を敷いて、弥五に風呂敷包を渡し、それおまえにやるわ、と言った、え?とちょっと嬉しそうな顔になった弥五に、開いてみぃ、と言うと、包みをほどいた弥五が、驚きのあまり仰け反って、うわっ、と言った、それを見て、いしゃしゃしゃしゃ、と俺は笑った。
「なんや、この銭、いったいなんの銭やね、兄貴」
「それ、しらたきと交換になった銭や」
「ど、どゆことやね、お、おい」
銭を盗られてなくてほっとした俺はまた話し出した。
そこの松河家はえらい素封家や、大地主で村会議員とかも務めとるらしいおっさんの家でな、そんな家にとっちゃその千円ゆう銭も端銭かは知らんけろ、この千円でどうかしらたきを諦めてくれと頼まれてんにゃ、おう、それで納得行かん俺は力尽くでもしらたきを取り返して連れて帰ろうとしたが、力のごっつい強いおっさんに捩じ伏せられて屋敷を追い出されてもうてから。
「なんやてっ?なんっちゅうえげつないことさらしょんにゃ、やっぱし良え衆の餓鬼どもなんざ毒性な奴等ばっかしゃ、兄貴、わいがいてこましたるわ」と弥五が忿怒して声を荒げた。
「まあ待ちぃや、そこで終わっとったら俺もそないしてたか知れんけろやね」
俺はそこの次男坊である昨日われが殴ろうとしていたあの男、あいつがそこの次男の寅三で、その寅三にしてやってもらってることをすべて弥五に話した。そして、こないだ寅三がそんな俺としらたきをどうにか会わしてやろうと腹案を練ってくれて、ようやっと会うことができた、その日しらたきが俺をあんさんと呼んでいたことだけを思い出したことを話した。
「無理に連れて帰るなんてことはせんでもええんや、しらたきが帰りとおなったら帰ってこいとそう俺はゆうたんにゃ」
「兄貴、ほんまにそれでええんけ、いつになるかわかったことやあらへんで、それ待っとったら」
「俺はそれでええよ、それがいっちゃんええと思てる、周りのごたごたになんもわからんしらたきをわづらわさすんは可哀想やしな」
弥五はそれを聞いて眉をくっと動かしたかと思うとすかしっぺをこいたような顔つきで畳に目を伏せた。
「兄貴が、そない決めたんにゃったらわいもなんもゆわへん、しゃあけろや、なあ兄貴」
「なんや」
「ここは出て、わいと一緒にどっか借りて住まへんか、銭はわいがなんとかするて」唐突にそう言われて俺は照れて嬉しい気持ちを隠しながら眉を顰めて応えた。
「弥五、われが良え衆を好かんことはわかった、まあ良え衆はみんな好かん、しかしやな、寅三がそんな人間とちゃうっちゅうことをおまえはまだ知らんだけや、今にわかるやろ、こんな俺を慕う男や、おまえと仲良うなれんはずはないやろ」
すると弥五はぐしゃぐしゃっと頭を掻き回し、そっぽを向いてなにかこらえているようだった。
「どや、酒でも飲まんか」と俺は返事を待たずして酒と湯呑を二つ持ってきて弥五に注いでやった。湯呑に入った酒を一気に飲み干しておもむろに弥五は請うような顔で言った。
「兄貴、わいの話聞いてくれうか」
「おお、なんでも聞いたる、今日は座談祭りにしょうや、この荒天じゃ外行かれんひんしな」
「うん、おおきに、ちょう湿っぽい話になってまうけろ、ええか」
「ええがな、ちょうど今日は家も外もじめじめや」
「せやな、あんね、わいの親父の話やねん、わいと妹、捨て子っちゅうことになっとるけろね、実はちゃうねん、覚えてんねん親父のこと」
「そやったんか、どんな親父さんやったんや」
「わいの親父なあ、見かけがちょう兄貴と似とったような気ィすんねん、まあ六歳とかの時に別れたからうろ覚えやけろね、中身も、ちょっと似とるかも知れんて、さっき思ったわ、親父の弟から聞いた話では親父は独りもんのときは完全に無頼もんやったらしい、けろ結婚してわいとそのあと妹の梁が生まれて真面目に働いたらええもんを変な商売に手ェつけてまいよったんや、それもやくざの親分に手ェ貸すようなことをな、それがことごとく失敗してやくざとそれから豪商の家にどでらい借銭作って、それを知った母親は気ィ病んでわいと妹もほっぽり出して、変な男に誑かされて心中入水みたいなんして死んだんや、それがわいの五歳ん時とかで母親のことはさっぱり覚えてへん、それからも親父は何してたんか知らんけろ、家には母親の妹が来てわいと小さい梁育ててくれとったが、親父の妹が引っ越すことになって親父が面倒見にゃならんようなって、そん時の親父の姿ちょこっとおぼえとる、親父いつも泣いとってん、涙