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天の白滝 五十六

行くっつっても、恵方詣りをする神社は辰次郎がしらたきを連れて向かった神社と同じ神社ではないのか。だとするとまた顔を合わすかもしれない。辰次郎とまた顔を合わすのは甚だ心苦しいが、しらたきの姿はもう一度この目で見たい、そう思った俺は寅三に、辰次郎が向かった神社と同じ神社へ俺らは行こうとしているのかを聞いてみた。
「まあ、別の神社もあることにゃあんねけどね、あこの神社が一番本場ちゅうたら本場かな」
「よし、ほな寅ちゃん、われは兄さんに見つからんように俺の後ろ歩いとき」
「へい、兄貴」
「ほんで弥五ちゃん、われは俺のまァ前を歩いてや」
「しゃあけろ兄貴、さいぜんわいの顔見られたやんけ、わいが見つかればわいの後ろィは兄貴がおるとばれたも同じィなれへんけ」
「あ、ほんまやな、ほんまやわ、ほなどないしょ」俺は弥五郎に尤もなことを言われてあぐねっていると寅三が賢そうな顔で妙案を唱えた。
「ほなこないせえへん、わいらは表通りからは行かんで裏の山道を通ってくやんか、ほいで木の陰から辰次郎を探し当てたらええねん、ほしたら辰次郎から見つかる前にわいらは隠れたらええちゅう話しやん」
「ほんまや、それええわ、それで行こ、山道がええわ、山道に賛同や」
そう言って俺と弥五郎と寅三は暗い山道から回り道を経て、辰次郎の在処を突き止めるべく獣道を通って向かった。
獣道がなければおのずとから脇差を抜いて、しゃっ、しゃっ、と豪放磊落と草木を刈りながら進む。なんてなことはせず、酒の尾がまだ引いている男三人はへらへらと、いつつつっ、とか、おわっ、とか、なんやこれ、などと口々に発し、またはひゃっぷんしょいっ、などと豪快なくっしゃみをしながらがさがさごさごさと山道を進んでいった。
そして表通りから少しかみてとなっている山の斜面木の陰から下を窺ってみたら、そこそこの広さを持った道に人々がごった返しておった。人々は何を考えてこんな寒くて暗い夜の内から人の群聚の中に身をこごめながらも向かうのか、斯く斯くの事情に因り、各々の悲境を嘆いて深刻な思いで祈願しに行こうとしているのか、それとも徒、祭りのような感覚で楽しもうとして古来からまつわる行事に参集しているだけなのか、どちらにしろ哀れな光景である。祭りのように思うのならばもっと楽しそうにしたらいいものを、人々の顔は皆寒さに震え、またなかなか進んでくれないことに腹立ち紛れながら焦燥に充ちているのである。毎年のことなのだから、今年はそんな顔で並ぶのはやめようとは思わないのだろうか。しかしそんな民たちの疲労は俺は知ったこっちゃあない、俺が心配になったのは、こんな中に連れて行かれた人嫌いのしらたきのことを思うと、やりきれない。
俺たちは結構早歩きで歩いたし回り道ではあったが、この混雑の中もう辰次郎としらたきは参って帰ってしまったということはないだろうから、まだ参ってないか、参っていても帰りにまたここを通るときに一目しらたきの姿を目に留めることが出来うるはずである。俺は獲物を探し求める肉食獣のようになって毛が汚なくて黄ばんだような群羊の中から一匹だけ真っ白な羊であるしらたきを探した。
