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天の白滝 五十三

気が付けば、朝か午が来ていた。喪失の朝だ。喪失感が一定を越えたとき、次の朝に必ず訪れるとんでもない朝で、悲しみが大きすぎるため、この日常当たり前に起こる現象さえも受容することを脳が拒絶する、朝がやってきたことが堪らなく残酷なことに感ずる感覚の中に打ち拉ぐことしかできない絶望なる朝。今までに何度か味わったことのある感覚で、それは決まって朝起きた時に襲われる。一度目の朝は、家族を殺した次の朝だった、二度目の朝は、しらたきが忽然といなくなった日の次の朝、しらたきが旅に出た日の次の朝も若干あったような気がするがそれよりしらたきを探すことに只管であったから直に立ち直ることができたのだろう。
全身が不快物の塊に貪られているようだ。蒲団を見ると蒲団が惨澹なことになっていた。寝ながら嘔吐したようだ。甚だしい吐き気がする。俺は口を押さえながら裸足で外へ駆け出した。
戸を開けた瞬間、何もかも真っ白だった。外にあるあらゆる像の上に白いものが積もっている。雪原、そう思った瞬間俺は白銀の上に吐した。ほとんど胃液で血の混じった血反吐であった。吐きすぎてまた咽を切ってしまったのかもしれない。心が悲しみで飽和した俺は雪を見ても何も感じることができなかった。しかし白い雪上に俺の汚い反吐が乗っかっている事は、俺に著しい憎悪を起こさせ、俺は横から雪を掻き集めて来ると吐瀉の上に乗せてそれを隠した。隠したところで雪の下には俺の血反吐がある、それが居た堪れなかった。しかし全身中がおもぐるしく痛かったので、そのままにした。いったい昨日何をしたのか俺は、記憶が完全にぶっ飛んでしまっている。今日は一日安静にしておくしかない。俺は水をがぶがぶ飲むとぐたっと蒲団に横になろうとして、やっぱり思い直して、気持ち悪さと鈍痛と絶望感の厳しい中濡らした手拭で反吐を拭って洗うと、ばたっと倒れるようにして寝込んだ。
といっても寝られない、こんな中眠れないのは本当に苦しい。
寝られないでいると何も映らない景色が一瞬見えた。その景色を見ている俺ってなんなんやろうと思った。人は何から始まり、何で終わろうとするのか。遠くに篝火みたいなのが見える。けどそれ以外が全部闇で、そんな場所でも人は生きてゆけるのか。その篝火はいつまで経てども篝火のまま、どんなにその小さい灯に向かって歩いても走っても届かない、それとも走ればなんなく届いてしまったが、篝火の側から辺りを見廻した時、周りは真っ暗闇、どちらがええと思う、篝火がなんなのかによってそれは意味が多分と変わってくる、篝火は何か解らない得体の知れないものなのか、それとも人がその光ひとつ知るならどんなに不幸でも生きてゆくことができる光なのか、それがわかればええ、それだけがわあれば。
俺が手にしたものは、信じられないほどの明光だった。俺にそれまで与えられていた宿命、孤独、堕落、暴力、絶望、虚無、罪、それらはどのようにして暗転してゆくのか、神に試されていたのかもしれない。
俺は明光を手にした、透かさず手にしていた、飢え切った猿がきしきしっと鳴いて我のもんじゃいと叫びながら目にも留まらぬ速さで人の手から葡萄の実を盗み取るように、俺は気付や、この腕の中に嬰児のしらたきを抱いてあやしていた。
それから少しずつ、俺の中にとめどもなく流れていた滂沱たる赤黒い血が時にあやすくらいにまでなったことは確かである。それが、やがて止まるかもしれないと俺は思っていた。阿呆すぎる。しらたきはいつまでも俺の側にいてくれると何処かで思っていたのだ。
畳の上に置かれていた一升瓶が目に入った。昨日、俺がしたこと、話したことを思い出した。
白い坂を滑ってゆこうとする。一度滑ったらもう止まらないだろう、何故ならその坂は雪の坂であるから。止まろうにも止まれない。その坂を滑っていったらどこへ行くのか、しらたきとはぐんぐん離れて行ってしまうのだろう。昨夜、俺はその坂の頂上に立ったような気がする。俺の背部には何があるのか、それはわからないけれども。わかるのは、俺が破壊してしまったものは、おっさんの前歯二本でもなく、丸太ン棒を持っていた男の肩甲骨でもない、俺が破壊したもの、それは俺の未来。俺の時間、俺としらたきの時間、それが木に激突した雪兎のように粉々に砕け散って元通りにすることが不可能となった。気がしてしまう。しらたきは俺ではなく、松河絹と松河源次郎を選んだ。しらたきは俺の娘ではなくなって、松河家の娘になった。もう俺のところへは帰ってこない。
吐気がまた上がってきたがもう吐きたくないと思い唾を飲み込むと吐気がしずまるような気がして唾を沢山飲んだ。そうして少しの眠りに入った。
家族みんなで御膳囲んで楽しそうに飯食っている。俺は成人していて、しらたきがそこにおる。ちびっこいしらたきがおる。みんなで何がそんなに楽しいんだろうか、みんなで飯を食うだけのことがなんでこんなに楽しいんだろうか。おかしいなぁと思いながら俺も笑っている。しらたきも嬉しそうにけらけらと笑っていて、俺の親父がそんなしらたきを抱っこして膝に乗せる。孫の顔を見せることができてよかった、と俺はほっとしている。間に合ってよかったと思って心からほっとしている。
目を開けたら真っ暗だった。目から熱いものがいきなり溢れてきて次々に耳の中に入ってくる。耳が満水となっても俺は横を向くことも出来なかった。俺はやっと横を向くと子供のように咽びながら声を出して泣いた。
その時戸をガラっと引く音が聞こえて「熊やん?」と寅三が入ってきた。俺は吐気はなくなったが鈍い痛みは変わらない体を起こすと行灯に火を点した。
「熊やん寝とったん」と居間に上がってきた寅三に向かって「うむ、昨晩ちょう飲みすぎてもうてな」と洟を啜りながら応えると「そうなんか、外えらいどか雪やで」と言いながら寅三が俺の顔を近くで見ると驚いた顔をして言った。