流してるんやのうて、体の奥でいつも泣いてたんがわいわかって、なんでいつも親父はあんな泣いてんねやろうと子供ながら不思議でしゃあなかった、急におらんなった母親はいずれ帰ってくるとか親父に言われとったし、母ちゃんがちょっとの間おらんことがそない泣くことなんやろか、てわからんかった、いっぺん若旦那みたいな奴がうちに来たことがあって、わいに梁と一緒にちょう外に行っとけて親父がゆうから外出たんやけろ、気になって障子の破れ目んとこから家ん中覗いたんや、ほしたら親父、若旦那に土下座しとってなんか必死に謝っとった、若旦那が笑いながら親父にゆうたんや「われの嫁はんは床下手もええとこやったさかい、馬のニクボウしゃぶらして、その前でせんずりこくしかなかったわ」とかゆうてて、子供時分のわいには何のことかさっぱりわからんかった。親父はそれでも頭下げることしかせんやった。そいで、ある晩のことや、夜遅おになっても親父帰ってこんからわいと梁はもう寝てしまってん、腹すかしながら、ほんだらなんや家ん中が喧しいから起きたら親父が飯炊いたり、押入れに顔突っ込んでなんや探してたりあっちゃこっちゃと忙しいしてるから、どなしてんにゃろうて不安になっとったら親父がわいに気づいて「なんや、目ェさましてもうたんか、すまんすまん」て変に明るくゆうねんな、それでわいに近づいて頭撫で付けて「腹減ったやろ、すまんな、もぶり飯買うてきたさかい食え」っちゅうてもぶり飯てなんやろうと思ったらえらい豪勢な散らし鮨みたいなんで、寿司買うてきたのになんで米炊いてんにゃろて思ってな、それからまた眠ったら、次に目ェ覚ましたときには親父におぶられとって「おとんどこ行くのん」て聞いたら「起きたんか、弥五、おとんな、行かならんとこができてもうたんや、心配すな、おまえと梁はおじゅっさんとこで暮らすんや、ええか」と言ってわいを降ろして梁を抱かせて「ここをまあっすぐ行たらお寺があっさかい、そこ行て頼むんや、ええか、これ握り飯と茶ァ入っとるわ、腹減ったら食うんやで、ほなおとんは行ってくるな、元気に暮らしや、弥五、梁」っちゅうて笑顔で言い残すと親父は走ってった。追いたかったけろ、梁抱いて追いかけることもできんやった、それから親父のゆうたとおり寺にいって頼もうとしたら、なんぼ呼んでも誰もおらんのか一人も出てきよらんで、その晩は寺の庭で寝たんや、晩秋くらいんときやったけろ子供には凍え死ぬかと思う寒さやった、次の日も寺からは誰も出てこんさかい、寒くてじっとしてられんし、梁は泣いてばっかしやし、うろうろとしとったら、最初にもらわれた家の乳母がわいらを見つけてくれて、家に連れ帰り、わいが十二になるまでそこで暮らしたっちゅうわけや、親父はあのあとすぐ商家の雇ったやくざに殺されたっちゅうのんを聞いたのはその頃や、その後の話は前にも話したけろ、兄貴、忘れてもうとったさかいもっぺんゆうわ、そっから農奴に売られて、そこで任された仕事がこっ酷過ぎて逃げて野宿で暮らしとったんや、その後の話は兄貴、おぼえとるよな、おい兄貴どなしてんや、兄貴?」
俺は顔を背けた。気づくとあまりに号泣していたからである。
「兄貴、泣いてんのけ」と弥五が俺の顔を下から覗こうとするから俺は弥五に相撲の組み手をするように帯の両側をぐっと掴んで寄り倒しのようにぐんぐん前に押して行ってぶいーんと横に浴びせ倒しにして、また俺は後ろを向いて号泣の続きをした。
「兄貴、話聞いてくれておおきにやで、わい、兄貴にこの話聞いてもらいたかったんにゃ」
「ええおやっさんやないか」俺は後ろを向きながらそう言った。
「そない思うか?わいはそれでもずっと恨んどったんにゃ、商家のもんややくざや若旦那より親父を一番に憎んどったんやで、それが変わったんは、最近のことや」
「なんで変わったんや」
「兄貴が、かぶってめえるからや、わいの親父と」
「俺はそないィ似てるんけ」
「そないな気ィがしてくるだけや、兄貴見とったらな、嵐、過ぎたようやで」
「おお、ほんまやな。なあ弥五」
「ん?」
「いや、なんでもあらひん」
「なんやねん、おい兄貴、こっちゃ向いてくれや」
そう言われてごしごし二の腕の袖で目をこすって弥五に向き直り「なんや」と低い声で応えた。
「わいは兄貴に誓えることがあんで」
「なんやそれは」
「それはなあ、わいは兄貴の為なら命すら惜しないっちゅうこっちゃ」