すると俺の右の木から首を伸ばしていた弥五郎が「めったくそやな、わいちょう小便してくるわ」と言って後ろの繁みに行こうとしかけたら寅三も「わいもいてこましたろうかな、熊やんはええか」と言ったので「おう行ってこい、俺はもうちびってもうたさかいええわ」と恥ずかしそうな顔をつくって応えると、寅三と弥五郎は笑いながら二人で小便をしに行った。実のところ俺も小便を我慢していたのだが、俺が用を足している間にもし、しらたきが一番見える場所まで来ていたらと思うと行くに行けず我慢を通すことを決めたのである。弥五郎と寅三に頼んで一人で行くことも出来るが、俺はしらたきの姿を見つけ出す自信が大いにあるのに比して弥五郎と寅三は見つけられないのではないかとうたぐれてしまって任せておけず己に頼るに如くはなしとなって俺は目を血走らせて探した。
すると、どうだろう、見よ!俺の目は真っ白き羊の姿を捉えたのである。すわ、しらたきや、と思った瞬間のことであった。俯いて歩いていたしらたきは顔を上げて俺の立っている地点を刹那、望んだのである。なんで俺がここに立っていることがわかったのだろうか、確かにしらたきの目は俺を一瞬見た。はずである。この幸先のような一事に俺の全身は何かが走りぬけた感覚になった。何か大きなものに走り抜けられたような後の幸運なる心地の中に突っ立っていると、しらたきが俺の見ている中に倒れこんですっと姿を消した。隣にいた辰次郎がしきりに「すえ」と名前を呼んでいる。俺は一目散に下へ斜面を滑りながら降りた。それでしらたきの倒れた場所へ行こうとするのだが人の群れに押されて思いのほか近づくことができない。最初のうちはすんまへん、すんまへん、と謝りながら人の間を無理やり入って行こうとしたが人々は誰一人と足を止めようとせず俺を押しやることしか考えない、俺はそっちがそう来るなら俺もこうすると「どきさらせ」と怒鳴り散らしながら無茶苦茶になって前に進んだ。そうしてなんとかやっとしらたきのところまで来れて俺は身動きがとれずにしらたきを庇うようにして座り込みながら閉口してしまっている辰次郎に向かって「大丈夫かっ」と叫んだ。俺は「城戸はん」と驚いている辰次郎の手から即座しらたきを抱きかかえて思った、どうにか道の端まで行って、そこから危険であるが致し方ない、斜面を上がって行くしかこの狂った猪のように猪突猛進してくる人波から避難することはできない。俺は自分の背中を後ろに向けてどかどかと押されながら端っこに行こうとした、その時である。ものすごい故意の力で責めてくるおっさんにどんとぶつかられて俺は人波も押し退けて打っ倒れた。幸い横倒しに打っ倒れたのでしらたきは無事であった。おかげで道の端まで一気に来られたが、俺はもしこれが横倒しに倒れずしらたきが飛んでって頭を石畳にぶつけるなどしてしらたきが大怪我を負っていたらと思うと、殺意に駆られた俺はしらたきを安全な土の斜面に寝かせ親父に向かって「われ、待たんかい」と怒鳴ってその親父を打ん殴ろうと親父の肩を思い切り掴んで振り向かせようとしたその時であった、辰次郎が物凄い手捷さで俺の腕をぐっと掴んでこれを止めさせた。そして静まった荘厳な顔つきで「城戸はん、暴力はあかん」と言った。しかし先に暴力を行ったのはこの親父であり、否、親父だけでない、ここにいる人間全員が暴力であり、もしこの場に俺がいなかったら一体どうなっていたのか、しらたきは人々の無愧なる暴力によって殺されていたのかも知れんのだ、おまえはしらたきが別に死んでも良いと思っているからそんなことが言えるのではないのか、そもそも人が嫌いなしらたきをこんな場所へ連れてきたのはおまえである、おまえがここへしらたきを連れてこなければこんな目にしらたきは合わずとも済んだのだ。俺は何の反省もなく立ち去ろうとする親父よりも目の前に立っている辰次郎のほうに憤恨が移って抑えきれなくなり辰次郎の頬をぶん殴った。しかし殴りつけるまでの瞬間この男はしらたきの命の恩人であることを思い出し、力は大分と緩んだ。それなのに辰次郎は少しく大袈裟ではないのかと思うほど飛んで行った。辰次郎の体が飛んできて将棋倒しのように幾人かが倒れ込んだ。俺は、やってしまった、という気持を抱えるも、しらたきのそばにおりながらしらたきを守れなかった辰次郎の弱さを憎み、俺は振り返って倒れたままのしらたきをおぶると斜面を上った。