「熊やん、その顔どないしたん」
「ん、なに」と俺はとぼけた振りをした。
「ごっついこと腫れとるがな」
「うん、ちょっとな、酔って猿らと遣り合ってもうて」
「山におるあの猿?」
「そうや、てちゃうよ、博奕場におる猿」
「ほんまか、うわぁ、痛そうやなぁ」と寅三は俺の顔を嘗めるようにして見るから俺は「うん、痛いけろまあ大丈夫や」と言いながら顔を逸らすようにして火鉢に火を熾していると寅三が懇ろに聞いた。
「熊やん、なんかあったんか」
寅三は普段はへらへらとしておる男だが、人のことを良く見ているというか洞察力に長けているところがある、とそういえば昨日の寅三も俺を見て心配そうな顔をしていたし、俺の変化を素早く感づいて心配してくれていたのか、と俺は少しく慰められる気持ちになった。しかし俺はそんな親身になってくれる寅三に対し本当のことを話すことをとつおいつ躊躇った。俺は決してしらたきとまた一緒に暮らすという望みを完全に諦めた訳ではない、だが俺の今日のこの底なしのような喪失感と絶望感は俺が諦めたということを裏付けているとしたら、俺の中に甘受されたとされているであろう事が俺以外の者にそれを話すことによって俺の中だけで行われていた諦念甘受されたしという判を押されたような観念が俺以外の者によって象徴されたる事になってしまいそうな気がして俺は話すことが出来なかったのである。
俺は返事をまっている寅三に向かって言った。
「いや、なんもあらひんねけろ、ただこの師走っちゅう時期がなんや追い込まれてくるような感じしてしんどくなてまうねんな」
「そないか、それやったらええねんけどさあ、熊やんてなんや一人でもんのすごい抱え込んでるんちゃうかおもてな心配になってね」
「そんなこともないねんけろな、すまんな、いらん心配かけてもうて」
「ええてええて、そのうちわいもごっついな心配さしたるさかいゆうてな、ははは」
「ははは、ほな頼むわ」と俺はいつか途轍もない心配をさせてもらうことを寅三に頼んで、今日は俺もう酒飲まれんで呑み屋行けんですまんと謝ると、んなんええがな、しんどいならほなまた寝とくかと聞かれ、一人は辛いと思ったので、なんか部屋で遊ばへんとなって、ほなまた賭け事を、つって乗せられて賭碁をすることになり今次は俺が大いに負けて、次は勝ったんでと言いながら顔では笑っているが、胸はずっと苦しくて心の中は塵色の雲と地の間が五尺ほどしかない雪砂漠のような場所に俺一人ぽつんと立たされて、胸から上がこの世にない、という気味の中に、在って。


天の白滝 五十二

しらたきをずっと抱っこしていると全身にしびれがきだしたが、それでも下ろすのは嫌だからとその体勢を保っていると、一眠りした、という顔でしらたきが目を覚ました。俺は慌てて顔を逸らした。泣き腫らした目をしらたきに見せてはならない、どないしょうと思い、しゃあないと俺は水辺から上がってきたイヌのようにぶんぶんと頭を振って、むさ苦しい前髪を前に垂らし赤い目を見えづらくした。
「よう寝てたな」と言うとしらたきは「うん」と言って「ぼくもう帰らんといかん」と体を起こし俺の膝から退いたので俺としらたきとの間に空隙が出来てしまった。それだけのことで俺はたまらない苦しみを覚えた。
「ほな送ったるさかい、帰ろか」と俺は立ち上がって丹前をしらたきに着せて戸を開けようとしたとき、しらたきが「くし」というので俺は花櫛を持ってきてしらたきに渡した。しらたきはそれを大事そうに着物の襟の中へ仕舞った。しらたきにこうして何か買ってきてやるというのは俺はあまりしたことがこれまでなかった。しらたきは珍しく何か買うてきてやったら物凄く喜んで大切そうにしてくれる。それを不憫に思うこともあったが、なんでもかんでも与える養育を俺はしてこなかった。それは俺が親父がたまに買うてきてくれた俺への玩具などがたいそう嬉しかった記憶が残っているからである。子供の俺は感じた、収入の少ない親父が切り詰めた銭で買うてきてくれた玩具はいかにも安そうな玩具であったが、その価値はどんな高い玩具よりあると、心の底から嬉しかったし、飽きてほったらかすようなこともなくずっと大事に扱ったものだ。しらたきにもその喜びをわかってほしかった。だから俺は滅多に物を買うてきてやることはなかった。だから着物とかでも、全部近隣でもらったお古などを着せていた。しらたきは文句のひとつも言わなかった。それが今ではどうだろうか、きっと富祐な松河家では、これがいいわ、やっぱりこれなんかどうかしら、などとまるで人形のようにあれやこれやと照合されてはまた別のものをとっかえひっかえ着せられているのではなかろうか。それではしらたきが可哀想である、それに物の値打ちというものが分からなくなってしまう。
そんなことを考えながら、俺はしらたきと夜の野道を歩いていた。
「星がいっこも出とらんなぁ、あいたは雨かもな」
「雪は降らんのん」
「さぶすぎたら雪が降るなぁ」
「さぶいと雨が雪なるんはなんでや」
「なんでやろなぁ、あれちゃうか、人もさぶすぎるとさぶすぎて動きたないって思うやろ」
「うん」
「しゃあから、雨も同じで、さぶすぎてもう俺たち動きたくありませんて思って、ほんで固まって雪になってまうんちゃうかな」
「ふーん」
「たぶんそうとちゃうかなぁ」と俺はこの同じ話をしらたきが小さいときにしたような気がしたが、しらたきは俺から教わったこともすべて忘れてしまったのだろうか。
俺としらたきの吐く息が白く目に見えて、それはまるで俺の魂としらたきの魂が口から外に出て魂同士で喋ってるみたいな状景が浮かんだ。代わりに冬の夜気が口の中へ入って来て体内にじんわりと浸透してゆく。
「しらたきさぶないか」