目を擦りながら聞いて、なあんをゆうのんにゃ、と言おうと弥五の目を見ると言葉が口から出なくなった。
俺は胸が半ば震えながら言った。
「われ、ええ目しとんのお」
「へっ、わいが本気やっちゅうことだけは、忘れんとけや、兄貴」
「おう」と俺はそれしか言えず、胸がきゅうんと縮こまる思いにかられた。俺より十も下の弥五郎のこの厚く高邁な精神を支えるぶっとき剛毅な骨を蔽う肉身にはまた雄渾なる筋肉の隆起した生身、そして端正な顔立ちから漸次獰猛さを帯びたがそれなのに至極純真さは失わないようなその顔と、俺は今までなんと見逸れておったことかと弥五をまじまじと凝望して、なんとも男らしい男であるやろかと心服して、俺のほうが本当は兄貴、と慕うべきところなのではないのか、と己の不甲斐無さになんたる頼りない兄貴に命を賭けると誓う弟か、と哀憫したりして、いろんなことでまた泣きたくなってくるのだった。
「まあ、呑もけ」と言い弥五の湯呑に酒を注いで、俺も注いでもらって湯呑を合わし、俺はこの弟、弥五郎をええ方向へと導くええ兄貴であらねばならん、と自分に対して盟い、本当の意味での兄弟分の盃を交わす想いで弥五と酒を飲んだのであった。

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天の白滝 四十二

会えぬ日々がまだ続く、日に異に翳ってゆくその中で、朝が来ていて、あれからまた半月余過ぎたが七日くらい雨が続き、今日の朝には雨上がり秋がもう目を覚まして、おはよう、秋が来ましたよ、皆さん秋ですよ、と秋が言っていて、界隈でも、いやあ、涼しくなったねえ、秋やねえ、と朗らかに言っているのかもしれないけれども、俺の心に秋が来ない、秋がなんだったかというのも忘れそうで、てか季節というものが俺の中には来なくなったが、もうそれは今やめておく、考えられない、唯さえ俺は今、沼の底にいる。沼、というのが要諦で、そこ等一帯は凝集した黒緑で、こくりょくしょくの中に俺は澱んで抜け出せない、この闇の色ともまた違う深いりょくしょくというものが能く能く怖ろしい。それは何故かと言うと、濃い緑というものが生命の吹き溜まりだと感ぜられて怖ろしいからだ。その蓊欝たる息衝く者らに囲まれて俺が窒息しそうになっているのは、俺が生の脈搏を呼号しているからか。生にうらまれているのだ。おれたちはこんな濃い緑で生きているんだよ、生きすぎてこんなに濃いよ、だのにおまえはなんだ、全然濃くないよ、おまえなんて、おまえがどれほど色がないか教えてやろうか、おまえにはそもそも色がない、おまえはな、無職だ、間違えたぞ、無色だ、わかったか、無色っていうのを綺麗だと思うなよ、例えば水、空気、なんてのも色がないと思うだろうがあれはものすごい色を有してるんだよ、だからあんなに美しい虹が見られるんだ、水は光を反射するんだ、おまえの心に虹はかかるか、おまえは光を反射することができるか、できないよ、だっておまえ無色だもん、無理だ、諦めてしまえ。無色の良さというのを認めない生たちに、無色は死ねとでも言われたことに、俺は哀しまない、無色の生というものがここに確かに存在している、それを認めずしてお前らは何が色か、それが自分の色だと思い込んで安心しきっているお前らは、華厳の滝に打たれて来たら良い。いや、打たれなくて良い、打たれるのは俺だ。俺は終始、終わりから始まりまで滝に打たれるつもりだ、色などつけるいとまを俺は求めない。俺の求めるものは、俺の求める滝は、白く、美しい、なによりも。
また想起せしめられて苦艱。この日柄のうちにあの二人が親密になどなっていないか、思うと、狂い走りそうになる。こんな日は、博奕かな。

外に出ると秋空の下涼風包まるが、俺の心、また沼色。博奕場に向かって歩いていると大きな柿の木に青い実が成っているその枝に止まった黒い鳥が、アーア、と繰り返している。何が、アーア、なのだろうか、溜息混ぢりで、この柿まだ食われひん、アーア、はよう食いたいのに、アーア、と言っているのだろうか。「あと一月待とうよ、な、おまえもつらいやろうが、俺もつらいねん」そう窘めるがアーアをやめない。ペインバーズ、おまえも俺も。己を満たす、それを求め、求め、求めすぎて、痛いねん、胸や腹の奥らへんが。