しらたきが無事でよかった。しらたきが無事でよかった。しらたきが無事で、ほんまによかった。俺はそのことだけを考えるようにして、しらたきを連れて家に帰った。
家に帰って蒲団を敷いてそこにしらたきを寝かせると、しらたきは目を覚ました。
「気分わるないか」と聞くと「うん」と応え「なんでぼくここにおんのん」と言った。
「おまえ神社参る途中でぶったおれてもうたんや、ほんで俺がおぶって連れ帰ってきたんやで」
「ふーん」
「おまえ人が大嫌いやのにあない仰山おる中歩いて気ィ失ったんちゃうか」
「そうかしれん」
「もうあないな場所は行かんこっちゃで、行きたないてはっきしゆえばええんにゃ、わあたか」
「うん、けろ、行きたいてぼくがゆうたねん」
「ほんまか」
「うん」
「そうか、またなんで、まあええか、もうこりたやろう、もう行かんときや」
「うん」
しらたきは半分蒲団で顔を隠すようにしてそう言った。辰次郎から無理に恵方詣りへしらたきを誘った訳でなかったことを知り、苦々しい場所へ一瞬追いやられたが、それにつけてもこのひととき。幸せの森。そんな言葉がふと浮かんだ。俺はしらたきさえそばにおってくれたら本当に幸せでしかたないんや、なんであの頃はそれがわからんかったんやろう。しらたきを邪魔に思ったことなど一度とてないが、しらたきがいつもおることはもう決定付けられていると思い込んでいた為そのことを幸福とは思わなかったのだろうか。
あっ、と、そうや、この前にしらたきが言いかけてごっつう気になっていた続きの言葉、これ聞かな、と思い出した俺は前に夜道で別れる前にしらたきが言った「ぼくのじんせいないような」という言葉の続きをしらたきに聞いた。
「しらたき、おまえなんかこの前ゆいかけてたことあったやん、なんかぼくのじんせいがなんちゃらかんちゃらとか、あれ、なんてゆおうとしとったんにゃ」
「そんなんゆうたっけ、ぼく」
「おお、ゆうてたで、ちいちゃい声でな、最後に、覚えとらんのか」
「おもいだした、ぼくのじんせいないようなも」
するとその時戸が勢いよくガララッと開いて「おー兄貴ぃ、おおぅ、おおしらたきや、しらたきがおるぅ」と弥五郎がまずでっかい声でゆうて、それをさらに上回るでっかい声で寅三が「あらららららぁ、しらたきちゃん、ははは、ここにおったんですかい、熊やん、やられたね、やられたねぇ」などとふざけてやかましく騒ぐので、しらたきの言葉がまた聞こえなかった。もう、いや。と思ったけど、俺は苦笑しながら「やかましいの帰ってきてもた」としらたきに言うと、しらたきは蒲団の中に顔をひょこっと隠した。
「ちょうやっかましい、しらたきが寝とるさかい」と俺が言うと、二人は顔を見合して片手を顔の前に立てて御免の素振をしながらへこへことそおっと居間に上がってきた。
「また飲んで来たんか」と俺が二人に聞くと二人は、ッヘェ、そうっす、みたいな頭を掻いて恥ずかし乍らという仕草と顔をした。
「いや、しゃべったらあかんゆうてへんがな」と笑いながら俺が言うと寅三が声を出した。
「わいらもっぺん飲んでこよかいな、なあ弥五さん」と言うに弥五が「いや、もうわいはええわ、われ一人で飲んでこいや」と応えるといかにも寅三が、おっまえ、あほ、あっほやなおまえ、という顔で気ィ利かさんかいと顔で言っているのがわかり俺は「はは、だんないがな、もうちょいしたら、しらたき寅三ィ連れ帰てもらわんならんさかいな」と言った。
