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天の白滝 五十九

ほんまやったら、俺は処刑されていた。少年の身であろうと犯した罪は大罪であって家族三人を殺した俺はほんまやったら死刑で恐ろしい刑に処されて死ぬべき人間であった。
しかし罰を免れた俺はこうやってのうのうと生きている。飯を食って酒を飲んで博奕をしては屁をこいたり糞をしたり、時に仲間らと笑ってはしょうむない話をしたりして生というものを受け、存在している。
死ぬべき、と国が決めた罪人がその国の中で生きているということは、国から滅ぼされるべき身であるとされている人間がのさばっているというのは、この国の汚辱であるのだろうか。日本中の人間が俺のことを汚泥であると感じているのだろうか。
ずっとそんなことを思って俺は生きてきた。だから人の目を見ることが未だに怖くて苦手であり、できる限り人と目を合わすことを避けてきた。
例え、辰次郎のような生き菩薩のような人間に、あなたの罪は許されました。と言われたとしても、俺はこのこわばり果てて己の世界を世に映してでしか世を見ることができなくなってしまった俺の鋼鉄のような信条を洗い落とすことはできないと思っている。
警察に追われて追いつかれたら捕まって殺されるから、必死になって逃げている、という夢をよく見る。俺は今でも家族殺しの罪が露見して、警察にしょっぴかれるのではないかという恐れに震えながら生きている。時効というものがあるようだが、いったい今の日本の制度はどうなっているのか俺はよく知らない。知ろうとも思わない。知って、ああ、よかった、もう時効過ぎてるから俺捕まえられへんですむ、うっわあ、最高や、ぃやっほぅ、と歓喜の叫びを上げる俺はどこにもいないからである。
俺はこの罪を手放すとき、俺の本当の死がやってくるときだと信じている。
俺はこの罪と共に死ぬ、それは誰が決めたことでもない、己で決めたことである。しかしそうは思っていても国家に殺されるのはどうしても嫌で、なんで嫌かと言えば俺は国家を愛していないからである。右翼青年のように俺は国を愛している、だから俺は国に殺されても構わない、むしろ本望だ、そんな気持があるなら喜んで刑に処せられるのか、というとそうでもないのは、国の憲法と天皇とは繋がっているようで繋がっていないからであるが、つまり人間というものは愛していないものに殺されるのは嫌なのである。愛されないものに殺されるくらいなら自分で死のうと思って刑が決まっているのにその前に自死を遂げる者がいるのはそのためではないかと俺は思っている。俺も国などに殺されるくらいなら自分で腹を刺して死んだほうがどんなに良いだろうかと思うからである。
俺が今も生きている、ということは俺の中で間違っていることではないのだが、俺以外の多くの人間の中では間違っているとされている。多くの人間の法によって殺されることが正当であるとされている俺の命はいったい誰のものなのだろうか。自分の命というものはいったい誰様のものなのであろうか。神のものか、己のものか、己が愛する者のものか、己以外の知らない人間のものか、辰次郎のようなまっとうに生きる者のものか。
俺の罪とは、いったい誰の手によって贖わされるべきであるというのか。俺は間違った者の手によって贖わされたくはない。もし、間違った者の手によって贖わされた時、贖わした者は過ちを犯したことになる、これは重大なことではないか。人の罪は誰でもいいから罰を与えればそれで良いのだ、これではあまりに暗愚で粗雑な考えだと言える。俺は別に自分の罪を国に罰されたくないからこんなことを言っているのではない。なにかとんでもない重大な間違いを犯しているような気がしてならないのである。
そんなことを考えながら博奕場に着いたのだが、戸の前に突っ立って冷たい風に巻かれていると、俺はなんでか急に気持が入れ替わり、今日辰次郎に謝ることができなければいったいいつ謝ることができるというのかと思い、一刻も早くに辰次郎にこの前のことを謝りたいと気も漫ろとなって俺は来た道を走って引き返した。
先刻に辰次郎が道で坊主を助けた場所に辰次郎はいてなかった。まだ同じ場所で辰次郎が子供を抱いてあやしていたらそれはそれで吃驚するが、いてなかったことに悄然となり呆けたように立ち尽くし、ほどなく、あ、家に戻ったんかもしれん、と思い俺は松河家に向かってまた駆け足で走って辰次郎を探した。