俺がやるべきこととは何なのか。そう考えながら伏し目で歩いていた俺の周りが気づけば黄金だった。黄金に輝いた稲が敷き詰められた世界が眩しかった。まだ午前のはずだが、西から日が射しているような、もうすぐ夕暮れがやってくるのじゃないかと思わせる自分の存在と世界の時間の存在以前のものが散開した原風景のようだった。俺が今日暗いうちに起きてしまったから自分の中でちょうど夕方くらいだから、というのは関係あるのかもしれない、てそれを思ってなんだただそれでか、と思いたくないほど景色は輝いていたものだから、俺は、今なら、今なら俺はもしかしたら働けるかもしれない、と感じた。俺はこんな世界が広がる場所で黙々と西洋絵画の落穂拾いをする寡婦のように腰を屈めて精を出してみたい、とそう一瞬思った。一瞬のことであった。一瞬後に俺は思い出したからだ。そうやって毎朝早くに起きて骨身を惜しまず働いていた親父の姿を。
世界の割れ目が垂れた稲穂のその実の中にあって、それを刈り取ること、落ちた穂を拾らうことを続けることは、その籾殻に覆われた世界の割れ目を知っている俺が割れ目を見ないようにして脱穀して脱稃して米炊いて食って脱糞して終えるということである。世界の割れ目を直視しながら生きることはできないから普段から直視しないようにしているが、それを俺に見せる行いがひとつは働く行為にある。割れ目とは我の目なのだが、俺が俺を許さない、俺が人として全うな生き方で生きることを許さない自分の峻厳なる目だ。ふたつには善行だが、最近そういえばそれはあまりなかった、しらたきに逢いたい一心が凄烈すぎて割れの目を忘れていたようだ。せっかく忘れていたのにまた思い出してしまった。俺がどんなに善を行おうと俺にとってはすべて偽善だと、そう言った、俺は俺に言った。善を受け取る側がどれほど感謝しようとも行う側が偽善にしか思えないのなら虚しいばかりではないか。虚しすぎるし俺が俺を何をしようと俺の罪を許そうとしない目で俺を見続けるから俺は働く気になれない。十五の時からそうやってやさぐれ不摂生で頽廃的な生き方を続けてきた。それはしらたきに出会っても変えられるものではなかった。それが、俺は悔しい。しらたきを守る為ならなんだってできる人間に俺はなりたかった。もっと可愛がってやることができたはずなのに、苦しいとまともに顔も見られない日々も多々あった。そんな痩せ細った魂の俺なのに、それでもしらたきとまた一緒に暮らしたいって言うのだから阿房ですよ、もう、奴阿房ン陀羅でしょう、俺は、俺は、俺はどなしょう。
途方に暮れながらも俺は否畑、否、稲畑の間を走り抜けてゆきそのまま飯屋に向かった。
午間から酒に酔いて、その足で賭場に向かいそこでも酒を飲みながら世俗の営為、宿望、信奉をかなぐり捨てるかのように銭を投げ張った。
斯くして、その日俺の懐に二十五円もの銭が帰ってきた。今まで使った分と負けた分引くと三円かそこらの儲けであるが、喜ばしいことではないか、何故俺はこんなに疲れきっているのか。酒を飲みすぎた脱水症状からか。最初から勝ち続け、ほなこれでわし去ぬわと言ったときの褌ちゃんと豆やんの顔を思い出す、あまり変に勝ってしまうと行きづらくなるなあ、狸汁でも食って帰ってこまそうかな。
そう思った俺は先刻行った近くの飯屋はやめて、他のもう少しすいなところでも探して入ろうと、すいなところに狸汁があるだろうかと思ったが別に狸汁を絶対食わないとならない理由はないと思いほくほくした酔いの中、月が綺麗ですなあと歩いても、やはり寂しいに決まっている、一人で月見てもさびしいがな、しらたきがとなりにおらないと。
小さい店だがちょいとすいな処、粋な感じの店をようやく見つけて割烹屋、カッパウヤ「山羊の角」という店の戸を引いて中へと入った。ここで狸汁だけ食うて帰ろう、美味い狸汁がありそうだ。でも、これはちょっとすごく食いたいってのがあればそれも頼もうかなあ、なんて思って座敷に上がろうとしていると、なにやら店の真ん中が騒々しい、人だかりができていて若い男が喚いている。なんか聞いたことのあるような声やなあと思って弥次馬をよけて覗いてみると、若い血を滾らせ相手を押さえつけ激昂している懐かしいその顔、その男は弥五郎であった。そして押さえつけられても泰然自若として冷涼な顔で弥五を見詰める吃驚するほどの美男子は誰かと思えばその男は寅三であった。俺は気の抜けたような声を出した。
「おい弥五やないか、おまえこんなところで何してんにゃ、寅ちゃんだいじょぶか」
すると今にも寅三を打ん殴ろうとして手を振り掛けた弥五の手が止まり、ん?というまた気の抜けたような顔で野次馬に紛れている俺を見た。