「熊やん、安心しぃ、わいが責任の限りを尽くしてしらたきちゃんを送ったるさけ、あ、ほな酒と宛て、酒と宛てを持てこよかいね」
「弥五郎、おまえも一緒ィ送ってってくれるけ」
「兄貴、任しとけ、こいつあてならんわ」
「兄貴、任しとき、こいつあてなるわ」
「また掛け合いか」
まあ年も同じとあって、二人は余程気が合うことだ。それで思い出したが、辰次郎は俺より若いと思っていたが俺と同年であるらしい。辰次郎が今どのような思いでいるのか、俺にはまったく推し量ることさえ出来ないのであった。辰次郎は多分俺と何一つ似通った部分が存在しない人間である。


天の白滝 五十五

そう思って寂しくもなるが、年が明けたからだろうか、寂しいだけで終わらることもない、今年は昨年と違いしらたきともっと会える機に恵まれるやもしれん、そしていつしかしらたきは俺のことを完全に思い出し、これまでのように共に暮らせる日が来るかもしれんし、と年明け早々小心でいてしまっては来るものも来なくなってしまうしと思って、そんなことを思いながら俺を慕い続けてくれる男弥五郎と酒を飲んでいると、寅三がやってきた。
戸を開けるなり寅三は「あけましたかな」と聞いたので、俺が「開いとるよ」と応えたら「あー、それはよかった、あいたィ開いたらば会いたいわぁって思っててんか、てああ、もうあいてたんか、ははは、年明いてたんやね、はは、ってあれ、弥五はんやな?なあんで弥五はんがここにおんね、ヤゴゆうたら田んぼにおったけどなぁ、あっれぇおっかしいなぁ」という寅三を見て「もう寅三はできあがっとるな」とぼそっと弥五郎は言って「ほな、あれか、寅はそこやね、どこや、虎はどこやね」と土間によらっと立っている寅三に向かい合って聞くとそれに寅三が応える。
「寅は印度にいんど」
「ほな印度にいんどれや、寅」
「嫌です、わたくしはここにいたいのです、そしてみなさんで酒を飲みたかったのです」
「おお、寅ちゃんも酒買うてきてくれたんけ、おきにおおきに、せやたらはよ上がってきて飲もぅや」
「うん、いまに上がってくるよ」
そう言うなり上がってきた寅三は一升瓶を床に置き「開けましてっと」と云いながら栓を抜いて俺と弥五郎と自分の湯呑に「おー」と言いつつ注ぐと「めでとうさん」と湯呑を三人で合わして飲んだ。寅三の酒も負けじと劣らず美味い。
湯呑一杯の酒を飲み干すと弥五が徐に「どないする、これから恵方詣りにでもいてこますけ」と聞いてきた。それに寅三が寝そべりながら、吸っていた煙管の雁首で煙草盆の縁をカンッと叩いて、煙管の吸い口を弥五郎に向けてうん、と肯き「ええね」と応えた。煙管を寅三から受け取って旨そうに呑むと弥五郎は「兄貴、どや」とまた聞いた。俺はそれに考え込む姿勢をとり「うーん、まあなぁ、俺実はな、ぶっちゃけてゆうてしもたほうがええな」と勿体をつけてから言った。
「俺はね、先ィ風呂へ参りたいなぁて思うねんね、垢が七分ほど積とるさかいな」「ほな、風呂ィ参ろう、でそのままの格好で恵方詣たらええんちゃう」と寅三が笑いながら言う。「素っ裸で神さんに詣るんか」
「いひゃひゃ、そう、熊やんだけな」
「ははは、兄貴それがええわ、まあ褌だけはしていきぃな」
「いやいや、さぶいやん、てそれ以外に問題が大事あるやん」
「ないない、熊やんにはないて、ひゃひゃひゃひゃ」と寅三がおちょくる。そうしてふざけながら三人でまずは風呂屋へと出向くと、風呂屋は空いていた。三人で入るには大分と狭いが、誰一人この寒さの中外で待ちたがらず、無理に三人で入りこました。温かい湯に浸かっていると心地が良いあまりに俺はしらたきのことばかり考えてしまうのだった。そんな中俺は変なことが気に掛かった。心がのぼせているため何一つ躊躇せず途端寅三に尋ねた。