「これ、あたかい」しらたきはそうはゆうが、変にさむがりだったから、きっと手足はかじかんでしまっているに違いない、と俺は心配してしらたきの手を握ろうとした。しかし俺の左少し後ろを歩くしらたきのほうへ差し出した手をすぐに引込めてしまった。て、これじゃ前に見た夢のまったく同じではないか。しらたきの手を握りたい、握ってあっためてやりたいと思うのに、なのに握ることができない、なんでなのだろう、悲しい。するとしらたきがか細い空気の中にさらわれて今にも消え入りそうな声で呟いた。
「ぼくのじんせい、ないような」といいかけた時、前から「熊やん」と呼びかけられた。
寅三であった。俺はくわわわわ、と思った。寅三が声をかけたせいでしらたきの言葉が最後まで聞き取れなかった。一体何を言おうとしていたのだろうか。寅三がほっとしたような顔で走り寄ってきた。
「しらたきちゃん、熊やんと一緒におったんか、安心したわ」と息を切らして言う寅三に俺は迷走的な気持で応えた。
「偶然、近くで会うてな、今から家ィ送りィいくとこやたんや」
「そうだんね、うちのもんがみな血の気引いたよな顔で探し回っとってな、ははは、まあわいは多分熊やんとこおるんちゃうかおもて熊やんち行くとこやってん」
「ほうか、そら入れ違いならんでよかったな」と言いながら、なんで入れ違いになってくれへんかったんや、とこの偶合をのろうた。
「せやが、熊やん、しらたきちゃんと一緒おるとこうちのもんィ見つかるとよろしないね、今以上の堅牢の門になってまいよるわ」
「せやね」と言いながら俺は身を切られるような感触になった。
「またこうゆうことあたら、わいを呼びィ来てくれたらええね、そしたら迎えに来るさかい」
「そやな、おおきに寅ちゃん」
「ほな、しらたきちゃん連れて帰るわ、あ、あいた熊やんち行くさかい、日没あたりかな、飲みに行こうな」と気前好く言う寅三に手を振って返し「おう、ほな待っとるわ、気ぃつけて帰りや」と二人が歩き行くのを見送った。最後にしらたきと一目合わした時、俺はたまらなかった。だんだん遠ざかってゆく、しらたきと寅三の後姿が闇に消えてゆく、俺は振り返らないだろうかとしらたきの後姿を見送っていたが振り返ることなく寅三に手を引かれてしらたきは見えなくなってしまった。
俺はこれから寝られるまでに何をすればいいのかと思った。ただ酒を痛飲するのではこのたまらない愁傷、喪失感は弛んではくれないだろう。こうゆう時に仕事があれば人は救われるのだろうか。しかし俺には不幸にも仕事がない。そこらの田や畑の雑草たちをすべて奉仕の思いで引っこ抜いて回ればよいだろうか。俺などに引っこ抜かれた雑草たちは哀れである。俺がするべきことが何一つない。俺は出家するべきなのだろうか。そう思いながら、やっぱり博奕しに行こうと思い博奕場へととぼとぼ足を引き摺る様にして歩いた。博奕場なら大勢の人間にまみれていくらか気が紛れるかもしれないと思ったのだ。俺は途中に一升瓶を買って行った。
一升瓶をぶらぶら提げて呑みながらふらふらと歩いて着いた賭場で、俺は自棄の弥ン八となり酒をがぶがぶ呑んで飲んで銭を張り張倒して行った。気付くや二十五円勝ち取っていた。しかし俺は今日は勝つ為にやっている博奕ではなく、博奕に集中してほかのことを一切考えないためにしているだけだから負けても別によかった。酒でほてり狂った脳を垂れ流す、汲み取り式の厠のように流した脳は博奕場の暗くて狭い空間を漂って行き場がないのでまた自分の頭がそれを汲み取って脳の中に戻ってきてまたそれを脳から垂れ流すのを繰り返しているだけである。
その脳には銭、賽子、壷ザル、四匁蝋燭などしか映っていない。人間を脳内から根絶させようとしている。ある不安は但一つ一升瓶の酒がもうちょいでなくなってしまうということに俺の脳がきりきりきりと鳴く。ぶっ倒れる寸前のような気もする、早く打っ倒れたい。俺はここで打っ倒れてしまったら俺を家まで送り届けてくれる人はいそうにないし、いたとしても俺が気絶してしまっていては誰が俺の家の場所を説明するのか。てことは俺は明くる朝までここで気絶したままで凍え死ぬということも考えられる。そうならないうちに去なねばならん。と俺は「ほな、おいとまを」と言いかけたその時である。
俺の左側向こうのほうから「胡魔化ししとんちゃうけ」と言う声が聞こえた。明らかに悪意のこもった言い方であった。俺はその場にぬっくと立ち上がるとその声がしたほうを振り返って「われ、だれィゆうとんね」と言った。舌が半分回っていなかった。すると一人の知らんおっさんがにやつきながら「ひょひょ、地獄耳やのぅわれぇ、誰のことやて一人しかおらへん、のっ」と皆に同意を求めるように言った。「前回も見とったけど、そない勝ち続けるんはなんか胡魔化しでもせなおかしいちゅうとんねん」とそのおっさんの言い方が癪に障った俺は「ほな俺がどうゆう胡魔化ししとんか説明したってくれへんけ」と俺は立っているのも難儀であったので、恫喝も含めそのおっさんの前にずたずた寄っていき、その肩に腕を回して凭れ掛かりたかったので俺はそうしながら「おい、はよ説明したれや、俺に」と言った。するとおっさんは思い切り腕をぶんと振って「んなもんわしが知るかあっ」と言ったそのおっさんの振り解こうとした肘がまともに俺の顔面中央に直撃して一瞬何が起こったのかよくわからなかったが、顔の真ん中部分に激烈な痛みを感じて俺は鼻の下を拭うと手の甲に鮮血がぬらと付いた。それを見た俺は体内を流るる血がいっせいに沸騰したようになり、その瞬間にはおっさんの顔面を思い切り殴っていた。打っ飛んだおっさんの顔面も血だらけになっていて、元からないのか俺が殴って折れたのか前歯の二本がない間抜けな顔で「ひいいいいいぃっ、痛いぃ、歯が折れた」と言ったので、あ、俺が折ったんや、と思いながら続けざまにおっさんを打ん殴ってやろうとしたら周りのもんに後ろから、横からと止められて関係のないもんまで頭突きまわして「おまえもか」「おまえもか」と言いながら全員掛かってくる奴らを滅茶苦茶に撲り倒していると、しまいに全員から思い切り足蹴り、どこから持ってきたのか丸太棒でおもくそ脾腹を撲られるなどして、俺は激しい痛みのあまり小さくなって頭を抱えて丸くなった。