「あ・・・・・兄貴」
その声を聞いた寅三は首を後ろに少し反らすと覗き込んだ俺に向かって「あ、熊やんや」と言いへらへらと笑った。
「寅ちゃんすまん、こいつ俺の弟分なんやわ、何があったか知らんけろ、久し振りやなあ弥五、元気で何よりや、けろ、ちょっと元気が過ぎるがな、ふぁははは」と笑っていると、突然弥五が飛び掛ってきて俺は後ろにちょうどあった柱にドンと叩き付けられた。弥五の目がごっついこと怒っている。
「久し振りゃあらへんで、兄貴、わいが、わいがどんだけ、どんだけ探したと思っとんにゃ、えぇ?わいがどんだけ心配したと思っとんね、こんなとこで何してるてそりゃわいのほが聞きたいわい、われ、われ何の音沙汰もせんとどこ行っとったっちゅうんじゃ、えぇ?」
「すまん、弥五、そない心配しとるとは思わへなんだ、すまんかったな、いやこれにはな、えらい話せば長うなんねけろね、深い訳があるんにゃわ、それを聞いてくれや、まあそれはあとで話すよってに、な、おまえらに何があったんかちゅうのを先聞かしたってくれるか、ほな座敷座ろけ」と言うとそれを聞きながらわなわなと震えておった弥五が俺に抱きついて「兄貴、無事で、よかった、良かったぁ」と言いながら泣くものだから、周りでまだ見物している野次馬どもらに向かって、ははは、俺こんなに愛されちゃってたってか、ははは、可愛い弟なんすわ、という感じで見せびらかしていると、割烹着を来た山羊みたいな親爺に「旦那、その弟の溜まっとるツケの二円三十七銭払っとくなはれや」と、最後に、めぇーとつけたい感じで言われて俺は弥五の顔を見た。弥五は顔の前で手を合わして「すまんっ、兄貴、今日博奕でようさん勝ったんにゃけろ、ここに来る前に金嚢もろとも掏られてもうたみたいで、持ち銭なくなってもうて、けろ村ィ帰ったら銭あるんや、あいた取ってくるわ」と言うので「そないなことなんも頼まんでも俺が払ったるがな、てかおまえに借りもあるしやね、あ、でもこの銭は、俺のやのうて・・・・・」と言いかけると、寅三が「あー、兄貴兄貴」と言いながら弥五の後ろで俺に向かって、弥五に指差して手をブンブン振ったりと声に出して言えないことらしく、え、どうゆうこと?と思ったが、ここは寅三の言うとおり今は何も言わぬが吉のようだ、と俺は「よっしゃ、ほな払ってくるさかい、席取っといてくれるか」と弥五に言い、山羊の爺に弥五のツケを払った。

弥五がケツを突き出す格好で猫間障子の下の窓を開けると料理と酒が運ばれてきた。俺が狸汁を注文すると寅三と弥五も、わいもそれ、わいもおなじのん、つって狸汁が三つ運ばれてきた。
「まあなんか知らんけろ、偶然を祝うっちゅう感じで」と三人で盃をこれ合わして呑んだ。
山羊が草を食ってる絵が描かれた衝立側に座った俺が、狸汁を啜りながら「しかし、ほんま偶然ておもろいよなあ」と言った。
山羊が岩山をよじ登る絵の掛軸が掛かった床の間側に座った寅三は蒟蒻を噛みながら「まさか熊やんの弟はんとはねえ、魂消るなあ、世の中は狭いっちゅう話やんねえ」と言った。
半分開いた猫間障子の前で猫みたいに背を丸め口を聞かず狸汁を食っていた弥五が口を開いた。
「兄貴、しらたきは元気か、一緒におんねやろ」
「おお、元気やで、しかしまあその話はあとにしょう、先になんで寅ちゃんと組み討ちしとったんか聞かせてくれや」
「まあ、わいも気ィ立っとって、悪かったと思とるけろ」
落ち居ったと見える弥五が事の顛末を話し出した。
俺がそれを頭で写像して行く。
俺を探して弥五は十里強は歩いた、きつかったっすわ、でもまあ途中宿や遊郭に泊まったんすけろね、で、探してたんすわ、俺としらたきの行方っちゅうのんを、なんで黙ってわいの前からけえるねん、あほんだら、泣きながら夜道歩いたりもしたよ、したらめっさくっさ蚊に咬まれて血だらけなったりね、したんすよほんま、ぶっちゃけてゆうとね、今でも残ってるっすわ、その咬み痕が、見て、ほら、でしょ?でしょ?ほんま痒かったんすわ、で、途中遊郭で出会った女にね、それゆうたら、ほんま痒そうやねえ、とかゆうてかいてくれてんけろね、その女郎にわい振られたんす、なんで振られたんかがわからんねんね、好きやゆわれて二回通たんやけろ、なんでやろかなあ、て、え?そんな話聞いてへん?