「なあ寅ちゃん」
「うん?」と足の垢を熱心に擦りながら寅三は俺を見た。
「いやな、年が明けた瞬間、しらたきは一体誰の顔を最初に見たんかなあて思てね」
「きひひ、うーんそやなぁ、ちょう思い出すさかい待っててや」
俺は寅三の顔に目を凝らして返事を待った。
その時、弥五郎が「わいも入ってええか」と言い狭い湯船に入ってきた。「そんなご無体な」と言うに弥五郎は出て行ってくれないので俺は足だけを浸けて湯桁に腰を掛けた。寅三が急に声を上げた。
「あっ」
「なんや」と俺が聞くと寅三は半笑いで「あーそうそうそう、確かね、あっちの方角やろ、あーあーうん、間違いあらひん」
「なんが間違いあらひんね」
「熊やんの家の方角見とったわ、確か、しらたきちゃん」
「ほんま、ほんまに、ほんまか」と俺は声が弾むまえに幸福感で満たされて低い声で何度かそう確かめた。酷く曖昧模糊たる寅三の記憶に俺は満足してしまったのである。阿呆やん、阿呆やん、完璧て自分でも思ったが、それは俺の体の表面をなげえこと蔓延らせしめていた垢が散り散りとなって俺から飛び離れていきよった、ことで俺を同時にせしめていた虚勢なるものも程なくしてチリヂリ、と啼いて湯に溶けていったのだろうか。知らんけれども。
身を清め終わると三人は風呂屋を出た。出た時の体に当たる寒風の寒いの寒くないの、って寒かったから、ああこれは湯冷めをするなと思って湯冷め三昧で恵方詣りとなる。まあ正月のっけから風邪でぶっ倒れてしまうのも面白いのかもしれない、弥五と寅三は気にしない風だから俺も気にせず向かうが、俺は歩きながら風呂から上がったときによく、ゆじゃめ、ゆじゃめとしらたきと走りまわしながら言っていたことを思い出して懐かしくなる。
それはそうと風呂屋から出たら寅三が手拭を鼻の下で結んだ盗人被りをして歩いているから「それはいったいなんの真似やね」と聞いたら「ふふん、わいは今から義賊になんねんてゆうのんは嘘やでん」と言うから「やねん、とやでが一緒なったあるね」と云うと「そう、一緒んなたさかいわいはもうこうする」と言いこんだは鼻から下を全部覆った鉄火被りをした。弥五がそれに「もうそうなったらこれをこうしたらええんちゃうけ」と手拭を寅三の目の部分に巻いて後ろで結んだ。
「あれ、暗いなあ、おかしいなあ」と言いながらふらふらして歩いているのを後ろから見て俺と弥五郎はかははと笑っていたら、後ろのほうから突然「城戸はんやないですか」と声を掛けられて、俺はびっくうっとした。あ、この声はまさか、と思ってたじろぎながら振り返ってみれば、そこにはなんとも華やかな晴着を着せてもらってきょとんとした顔のしらたきがおった、とその隣には壮健に恭しくも泬寥ほとばしったというようなあの辰次郎が立っていたので俺は驚いた。そしてその周りにも誰か松河の者がおるかと見渡したが、誰もいてなかったことに俺の少しく上がって来ようとしていた内海域が一瞬にして退潮みたいな感じになった。て、ことは、この二人は、二人で恵方詣りに向かおうとしているのか、もう既に参った帰りなのか、二人で、何で二人で、また、と俺は情けないほどに銷魂して、辰次郎の存在に圧せられて倒れ臥す心境になった。
「ああ、やっぱり城戸はんでひたか、いやぁ、お久しゅうございました、お元気でいはられましたか」と気取りなく声を掛けてくる辰次郎に俺は息を詰まらせるようにして応えた。
「やあや、ああこれはこれは、辰次郎はんやおまへんか、久しいもんでんな、いやあ、わいは元気でおりまんなあ、ははは」
「そりゃあよろしいことです、あ、もしかして城戸はんもこれから恵方詣りへ行きなさるか」