撲られ蹴られながら俺は思った。いつもこうだ、相手が間違っていて俺が正しいのに誰も俺の味方となってくれる奴はいない、俺の言うことを誰も聞いてくれない、俺は胡魔化しをやっていない、俺は暴力というものが本当に嫌いだがあえて暴力の恐ろしさを見せ付けて暴力が大嫌いだということを言いたかったんや、暴力はこんなに嫌な気持になるものなんだとみんなにわかってほしかったんや、なのにこいつらときたらなんもわからないのか、俺がおっさんを撲って清々しているとでも思っているのか田沸けども田でも沸かしとけ、俺は暴力を信じない、俺は暴力を信じない、俺は暴力を心から憎む、そう思いながら俺は側にあった一升瓶を掴むと丸太ン棒で撲ってくる男の肩に振り上げた。その時逆さになった一升瓶から残っていた酒が俺の顔に降り懸って酒が鼻の中に入り激痛を享受した、惠の激痛だ、俺は肩を撲られ痛みで転げ回っている男の横で一升瓶を持ってのそっと立ち上がると「どたまかち割られたい奴来んかあ」と力無い声で言った。みんな黙って退いて様子を伺っている。「おい、なんや目ェがいっとんど」「やばいどこら」と口々にぼそぼそ言っているのが聞こえる。
その時俺の視界に横なぐりに細かい雪みたいなものが吹雪きだした。俺は知らない間にみんなに向かい落ち着き払ったように話し出していた。
「もう、猛吹雪がやってきまして、さぶいったらありません、凍える?ノン、そんなのとうに超えてるんです、だから吹雪いてまんねん、でもそれは真横に吹いているくらいの激しい風雪です、そこへ飛んでくるものがたくさんあるんです、例えば食卓に並んだ酢醤油の瓶なんかも勿論飛んできますけれども、まあそれはいいとして、俺が見たのは、雪兎が見えたね、なんでか、小さい誰が作ったかわからんのだが雪兎が真横に飛んできてんね、むっさ速い、そりゃ速いよ、風速がなんせ凄く凄く速いから、雪兎が風速で真横に飛んで行き林の中を神速して樹に激突したんや、どうなるかおまえらにもわかるやろ、雪兎は粉々に成り果てたんや、それがどうゆうことかおまえらにわからんか、雪って脆いっちゅうことや、もろすぎんねん、もろいからなあ、雪は雪なんやで、おまえらは今そんな雪景色の向こう側におる、その懸隔の中間は美しい雪景色やゆうから皮肉やね、おまえらは醜いし、俺も醜い、その中間をものすごい速さで走って行って死んだ雪兎の気持は量り知れんて思うね、誰が殺したかわかるか、俺とおまえらや、俺とおまえらの暴力が白い雪兎を殺してもうたんや、それを俺に伝えたかったから俺にこんな吹雪く景色を見せたんや、俺らが暴力を駆使したそこで苦しんで死んだんか、苦死か、櫛の形そういや雪兎の形やったなあ、その形を壊したんだよ、おい、てめえらわかってんのか、なんとか言えよ、おい、壊したら元通りできねえんだよ、おい、こら」とだんだん声が荒くなってきたら、横から伊達の褌ちゃんが「もう今晩はここらで退散しいひんか」としんどそうな声で言った。俺はそれに反応してまた話し出した。まだ肩を撲られた男が俺の横で「いてえよお、いてえ」と言っていた。
「たいさんか、おまえらは胎散すんねやな、そうやって胎内に散らばろうとする、胎児になってまた行きたいところへ行こうとする、胎内は騒がしい、俺は探すんや、そう、胎内は雪原の如く白いからおまえら逃げてもすぐ見つけてまた撲ったる、散らばりたいだけ散らばればええさ、ええさ、俺はおまえらを引き戻したるさかいな、散らばってもな、無駄やで、そやさかいな、俺もな、散るわ」と限界を感じた俺が言うとふらつきながらいつの間にか下ろしていた一升瓶をまた持つと「空やわ」とびびった顔で俺を見ていた狸の豆やンに向かって言って一升瓶を置くと、俺は博奕場をいんで寝所へ生ける屍のようになって歩いているのかよくわからないまま帰った。
寝所に着くと俺は蒲団のあるところまで這ってってそのまま失神した。


天の白滝 五十一

俺は、家族を殺すために生まれてきたのだろうか。
俺が生まれんで別の人格者、別の人間が生まれていたら、多分家族は殺されずにすんだであろう。
何から始めたらええのかな。しらたきに会えないと何から始めればええのかさえわからない。しらたきは俺に会いたいとも思ってないのだろうか。何故こんなことになってしまったのか。この世界はわからないことだらけだ。もしかしてあれか、俺が平穏を恐れるようになったのは平穏の暮らしには必ず幸福感が必要になってくるからという理由もあった、俺は家族を殺してから自分が幸福になることを恐れていた、幸福を求めてしまうのは人間の性だから恐れながら俺は求めてもいたのだが、やはり怖かったから、幸福来んな、俺んとこには来んでええ、という存念で生きてきたが、それはしらたきに出会うまでの話であって、しらたきを拾ってからは仕合せになりたいなぁと思って来た俺は、しかし神はそんな調子のええことをほざくなかれ、と俺に間断なく平穏を訪れさせないように奮闘しているのかもしれない。だとしたらちょっと待ってください、と俺は言わなければならない。言いに行こう。どこに言いに行けばええんにゃ。近くに小さいが祠があったな、言いに行こう、もう。思い立ったが吉日である。これはきっと夕飯を食うて、ちょこっと酒を飲んでええ気分になってからいてこましたればええか。では、夕飯食うてからは凶となる、みたいなことになる。それにこの前伊勢で寅三が言っていた満腹で神の前に現れてはならない禁忌のような事は俺は結構信じてしまう、信じていてもすぐに忘れて、行ってから、あっ、しもた、とかゆうてるのが俺だけれどもってだめやん、それじゃあ。今はちょうど空腹だ、よかった、こんなに腹を空かしているのに飯を食うより先に祈願しに行く人間をきっと神は憐れに思われて聴き届けてくれることだろう。しかしそんなせこい心のうちを神さんはわかっていたら聴いてはもらえない気がする。どないしょう。まあええか、兎に角行こう。