へへへ、すんまへん、兄貴、で、まあむさむさとするやんかあ、そんな風に振られたりしたらなあ、しゃあさかい、むさむさしてたら挙句の果てに銭盗まれてわやや、てなって、山羊の親爺が今日はどうしたかてツケ払ってもらうまで帰らせんとかゆいよるさかい、明日絶対持ってくるてゆうてんのに、聞かひんし、困っとったら、そこに、あんたさんが、な、ゆうてんな、わいに、「兄さん、そのツケわいが払ったるさかい、もう去んでくれへんかなあ、やかましいて飲んでられんのよね」てゆうてんね、わいは昔から良え衆のもんが好かんくて、ゆうてんね「これはこれは良え衆のぼんこはん、そないな方に奢って貰う謂われはござあせんで、また格好つけてそんな豪儀見せられて、それじゃおおきにてわいが言うとわれ思たっちゅうことはわいは馬鹿にされとるんとちゃうんか、てわいが思てもおかしないわなあ」っつうて、ね、一発殴ろうとしてんけろ、さって避けられてんね、ほんで、あんな感じ、組討、っつうわけやんね、な、てなわけや、兄貴。
「成る程、そうゆうわけやったっちゅうんか、ええやんけ、そうゆうのおもろいやんけ、二人似とるんとちゃうか」
「ははは、そうかも知れんね」と寅三が乾いた田圃みたいに笑って応えた。
合意ならないという顔で弥五は俺に酒を注いで「ほな、次は兄貴の話聞かせてや」と急き立てた。
俺はそう言えば今日はずっと飲んでいた、とどどっと睡魔が降りかかり俺は「すまん、すごう眠なってきたわ、明日話してもええ?」と言うと、弥五はふう、と息ついて「しゃないなあ、ほた明日聞くわ、今晩兄貴と一緒に泊まるさかい」
「おお、そうしょ、あ、勘定、ここはほな俺が」と寅三にまた目交ぜされて事を理解した俺が店のもんを呼ばうと、お婆んが来て四十六銭を払い、ほな、行こかあ、行きまひょかあ、とほとんど声が出てない感じでゆうて、弥五と寅三と俺の三人は並んで歩き帰り道の夜もすがら見上げると高い空に満月が皓々と、俺の横を歩く寅三と弥五郎の横顔を白く光らして綺麗な顔だ、と、そう俺は思った。


天の白滝 四十一

ソオラア、ヨオイトコサアサ、サアノヨイヤアサアッサ。そら良いとこさ、あの世言やあさ、さ。あの世はええとこやちゅとったんか、河内音頭は。知らなんだ。わからんのとちゃうかそんなことは、行ってみな。
そんなことはどうでもええとしてやね、今日でもう、一月と半月経った。もしかしてこの先は、結構頻繁に会えるようになるんちゃうかなあ、かなあ、カナカナカナカナて、日暮し、蜩啼いてる中、思っとったんにゃけろな、待てど待てどと日暮れしてぜんぜん逢えない、ちっとも会えない。
いと愛しきしらたきと。いといとしきしらたき、あ、ええなこれ。
一月近くは自ら赴くのはやめておこうと心に決め、今日逢えるか、明日は逢えるかと待ちもうけていたのだが、一月過ぎ、いくら待っていてもしらたき一人でやってくるはずもない、と愈よ松河方に出向いた俺は腰を低めて頼み込んだ。しかし家の者は今いないと断乎追い払われ、それでも一目でいいからしらたきが見たいと足繁く通うが一向に逢わしてもらえない。
なので、俺はもう、ぶらぶらした。家にじっといてるより、ぶらぶらとそこらをほつき歩いているほうがしらたきと会えることがあるかも知れないよって気付いたんですよね、そうしてほっつき歩いていた。
喧しく蝉たちが鳴いて、日光が恰もちょっとむかついたことがあったから、みんなこらしめたろうかと思っている、というがの如く照り付けてくる中、汗を滴らせながら往来を歩いておると、博奕打ちの勘で見た感じ賭場の客引き風の男がいた。心が一瞬ときめいてしまったが、俺が結構博奕に勝つときというのはこれまで、たまらなく苦しんでいる時に自棄っぱちで賭けた時によく勝ってこれたのであって、今の俺はというとそこまで苦しんでいるとは言えない、今は勝つ自信があるかというとない。俺はその男の前を通るか通らまいかと立ち止まって悩み変にきょろきょろと辺りを見回していると、酒屋の看板が目に入り、うわ、酒屋が目に入ってもた、酒買うてどないすんねん、銭を増やすことを考えないかんのに、酒我慢しても増えひんなあ、と思っているところ、横から声をかけられた。
「兄さん、もしかいつぞやの河内の赤阪村のお人とちゃいまっしゃろか」
丁寧な話し方だがずぼらな感じが抜けない若い衆にそう突然尋ねられ、俺は吃驚して応えた。
「おお、わしは赤阪村のもんやけろ、われどこぞで会うたかいな」
「いやあ、やっぱそうでったか、いやね、富田林で会うたん覚えてはりまへんか」