「あ、ぅいやぁ、そうでもないでんねん、まあ新年の中をぶらぶらとしておったんでふわ」
「左様でしたか、ほなお邪魔となってはいけませんね、うちらはこれから詣りに行くところなんです、ではまたお会いしましょう」
「へえ、さいでんな、ほなまた」と俺が返すと辰次郎は俺と弥五郎、後ろのほうにいる誰なのか分からない変な男に向かって会釈するとしらたきの手を優しく引いて通り過ぎて行った。しらたきはどうしてかずっと俯いていたので、目を合わす閑もなかった。突如投げられた投網に捕まって惘然となっている魚のようになった俺に海にいる仲間が呼びかけた。
「兄貴、誰やねんあの男、しらたきの手ェ握っとったど」しらたきの手を握っとったど、しらたきの、手を握っていた、握っていた、俺のしらたきの手を、と頭で復誦しているとやがて漁師の手が俺の体を握って捌くかとするから、俺は弥五郎と言う弟魚に応える。
「うん、あの人はな、寅三の兄でな、辰次郎っちゅう人やで」俺は必死に頭の中で身悶えた。捌かれたくない、何故なら捌く漁師の顔が辰次郎に思えてしまうからで、俺は海へ戻りたい、帰りたい、しかし待てよ、しらたきがいるのはどこや、海か、それとも、この漁師の家か、漁師の別の網の中だったらばどないする、俺は助けに行かんければならん!と俺は俎板の上の鯉から化して、なにになるのがええのかと思った俺は何故か俎板に乗った鰤が浮かんだ、ただ少し大きくなったというだけで、これでは捌かれるに違いない。
「ほおー、寅三の兄貴か、寅三も兄貴分おったんやな」という弟魚にずっと後ろを向いておった寅三という魚が来て「ちゃうがな、わいのほんまの兄貴やちゅうねん」「なんや、そうなんけ」と興味ないような弥五魚。やごうお。
「ああー、ばれんでよかたわ、ばれたらええことないさかいの」
「なんでばれたらええことないねん」
「いやあ、なんでてわいと熊やんが連んでんのんうちのもんィ見つかたら親が口喧しいなるんわあってるんや」
「しゃあから手拭かぶて顔隠しとったんけ」
「そうでんがな、弥五ちゃんさすが話しわかる男や」
「まあなんでもええけろも、兄貴がさきからちょうおかしないけ、なんやぶつぶつゆうとる」
「うん、熊やんおかしなったな」
弥五郎と寅三が話している間に俺はいくら考えてもええ魚になれんかった。俎板にのった太刀魚、俎板にのった笠子、俎板にのった昆布、若芽、俎板にのった鉄鎚、俎板にのった黒豆、俎板にのった元徳、後醍醐天皇、俎板にのった活力、俎板にのったらてんてこ舞い、俎板に乗った普遍。だんだんと変なものが俎板の上にのるので、もう俺は疲れ切ってしまった。俺は漁師が他の僚船に呼ばれて顔を上げるを見計らってぺちぃっと飛んでちゃつぽんと海へなんとか掻い潜ること成功。仲間のいる海へ戻ってこれた、夜の海、暗くさぶいのだけれども。
「さっ、ほな行きまひょか」となんでもない振りをして、道を進んだ。「おうっ」と寅三と弥五郎が地面を蹴る音はまるで韻を踏むように響く。
おれのぢごくに、冬篭り、という言葉が何故か浮かんだ。まったく韻を踏んでいない。
天体の出没を、地獄にて待つ。というのも踏まない。待ちて。金の松が殪れる方角を踏んではならぬ。踏んで待つ。待つ河。俺は踏んでいる方角を危ぶんだ。


天の白滝 五十四