俺は茶の縦縞模様の丹前を羽織ると、さっぶーと思いながら外へ出た。
歩きながらもうすぐ祠のある場所に着くな、と思ったところで俺は、しまった、と思った。丹前を羽織ってくるんじゃなかった、こんな温かい着物を着込んだ人間の言うことなど神は聴くだろうかと思ったのである。どてらを着込んでわしの前に来るなどどてらい根性を持っておるではないか、よしその願い聴届ける。と思ってくれる神がいると思えない。しまったあっ、脱ごうかな、と、丹前の紐をほどき掛けたその時であった。
俺の目がある一角を捉えた。そこまで近づいて行って道の隅っこに横たわっているものを見下ろした。それは鼬であった。口から血を流して死んでいた。どうしたのだろうか。鼬がひょろっと草陰から現れたりするのはよく見掛けるが、こうやって死んでいる姿はあまり見ない。痛々しい事象だ。なんで口から血が出てしまったのだろうか。哀れな鼬である。
俺は一瞬この哀れすぎる鼬を土に埋めてやろうかと思ったが、ある場面が俺の脳裡に浮かんで血を流しながら死んでいる鼬と俺が殺したあと動かずに横たわっていた肉親の姿とが重なり激しく呼吸がおかしいことになり俺はその場を即離れた。
しらたきに会わしてください。俺のしらたきに会わしてください。と泣きながら祠に縋り付く自分の末々の姿を思ったが、いざ祠の前に着くと、俺は何も願えなくなってしまった。願うことも謝罪することもできなかった。唯おれは、祠の前で洟を垂らしながら蹲っていた。涕は出ないのだが洟がものすごい垂れてくる。寒いが動けない。俺は祠の隣に置いてある小さな地蔵の頭を撫でた。地蔵の頭は冷たかった。あの鼬の頭も撫でたら冷たかったのだろうな。俺の殺した親父と、それから、みんな俺が殺す前は温かかったのに、俺が殺した後には冷たくなっていった。俺がみんなを冷たくしてしまった。そしてみんなを冷たい土の中にやってしまった。俺だけがこんな体温を持った体で、しかもこんな温かい褞袍を着てるのはおかしい。俺は今すぐ裸になって真冬の池にはまりたい気持ちに駆られたが、肺炎になって死ぬ恐れがあるので、それはやっぱりやめとこうと思った。死んだらしらたきに会えなくなってしまう。
俺は無意味な罪滅ぼしをする為に立ち上がり、鼬のところへと戻った。
その道半ば辺りのところで俺は幻を見た。しらたきが死んだ鼬を抱いて頭を撫でている。そして俺の方へと近寄ってくる。竟に俺は幻覚を見るほどにまでおかしくなってしまったのか。しかし幻覚とはこんなにはっきりと見えるのか、しらなんだ。すると幻のしらたきは俺の少し離れた俺の前でこう言葉を発した。幻聴である。
「熊太郎や」
俺は吃驚した。幻覚であるしらたきが俺の名前を呼んだのだ。なんで幻覚なのに俺の名前を知ってるのか。俺は幻しらたきに応えた。
「しらたきやっ」
すると幻しらたきは顔をちょっと歪めた。実しらたきが人に向かってよくする訝る思いを表している顔だ。よく知ってるなぁ、幻しらたきは。俺は幻しらたきに訊ねた。
「鼬持てどこ行くんにゃ」
幻しらたきは訝りながらこう言った。
「ぼくんとこ」
「ぼくんとこてどこにゃ」幻しらたきは面倒くさいなあという顔で続けた。
「ぼくがおるとこの家」
「家持て帰るんか、持て帰てどないすんねや」
「飼う」
飼う、と言った、幻しらたきは、まだ幻しらたきとなって日が浅いのだろう、鼬が生きているのか死んでいるのかさえわからないらしい。
「そうか、しゃあけろな、そいつもう死んでもうとるさかいに、飼うよりは土に埋めたったほうがええな」そう言うとしらたきは鼬を見て動かなくなってしまった。
幻しらたきは消えてしまうのだろうか、怖くなった俺は幻しらたきの元に歩いて行き幻しらたきの頭を撫でた。すごい幻である、髪の毛一本一本までもが精密に本物のように手に触れることが出来る。俺はそれでもまだ信じられない気持でいた。しらたきとはもうずっと会えないような気がしていたからだ。俺は枯れたような声でしらたきに言った。
「しらたきんとこのお庭に埋めたろか」
したらしらたきは、いやんいやんと鼬を抱きながら全身で、嫌やというのを表した。
「そうか、嫌か、困ったなあ」俺は困りながら、あっ、と思い、閃いた。
「うちにそいつとちょっと似とるやつがおまえのこと待っとるで」
しらたきは顔を上げて、俺を見上げた。錯綜な顔をしている。俺も錯綜な気持になった。ゆうたら、それはもう死んでしまっている鼬よりも、うちにおる生きたそれに似た生物のほうがええやろ、せやさかいそいつのことはもう諦めろ、と言っているのと同じだからである。
「ちゃうねん、そうゆう意味とちゃうんや、そゆうことやないんにゃ、しゃあけろそうゆう意味でもあるんや、死んでもうたもんはもう飼われひんにゃ、それはなんでかちゅうとな、死んでもうたらもう生きてないってことやから飼われんねや、飼うってことは生きてるもんの世話をするっちゅうことやろ、てそれはしらたきもわかるわな?」
しらたきの涙が、鼬の口元に落ちた。しらたきの姿をじっと見て、冬物を何も羽織っていないことに気付いた俺はどてらを脱いでしらたきに羽織らした。そしてしらたきに「寒いさかい、いったんうちかえろか」と言い、勾引かしているような気持で左右には冬枯れた草や木があらゆる方向に生え繁った上り坂をしらたきと一緒に上った。道の境界線の上には山が見えて、その上から夕日が覗いて眩しい。俺としらたきと死んだ鼬を照らす。前に見た夢を思い出す、あの夢もこんな坂道をしらたきと一緒に上っていた。
家に着くと、しらたきは自分から黙って家の前に行き、鼬を下ろすと前に鵲を埋めた隣の場所の土を手で掘り始めた。手で掘ったら痛いがな、と慌てて俺は落ちてあった木の枝を拾うとそれをしらたきに渡し「これで堀り」と言った。しらたきは前からこうゆうところがある。さっきまであんなに嫌がって駄々を捏ねていたのに突然何がしらたきの中で起こるのか自ら黙って遂行し出すのである。一種の激切な撥無をそこに感じる。しかしそうゆうところがまた、また、と一生懸命土を掘っているしらたきを俺は眺めていた。