「富田林のどこやったかいな」
「どこちゅうたらま、あれでふがな」
「あれちゅうと、なんにゃね」
「へへ、てんご言わはんなあ、旦那、あれちゅたらこれしかありまへんがな」
と言い男は壷ザルを伏せる手つきを素早く臍の下ら辺で動かしながら言った。やはり俺の勘は当たり、男は博奕場の客引きであった。
「ああ、あっこか、いつ行ったかも忘れてもうたね」
「結構前ですわ、わいもいつちゅうたらはっきし覚えとらんでっけろ、兄さんの顔覚えてましたがな、いやなんで覚えてたかっちゅうとね、多分兄さんのそのきりっとした奥深い目やね、その目ェ忘れんかったねえ、他のもんなんかみんなうっすい顔で忘れてもうとるけろね、ばはは」だんだんと親しくべんちゃら混ぜて喋って来る男の顔を近くでよく見ていると、目の周りが黒くて鼻から口にかけてぼこっと盛り上がった面白い顔付きをしている、なんや狸みたいな顔やなあと俺は思った。しかし信楽焼の狸みたいにでっぷりと肥えた狸ではなく痩せて毛がほとんど抜けた状態みたいに貧相なここ何日か人家の塵を食って生き延びてきたという感じの狸やなあと観察しながら聞いていた。もっと親しくなったなら、その目の周り黒いのんどないしたん、煙管を火皿から目ェで吸っとったんけ、とか冗談も言えるのだが見知ったばかりの間柄では人の顔のことをどうのこうの言うことができない。しかしどうも狸に似すぎていて気になってしまうのだった。
「わいは種木ちゅうんやけろ、狸の豆やんてみんなから呼ばれとるもんだす、ひとつよろしゅう頼んますわ、兄さんの名前なんちゅうたかいなあ」そう言われて、あ、俺だけがこの男を狸に似すぎていると思っているのじゃなかったのだと、もやもやが抜けてさっぱりした。
「わしは城戸の熊やんや、なんか似たようなあれやね」
「ははは、ほんまでんな、熊には勝てませんわ、ははは、そや思い出したわ城戸はんでったな、城戸はんこれから用でもあんのでっさか?」
「いや、これちゅてどこ行く用ないけろ、ここらまだよう知らんさかいなんかおもろいとこないかなあて探しとってんね」
「おもろいとこ、そないゆうたら兄さん、ありまんがな、どないでっか今から、うっとこ」
「われんとこ、うち?」
「へへへえ、うちでやってたらおもろいけど大変やねえ、ちゃいますがな、うっとこの、盆でんがな、んやぼ、だす、間違えたははは、やんぼだす」
「盆屋か」
「へへへへえ、城戸はん、あんまでっかい声でゆうたらあきまへんがな、やんぼやったらええでふわ」
「やんぼか、やんぼ、おもろい?」
「おもろおまっせえ、酒注がしてもらいまっさ」
「どうしょうかなあ、あー暑いねえ、蔭なるとこでほな最初は様子、見してもらってもええかの」
「勿論ええおまっさ」
「ほな、連れったって」
狸にそっくりな、また名前が狸の豆やんと言う化かされても仕方がないと思わせる顔の男が鹿追をしているという可笑しな成り行きに事が弾んでしまって、とそれを自分の弱い心の言い訳にしつつ久し振りの博奕に弾む思いで二人してまだ明るい内から博奕場へと足弾ませ連れ立つのであった。まったく人の銭で何をやっているのか。

そう思ってもしかし、俺が博奕以外でどうやって稼ぐ手立てがあるというのか。というか働く気がないだけである。それこれ総て都合のええ言い訳やと言われたらしまいの話であるが、やると決めたからには勝つ、絶対勝ってやると意気を込まして着いた賭場は思ったより小さな盆屋で中盆壷振役の男合わしてもたったの六人とえらい辛気臭いなあと思ったが、俺としては大勢での博奕はあまり好きではないからこれくらいが丁度ええわと狸の豆やんに次いで入って行き軽く会釈して、丁座の少し後ろに座った。
負けて衣服を刎ねて裸同然の格好と思うと笑うが、そうではなくこの暑さにほぼ褌一丁の格好でむさ苦しい男、おっさんらが狭苦しい納屋で向かい合っているのだから余計暑い。それでみんな汗かきながら血気盛んに銭を張って吼えているのだから、いくら陰になった場所といえどもその光景が暑苦しいことこの上ない。