自失したようになって日を過ごしてゆき、気づけば、もう一年の最後の日、大晦日となっていて、一年が経つのは早いなあ、とか、一年あっちゅうまやね、とか人々はよく言うけれども、俺はこの一年というものを振り返ってみると、一年前、というのがものすごい昔のことのように思える。この一年確かにいろいろあった。いろいろあったので長く感じるのか、というとそうでもないと思う。のは何故か。それは俺は時間というものがよくわからなくなってしまっているからである。時間を感じることが難しくなっている、のはいつからかというと家族をこの手で殺めた日からで、ずっとそんな感覚で生きてきたが、それもしらたきを拾ってからは何か違う感覚へと変わってきたように思える。若干、時間が過ぎていくこと、季節が代わる代わる訪れることを少しは身近に感ぜられて来たようだ。しかしそれでも完全には戻ってきていない。そんなだから一年が過ぎたなあ、となってもそれは俺以外の場所で起こっているように思えて、俺の中ではあの日から時間が同じところに存在していて、その止まった時間の俺の世界にしらたきはばまりこんで来てくれたような気がするのである。決して、俺からしらたきのいる正常な時間の中に、入り込めた訳ではない。しらたきからきっとやってきてくれた、俺のところに、俺はそう思っているのだが。しらたきは、そんな世界はやっぱり嫌だから俺の世界を離れていってしまったのかもしれない。時間が正常に流れてくれないことは人間にとって苦しいことだからだ。その苦しみをしらたきは感ずる日々を俺の傍らで過ごしていたのかと思うと、可哀想でならない。これでよかったのではないか、しらたきは俺の側を離れることができてよかったのではないだろうか。俺と過ごすだけの世界よりも、俺なんかのことを忘れてしまった今の世界のほうがずっとしらたきにとって幸せじゃないのか。もし、俺が親なら、しらたきの親なら、しらたきと二人で暮らせることばかり願うのはおかしい、子はいずれと親のそばを離れ巣立って行くのが至当であって、子がいつまで経てども親の元を離れないと親は子の生い先が心配で心配で俺が死んだ後、こいつはどうなってしまうのかと夜も眠れないてなことになるのが至極当然だが、俺はそうゆう親としての気持も勿論ある。俺が死んだ後にしらたきが変な奴にそそなかされたりしてみいな、俺は彼の世からでもそいつをぶん殴りに行きたい想いである。しらたきと離れることが考えられん、今現に離れている。
そんなことを考えながらも漠然となって、腹が減りすぎてぐぎゅうと締め付けられる。もう後数時間で年が明ける。俺は何をすればいいのかと思ったが、そう言えば長らく風呂屋に行っていない気がしたので、そうだ風呂屋にでもいてこませばええのかと思い、のそのそと動き出して外へ出た。
除夕に何をすればええのかわからないというのは悲しいことだなぁと思うが、そんなものはどうでもええ悲しみであって、それどころやないんや俺は、と思いながらもやはり風呂に入って身を清めて年を越したいと思っている俺は小さいと思われそうだが、それは違う、俺は何をすればええのかわからなかったから風呂屋に行こうと思っただけであって平俗の慣わしと一緒にせんでくれ、そう思った俺が風呂屋へ着いて、さぶいからはようあったまりたいなぁって風呂屋を見るともんのぎょうさん人々が前に列伍しておった。くわあ、ごっついことならんどるわ、みんな考えることはおんなしやな、身を清めたら一年の厄は落とされると本当に思っておるのか、落としたところですぐつくがな、阿呆やな、ははは、と心で笑ったが風呂屋にすぐに入れないことはものすごい残念になった俺は、並ぶのは嫌なので、どないしょうと思って、蕎麦でも作るか、それとも食いに行くかと悩んだ。ああ、俺は小さい人間やなぁ、蕎麦を食ったところでしゃあないのんに、でもさぶすぎるから体をあっためたいと思いふらふらと蕎麦を探して歩いた。しかしやっと見つけた蕎麦を食わしてもらえそうな店を覗いても大入り満員と、またここでも待たなくてはならんのかと思い、待つのは俺は嫌だからと、結句もう蕎麦なんか食わんでええわ、酒がありゃあわしはええんじゃ、阿呆ン鱈と投槍になり暗くて寒い住家へ戻ろうとした。が、俺は引き返して今し方通り過ぎた神社に二年参りをしようと突として考えが変転し神社へ行った。まだ時間が少し早いからか人は誰もいてなかった。