「かささぎ横ィおるさかい、いたちさびしないやろか」としらたきは不安そうな顔で俺に聞いた。
「おう、これでさびしないやろ、せやけろ、あれやなぁ、しらたきがしょっちゅう会いに来たらもっとさびしないんちゃうかなあ、つって」と俺はそれは俺がしらたきに会いたいだけでそんなことを言っているのがそこらへんのところが鋭そうなしらたきにばれるだろうかとひやひやしながらしらたきの顔を覗いたら、しゅんとした顔でしらたきは応えた。
「毎日来たいけろ、出さしてくれへん」
「今日も黙って出てきたんか」
「うん」
やはりそうであったか、あの松河がすんなりとしらたきを外に一人で出さすはずがない。はあー、なんかええ方法はあらへんやろかなぁあ、と思っているとしらたきの目線が何かを追っていた。何を追ってるの、としらたきの目線を追ってみると、そこには、あの暴れ倒して連れてくるのに往生したボオちゃんがおった。
「ははは、しらたきおぼえとるか、こいつ」と言いながら柵の中に入ってボオちゃんを触ろうとすると、逃げた。
「うさごや、おぼえとお」
俺はぐわあん、と頭が鐘のように鳴り響いた。てことは、てことはつまりその、そう。俺のことはすっかりと忘れ果てたが、この兎のことは覚えてるってこと、それは、どうゆうこと?何故?何故?なんで俺のことだけ忘れてしまったんやあっ。と相当な打撃を受けながら、ぐわんぐわんと頭の中で揺れていると、しらたきも柵の中に入ってきてボオをいともたやすく抱き上げた。俺はそれに二重の打撃をこうむった。むかつくなあ、ボオ。なんかちょっと飛蝗みたいな顔しとんでおまえ。と心でボオに言いながら俺は、喜んでいるしらたきに視点を合わすと今度は頬が緩んで直らない。
そろそろ日が暮れようとしてきたので、俺は土間に入ってしらたきの大好物の芋粥と、それから粕汁を作るのに励んだ。松河は今頃またしらたきを探し回っているだろうか、知るか、ぼけ、探し回っとけ、あほんだらが。と勝ち誇った気分になって、ぴーひろろろーぴーろろー、と口笛なんか吹きながら作って出来上がった夕飯をしらたきと一緒に食うた。
しらたきとまたこうやって飯を食うていると、涙がこぼれそうになる。しかし、しらたきは俺以外の人間が本当に苦手だったのだが忘れてしまった俺という他人の前にいても平気なのだろうか。芋粥「うまい」とか、普段は他人には見せない顔で俺に接しているのは何故なのだろう。もしかして、こいつ俺のこと忘れてないのに忘れた振りしとんのとちゃうやろな、と思い俺は気に掛かっていたことをしらたきに問うてみた。
「さっき、おまえ俺のこと熊太郎ちゅたけど、なんでそない呼んだんにゃ」
「あんさんの名前、熊太郎やろ」
あんさん、と呼ばれてまた俺は顔がふにゃとなってしまったが慌てて戻して「そやで、けろなんでしらたきがその名前知っとんねや?俺のこと忘れとんのに」と聞いた。
「家で、みいなそう呼んどった」
「ほんまか、みいな俺んこと呼び捨てか」
「うん」
「寅三もか」
「寅三は、熊やんちゅうてた」
「そうか、ほんでも、しらたきは、俺んことあんさんちゅて呼ぶほうが呼びやすいんちゃうけ」と照れを隠しながら言うとしらたきは「うん」と言ったので俺は嬉しさのあまり黙り込んでしまった。
あっ、せや、あれしらたきに渡そう。と俺は伊勢の土産屋で買うたしらたきへの土産の花櫛を持ってきて、しらたきに渡した。
「それおまえに買うてきたんや、開けてみ」と言うとしらたきは包みを開けて中から花櫛を取り出して、行燈の前に翳して見ている。
「これ、なんや」
「知らんのか、おまえ、それ櫛や」
「くし、くしてなにゃ」と聞く。そういえば、俺は今までしらたきの髪を櫛でといでやったことがなかった。いつも手ですいてやっていたのだ。櫛など使わずともしらたきの髪は真っ直ぐでさらさらなので必要がなかったのである。でもこうやって大きくなったのだから、櫛のひとつやふたつ持っていても良いだろうと俺は櫛を選んだのだが、しらたきの髪を触ると変わらずさらさらだから特に必要はないのかもしれん、しかし花櫛は髪を結ったときに飾るものでもあるから、これ飾ったったら可愛いやろな、と思った。
「こうやって使うんにゃで」と言いながら俺はしらたきの髪を後ろに回って梳いでやった。前はおかっぱ頭だったのが、結構あれから伸びて肩に掛かるか掛からないかというほどにまでなっている。「もうまとめれそうやな」と俺が言っても、気持ちがよいのか黙って髪を梳かれているしらたきが思い掛けない信じ難い言葉を発した。
「あの人、ぼくのほんまのお母さんや」
俺はその言葉に手が止まった。そして言葉を出そうにも言葉が咽に突っ掛かって出てこない。
「あのおっさんもぼくのほんまのお父さんや」としらたきは言って俺の方に向き直って俺をじっと見た。「んなわけあるかいな」と言いたかったが、言葉が出なかった。それが本当なのか違うのかという問題はどうでもいいことで、俺はしらたきが何故そのことを俺に伝えたのか、その意味がわかったからだ。しらたきは、もう俺のところへ戻ってくる気はない。それを俺に伝えようとした。俺は涙が目の外側に押し寄せてくるのを必死に堪えて「さよか」としらたきに言った。
耐え難い悲しみの中、火鉢の灰を火箸でいらけていると、しらたきは俺に抱っこをせがんで来た。しらたきをいつもしていたように抱っこしてやるとしらたきは目を閉じて寝そうな感じになっている。俺が悲しんでいるとき、こいつはいつもこうやって抱っこをせがんで来たが、それを覚えているのだろうか。しらたきの寝息が聞こえてきたので、しらたきを抱きながら俺は声を殺していつまでも泣いていた。


天の白滝 五十