豆やんが戻って七人で博奕に励んでいる男らを後ろから眺めていたが、参加したくてうずうずとしてくる。豆やんが親切にも注いでくれる酒の酔いが来た頃、立て膝着いた晒し木綿に褌(へこ)姿がよく似合っているからか伊達の褌(へこ)ちゃんと呼ばれている中盆兼壷振りが「なあんや、みんな半目ばあっか張ってからに、丁目一人もおらんのかいな、ちょう、そこの兄ちゃん黙って見てばっかおってもおもんないやろうに、ちょうここで丁にどや、張ったってんか」とちょっと何故かぶっきら棒な顔で棒読み風の言い方に笑ってしまいそうになるその風情の褌ちゃんに乗せられ、よっしゃ、ほいだら張ったるわ、と五十銭を盆茣蓙に投げると「五十銭、残りは胴持ちやな、ほなよろしでっか、いざ、男伊達の、勝負」と言い褌ちゃんは壷を開いた。
「サブロクの半や」わちゃちゃ。格好つけて最初から五十銭も張ってもうてからに、負けると何故か思わひんかったのに、負けてもうた、くそう、と俺は悔しさに顳顬の汗もつうと垂れた。俺の意気込みが足りひんかってんにゃ、次こそ絶対勝つ、絶対俺は勝つど。
「ええでっか、ほな、振りまっせ」褌ちゃんが賽を壷ザルの中に投げて盆茣蓙に伏せ「さあ、張ったった張ったった」と言うと、俺はよし読めた、と次も丁に、こんだは一円をぽんと投げやった。「お、一円か、兄さん気前ようおますやん」褌ちゃんがまたそう棒読みで俺に言うと同じ調子で他のもんに向かって「あんたら古いもんが負けててどないすんねや、え?さっき勝った?そりゃ別の勝ちやがな、ああゆうたらこうゆうんやさかい、半が五十銭もあまっとるがな、おっさん金玉いらっとらんでもっと張ったりいな」と挑発するも客はぴくとも乗らない。
「難儀なおっさんらやなあ、しゃあない、ピンゾロは負けたるさかい、どや」
「ピンゾロなんか滅多に出やんがな」と褌の上から金玉をいらっていたおっさんが言った。
「ほた、出たら二倍したるゆたら、どやね」
「もひとつ負けてくろたら張る」
「そやな、ほなサンミチも負けたるわ、これでどや」
「ほなあと十銭張ろかな」
「十銭かいな、他は誰もいはらんのか、しゃあないまたわしが受けるわ、ほな、行きまっせ、一六勝負の男伊達、いざ、勝負」
そう言いながらも顔つきはてんで変わらない褌ちゃんが壷を開けると「うわ、サンゾロの丁」と顔は困っていない、この人は何があっても顔には出ないようだ、そこがまた可笑しいてそれに勝った喜びが追加されて、むほほほと俺は面白くなってきて、ぽんぽん寅三の銭を張り続けて勝ち続けた。
「ほな開けまっせ、梟盧一擲、負けたら京都行ってき、勝負。ニロクの丁」
「ぷもももも」
八円近く勝って、もうここらでやめて帰ろうと思ったが、どうせならきり良く十円勝ったところで帰ろうと思い、最後に半目に二円賭けた。
「ほな、ええござんすか、一か八かの伊達男、いざ、勝負」
「シニの丁ですわ」くわわ、負けた、最後に負けてしまった、二円も。次は半が来るって思ってたのに。しかも四・二て、まるでもう死にぃ、とでも言われてるみたいやん。一円五十銭近く勝った褌ちゃんはそれでも特に嬉しそうな顔はしないが、含み笑い的な顔のそこがまた憎い。絶対腹ん中では大笑いしているに違いないのに、て俺もか、うぬぬ。ここで帰っては褌ちゃんやないが、男伊達が腐って死ぬ、と俺はそれからも張り続け、とうとう来たときよりも十円も少なくなってしまった、つまり十円負けた、しかし絶対勝って帰るんにゃ、と張って張って、気付けば二十円負けていた。心が薄ら寒かった。八円勝った時にやめておけばこんなことにはならなかったと後悔した、そんなことはこれが初めてではなく何度も経験した後悔だが、今までとは訳が違うのはこれが自分の銭ではなく寅三から預かっている銭だからというのは当たり前の話で、その大事な金を二十円も無駄にしてしまったのだ、今日はもうやめとこうと思った、次に来たときに取り返して、それで帰ればええ話や、今日は日が悪かっただけやで、はは、大丈夫や、俺は銭の運だけはある、それってすごく悲しいなあ、その運さえなくなれば俺はどうなるのか、働くのか、わからないが、兎に角今日のところは切り上げや。
「ほなわいはこれでおいとましますわ」二十円も負けたのに格好偉そうに勝って退出する者のような台詞をかましにょろっと立ち上がると「城戸はん、またの日によろしゅう」と後ろから狸の豆やんが声をかけてくれるのにも振り返らず「おお」と言い手を振り戸をガラッと開けると山の谷あいから赤い夕日まぶしく俺を照らす、汗が反射して光る、負けた男の汗、何も美しくもない汗が光ったのであった。と言って別に勝っても美しくないのだが。徒労の汗とも言えない汗をかいて二十円減った懐は冷たく蜩ケナケナケナケナと鳴きさらし、せめて、うどんを食って帰ろうと寅三に心の内で謝りながら思うのだった。