厳粛成る神域に入り神殿の前で俺は手を合わせて目を瞑った。目を瞑って手を合わせるだけで終えた。
何かが次々と奪われてゆくような気がした。何故神社へ来てそんな思いにとらわれるのかわからない。悲しいことであったが俺は自分の足というものを持たんければならん、どうゆうことか。しらたきを諦めろと神は言っているのか。俺は神殿の暗闇の奥を凝視すると「諦めません」と声に出してはっきりと誓った。
今夜も酒飲んだ暮れて寝よう、とそう決めて住家に着いて戸を開けたら、土間で竈の前を行ったり来たりしている弥五郎がおった。
俺の顔を見るなり「おおー兄貴ぃ、おかえりぃ」と嬉しそうな顔を向ける弥五に近づいて「弥五おまえ来とったんかいな」と返し、それならもっとはよ帰ってきたのにと俺は弥五と顔を合わし、でも嬉しいなという気持が込み上げてきて「弥五、おまえなんしてんや」と聞いた。
「決まっとるやん、蕎麦作てんがな」
「おお、蕎麦か、ほなわしも手伝うわ」とゆうて袂をまくり上げて弥五が買ってきたものを見ると芝海老が入ってあった「お、芝海老やん、海老天蕎麦やね」と言って海老の下拵えにかかった。
海老の殻を剥きながら俺は楽しい気分になってきて思ったことが全部口からこぼれていった。
「しかし来てくれておおきにな、蕎麦食いに行こかおもたんやけろもどこも一杯でな、もう酒飲んで寝たろかおもてたんにゃ、あ、しゃあけろわれこんな日はあれちゃうん、照と一緒におったほうがええんちゃうんか」そう言って蕎麦を湯掻いている弥五郎の顔を見ると一瞬寂しげな表情になって「ああ、照は今日は馴染客の相手するんやて、わいずっと前から約しとってんけろな、ってそんな話はもうええねん、はは、それより来てよかたで、兄貴ひとりィさすほうがわい嫌やさかい」と明るく言うので「そうか、俺はひとりでも屁の河童やゆうたら、まあ嘘や思う?」となんでか弥五郎に問うてしまった。
「はは、嘘やな」
そう言われて俺はほーっうという顔をして「おほほん」と笑って海老に衣をつけた。
そうやって二人して年越蕎麦を作っていると出来上がる前に除夜の鐘が鳴り響いた。
ぼおーん、ぼおーん、ぼおーんと鳴る鐘の音を聞いて「ほほ、間に合わんかたな、まあええか」と弥五郎がいうに応える。
「はは、年明けたな、あけまっておめっとさん」
「兄貴あけまっておめっとおさん」
そうして出来上がった年越蕎麦を二人で食らった。
弥五郎は「ええ酒買うてきたで」と買ってきたという酒を持ってきて俺の湯呑に注いだ。
俺も弥五郎の湯呑に注いで湯呑をあわし新年になった夜が深まる中に二人で飲んだ。
美味かった。一人で飲んだ酒とは比べ物にならんくらいに美味い酒であった。俺はまだしらたきと一緒に酒を飲んだことがない。あ、あったわ、そういえば、いつの正月やったかな、しらたきが俺が酒をあまりに美味そうに飲んでいるので「ぼくもそれ飲んでみたい」ゆうからちょびっとだけ飲ましてやったらば、しらたきはあいつはどこかおかしいのだろうか、飲んだ瞬間に確か、茶碗は引っ繰り返すわ、漬物を壁に投げつけるわ、俺の頬を痛いとゆうてるのにびいーって何度も引張ったりして変になってしまったからもうそれからは飲まさないようにしていたのである。小さい童子に酒を飲ますとあんなことになるのだろうか。しかししらたきはどういう訳か成年となった。しらたきどないしてるかなぁ。初めて別々に離れて違う場所で年を越した。