魚、うまいよね、と寅三と意見が一致したことで鮨屋を見つけ持ち帰って家で食うから適当に三人前、あと刺身も見繕うてくれ。と頼んで、待っている間に俺と寅三は少々の酒と肴を嗜んだ。鮨屋の亭主に「家どこや」ちゆわれて「水分のどこどこや」とゆうと「ほなあいたの朝ィ桶取りィ行くさかい出しといてくんろ」と言うので「そらおおきに」と親切な亭主から鮨を受け取るとこんだは酒を買いに行って我家へと帰ってきた。ボオちゃんは小屋の中で寝ていた。陽気に満ちて月見をしながら縁先で寅三と呑んでいると弥五郎が帰着。男三人揃って馬鹿話で盛り上がり明後日伊勢に弥五郎おまえも来いと言うと弥五も乗り気になって「行かいでかっ」となりその晩は朝方まで三人で飲み明かして鳥たちがチナナ、チナチィと鳴き出す頃になって三人は畳に雑魚寝した。酒を飲んで寝ると一度はすぐに俺は目が覚めてしまう、丁度、あ、そや桶を軒先に出しておくのを忘れておったと桶を持って外へ出て桶の中を見ると米粒がようさんついていた。
俺は近くの共同の川戸として使われている湧水場ひやみぞへ歩いていった、そこで桶を洗おうと思ったのである。楽しく飲んだ次の朝というのは気持ちの良いもので、宿酔の気配は訪れないし、銀杏の葉は黄に染まって嬉しそうだし、あー、なんかごっついええわあ、と思いながら俺は桶を湧水で洗っていた。水がまた気持ちええんだ、これ、といいながら黒い桶の外側を見ると金の紅葉と錫色の桜の画があしらわれている、ほーこらまた上品な、などと言いながら洗っていると村の女たちが大根や蕪の入った篭を持ってぞろぞろと入ってきた。せっかくええ思いで俺は桶を熱心に洗いながら日本の情調に触れていたのに、女たちが近くに来たのでは落ち着いて洗っていられない、しかし桶を見るともうすでに米粒の跡形が微塵もなかったので俺は女たちに軽く「おはようさん」と言うか言わまいで行くか、どっちがええのかと悩みながら立ち上がって言葉がすんなりと口から出たら言うこともできたが出てくる気配がなかったので俺は気不味いながらも黙ってひやみぞを後にしようとしたら、一人の女が俺に向かって何か言おうとしているのだが相手もなかなかすんなりとは言葉が出てこないらしく、あ、あ、と口を開けっ放しで俺はそのことにいたたまれなくなって顔を伏せて跑足で撤収した。女が聞かんとしていたことはまあだいたいわかっている、村を離れてどこかへ屋渡りでもしたのか、しらたきはまだ見つかっていないのか、とかだろう。確かに聞きづらいことだ、それを聞かれて俺もしらたきは見つかったで、ふんで二十歳そこそこなっててん、そいでから突然旅に出よったわ、ほんだら毒蛇に咬まれてん、ほでしらたき別の家に捕られたわ、ははははは、などと話せない、聞かれなくてよかった、とそれに俺は村の男と話する以上に村の女と話するのが大々大の苦手である。俺はほ、ほ、ほ、と三度くらいほっとしてそのまま鹿の脚となってうちに帰った。そして桶を軒先に掛けて寅三と弥五郎の間に潜り込んでまた寝直したのであった。
その日は午過ぎに弥五郎に起こされて「わいまた山行てくるさかいの」と言うと弥五はぺぺぺーんと家を飛び出していった。ほんま元気なやっちゃ、元気すぎるわ。と思ってまだ寝転がって、むにゃむにゃゆうてる寅三を「おい、もう午過ぎてるわ」と起こして起きたら、弥五郎が帰るまで何するって話になってまず午飯を食べに行って、水分をふたりでぶらつき帰ったら花札で銭を賭けてやったら寅三に五円も買ってしまって、これではあまりに寅三に悪いと思ったので「ほな俺が昨日勝った銭から五円おまえに返すわ」と言うと毅然としてこれを受け取らない、それなら仕方ないと諦め、もっかいやろうでと寅三に言われまた始めるとまたまた二円勝ってしまい。それでも寅三は飄々乎としているから、俺はこいつなんか悪いことして銭もうけてんのとちゃうか、いったいなんぼほどの銭持っとんにゃ、と訝しい気持ちになったが、そういや昨日博奕に三円負けたときは悔しがっていた、あれおかしいなぁ、と思ってしかしこれ以上勝つのはもう嫌だと思った俺は「なんかちゃうことしょうや」と言い特に何も面白そうな遊びが思いつかなかったので、笊を土間から持ってくると「これで今から泥鰌でも掬いに行かへんけ」と真面目な顔で言ってみたらげらげらと寅三は笑ってくれたので、よかった、これで気持ちは入れ替わってもう、もっぺん花札しよう、とは言わないだろうと解放感が広がっていってたら「ほなこんだ賭将棋しょうや、ある?」と言ってきたので俺はほんまに笊を持って薄い夜の中を走って行こうかと思った。が、やめといて寅三と将棋に諍いまた俺にとって苦戦、二円勝ったところで、たまらず「やっぱわしごっつ泥鰌が掬いたいわ」と叫び笊を持って猿のような動きで戸の方へと走って行ったら弥五郎が「只今」と帰して俺は大いに「う喜々ィ」と心の中で鳴いたのであった。

日は明け、今日は伊勢へ参ります日、と起きたらば俺はまた「ウキキキィ」と変に上擦っている。可笑しいな俺、と思いながらも伊勢へ向かうために身拵えをすませ、俺と弥五郎と寅三の参人はあれ愉し足並み揃え伊勢国へと向かった。
そしてやっと来ました、やって参りました伊勢国、まず伊勢に来たらば伊勢神宮というのは頭になかった、俺は伊勢の海が見たいな、と思ったから寅三に伊勢の海が見たいわ、と言うとほな海に参りましょうやということになり最初にやってきたのは伊勢の海。広大無辺の海をまえにして俺は、うわぁ、こりゃええ海じゃ。と全身がまるで海に吸い寄せられるかのような感覚になった。伊勢の海は暗かった。空は曇っているというわけでもないのだが白雲が多くべちだんどんよりとしてもいないが然るに海の色はどんよりと暗いのだ。ですから、そこに立つ波が白く際立ってなんかいいのである、それに風が強いから波が高い、こりゃええど、ええわ、と心奪われていた。するとふいに万葉集の歌で伊勢の海が出てくるやつがふっと浮かんだ、それは伊勢の海の白波がもし白い花であったらばこれを包み、愛する妻への土産にしたいなあ、とかなんとかゆう歌やったな確か、うわぁ、波ほんま白いわ、しらなみやわ、詠んだのは誰か忘れたがその頃の天皇さんとかも同じ波を見たんやなぁ、しかしええ歌やなぁ、しらたきにしらなみでできたしらばなを土産にしたらしらたき喜ぶかなぁ、などと想像してはしあわせなき持ちになったりなんかしながら寅三と弥五郎の顔を交互に見てみると、二人も同じような思いにとらわれているのか「おお」とか「波きついなあ」などと嘆賞しているから、おまえらも同じ思いか、そうかそうか、と嬉しがっていると寅三が「腹減ったなあ」と言い弥五郎がそれに「ほんまや腹減てきたな」と応えがくっと来たがそう言って俺も腹の虫が喧しいわいと三人して飯、伊勢料理でも食いにいっこうっでえとなり伊勢名物を威勢良く食らいに三人は御同行してつかまつったのであった。
で鱈腹食いすぎて店を出るとよしゃ、ほた寅三君、伊勢神宮とやらへ出掛けましょうというと「熊くん、本気か、そらあかんわ」と言った。
「なにがあかんね」
「知らんのけ、それ禁忌やね」
「近畿とな、まあ近畿に住んでるけろ、あかんのか」
「あかんね、たぶん、満腹で神社行ったらあかんちゅうで」
「ほんまか、なんであかんにゃろ」
「それは、やぱ神さんが怒るんちゃうけ、おまえ何飯食うてんねんて」
「飯食うたらあかんのか」
「いや、わしに参る前に何飯ぎょうさん食うてんねんて怒りそうやろ、神さんて」
すると弥五が「神さんはもっと心が広いんとちゃうんか」と言った。
それに対して「そやな、伊勢はごっつぅ古い神さんやさかいな」と俺が言った。すると寅三は「いやいや、古い格式ある神さんのほうがずっとえらそうにする思うで、本来」と言うので俺は「そうかなぁ、そうかもなぁ」と言い終わらないうちに弥五郎が「そないいばっとお神さんの根性わいが叩き直したる」と息巻いた。
俺はそれを聞いて弥五郎らしいわと目を細めて「はははは」と笑っていると寅三も一緒になって寅三の笑いはどっちかというと一寸人を小馬鹿にしたような哂いに聞こえたのか弥五郎が俺に向かってぽつりと呟いた。
「兄貴、しばいてもええか」
「兄貴、しばかれてもええか」
「掛け合いです」
言いながら俺は、お、なんか仲がよろしくなってきてるじゃないですか、おほほ、ええじゃないですか、ええじゃないか、と思い、あっ、ええじゃないかの伊勢じゃないのよ、伊勢はええじゃないかじゃないかと思い、あっ、さっき二人の掛け合いの後に俺が「ええじゃないか」と言ったら総勢大々爆々笑だったか知らんのに、うわぁ、しもたあ、でもやっぱ全然おもんないか、と一人どうでもええことで懊悩しておると二人はもうその話はどうでもええという風にすたすたと土産物屋の前に歩いて行って物色していた。
何々?何見てんのん、と俺も土産物を物色した。見るとそこの土産屋は櫛、簪、巾着などの娘たちが喜ぶものばかりを並べてあった。てことは弥五郎も寅三も女に何か買うてってやろうと考えておるのか、ほんま、ちゃっ、兄ちゃん若いね、などと思いつつ俺も真剣な眼になってしらたきへの土産を探し出した。すると、はと目に留まった赤い漆塗りで小判のような形をした小さな花が描かれてある花櫛が、これええなと思ってこれにしょうかなと決めてそれを購った。いつかしらたきと一緒にいろんなええ所を渡り歩きたいものだ、そして同じものを見て笑ったり、感動したりしたい。そのことも伊勢の神さんに頼んでみよう、と思って俺はまだ物色している弥五郎と寅三を見て、まだか、と店の前を何遍も往復して早く腹が空いてくれなくてはと激しく歩いた。
そうして二晩伊勢の地に泊まり、三人はすっきりした趣で遊び疲れを経験して水分へと帰ってきた。最初のうちは寅三を好ましくないと思っていた弥五郎も旅を共にするに連れて何をするにも気さくでさっぱりとした寅三とだんだんと馬が合うようになっていき、これで気兼ねすることもなくなると心安であった。
水分へ帰ると弥五郎は「わいここでもうちょい山仕事して銭貯めるわ」と言うから「そうか、またいつでも会いにこいや」と言い俺は暴れまくるボオちゃんを無理やり籠の中に入れると寅三と一緒にしらたきのおる地へ戻ったのであった。
住処に帰った俺は、しらたきの誕生日が来るまでにしらたきに会いたいと思っていたのだが、十月も十一月も一目すら会えず季節は師走、極月、限月となってしまった。ごくげつ、かぎりのつきという名前の通りこの時期になると人はこの一年を振り返り今月でもう今年も終わるが俺はこの一年何をしてこれたかとまるで極限の地に立たされて極所に至って極大な問題を突きつけられ極地はほんまさぶいっすわと嘆きながらそれでも大晦日俺は一人なんだろうか、などと極微なことを悲しみ極浦に見えるあれは光というものぢやあありませんかなどと蒲団の中で眠れぬ夜囁いてみたり、酔いつぶれて極光が見たいっすわっと叫んでみたり感極まって松河方の庭に少し忍んでみたところを即それも松河源次郎に見つかってしまい子犬のように首根っこを掴まれものすごい極悪な顔で「この極道もんがっ」と言われ引き摺り出されたり、極楽落としに捕まった鼠を出してやろうとして金網を抉じ開けようとしたら勢いよく開きすぎて鼠が池の中心部まで飛んで行って結句殺してしまった夢を見ては何故あの鼠捕りのことを極楽落としとゆうのかと恐ろしい気持ちになって震えていたり、極楽願うより地獄作るなとゆうなんか泥酔したおっさんが突然喚いた説法ごときの極論のような諺にまた恐ろしくなって一人で戦慄いていたりと年極る時、人は人生の果たてを見るのである。それほど最後の月というものは考えさせられる、苦しい月である。から何かええ事でもするのか、というと何もせず、では悪いことをやらないのかというとまあ博奕、酒はやる、酒を飲み呑み博奕をやりながら勝ってうほほほほほほ、と笑いながら、俺は日々遣り過ごしてしまっていたのであったんだけどね。
わからんが、俺のおらんところで俺の知らん場所でしらたきがいろんなことを知って行ったりして成長して行く事がやりきれんてどうすればいいのか俺はわからんのだ。嗚、泥鰌が鳴いている。