往来を抜けると、枯れたような色の草や木が好き放題に伸びて雑多な景色に入り、そこを小川がちょろちょろと流れている。その向こうに生えた大きな松の木に背を凭せ何かを木筆で帖面に書き記している世に静穏な面差しの辰次郎がそこに立っていたのを俺は見咎めた。
うわっ、辰次郎がおったわ、どないしょ、俺は念願の辰次郎を見つけたものの、自分から声をかける勇気がちっとも出てこず逡巡して、辰次郎から気付いてくれへんやろかと思い、偶然ここを通りかかった熊太郎を演じようと、怪しまれぬようにさりげなく小川を挟んだ向こう側にいる辰次郎の前を行きつ戻りつしたり、後ろに生えた木の表面に手を当てて腕立てみたいな動作をしたり木に額をつけて瞑想を行っている俺という風に見せたり、枯葉を拾っては川に流し、それがどこまで流れてゆくのかを静かに見届けている俺、土に穴を掘り、何か研究対象にしている虫を真剣に探している俺、急に腹に激痛を覚え、道に蹲って艱難辛苦している俺、少しでも体を動かした場合、体内にあるものが下から出てしまうのではないかと静かな面持ちながらも心中では周章狼狽している俺、周章狼狽しながらも瞑想をしてなんとかこの深刻な事態を切り抜けようと目をつぶって心を研ぎ澄まそうと敢闘している俺、敢闘はしてみたが、実際すこしのものが外に出てしまったような気がして空を見上げて絶望している俺、しかし絶望して気を抜いているとすべてのものが安心したように外に出て行こうとするのではないかと慌ててまた瞑想に奮闘している俺、などあらゆることをしながらも自然とこの場所にいる、近くに辰次郎がいるなどとは夢にも思っていない、というような熊太郎という俺を演じてはみたのだが、辰次郎は熱心に何を書いているのか手帖にずっと筆を動かし、まったく俺に気付かなかった。
草臥れ儲けとなって、俺はぽかんと口を半ば開けて放心したように辰次郎を見てしまった。
すると間ンの悪い、俺が見ているときに限って辰次郎は俺に気付いてしまったのである。
はっ、という顔で俺に気付いた辰次郎に俺もはっという顔になって、それでも自分から声を掛けるのがどうにもやりづらいと思い、俺は咄嗟にまたどこかの内臓に激痛を覚えしゃがみ込み呻吟している俺を演じてしまった、すると辰次郎は「城戸はん、どないしはりまった」と心から心配そうな顔をして小川をひょいと飛び越えて渡り俺の元に駆け寄ってきた。
俺はもうこうなったら演技を最後まで通すしかないと思い、うーん、と唸り「あっ、辰次郎はん、いやね、なんやしらんが急ィ内臓の奥んとこらへんが痛んでね、しゃあけろ大事無いでふわ、すぐィ止む痛みやさかい、はは」と嘘をつく痛みに耐えながら腹の痛みに耐えているが大事はないという見てくれそう見えるようにして辰次郎に言った。
辰次郎は真摯にそれを受け止め、「そらあきまへん、城戸はん、わたしの背にはよおぶさってください」と言うのに俺は「いややややややや、ほっんま大丈夫やさかい、ほっといたらもう、すぐィれも立って走て飯喰うたりとかできまっさかい、いつものことなんだすわ」と慌てて応えた。
「ほんまだっか、どこかお悪いなら早う医者に診てもらわんとあきまへんがな、今から一緒に先生んとこ行きましょう」
「いやややや、これはほんっまなんでもない痛みなんふわ、体が悪いっちゅうよりかは多分精神かどっかから来とるもんなんすわ、われの体やさかいわれが一番ようわかるもんだっさかい心配はありまへん、おおきに辰次郎はん」
「そうですか?そうならわたしも安心ですが、しかしここにずっとおっては体が冷えて悪化するとよろしない、どっか休めるとこに行きましょう、さ、わたしの肩につかまってください」
そう言われて俺は困り果て不自然だが、もう治りました、ほらもうこんなに元気と言いながら猿のように木に登ってまた降りてこようかと思ったが、しかし待てよ、辰次郎に謝るのにこの場所で謝るより俺の家で謝ったほうがええんちゃうか、誰に見られるかわからない場所で謝るのは気が引けてしまう、もしそんなところをしらたきに見られてしまったら俺は情けなくて死にたくなってしまうだろう、だからこのまま痛い振りを演じ辰次郎を俺の住み家までおびき寄せよう、と思いなんかおびき寄せるってごっつい嫌な言い方やなぁ、虫かなんかをおびき寄せて殺す、みたいな言い方だなぁと思い辰次郎に申し訳がないという気持ちになったがそれも全部含めた謝意をあとで示さねばならないと思った俺は辰次郎をおびき寄せる為騙すぺてん師のような気分で辰次郎に向って言った。
「ほしたら、辰次郎はん、この道をもうちょい行て右行て左曲がたらわいの住んどる宿があるんだすわ、そこまでちょうすんまへんけろ肩貸いてもらえまっかいね」
「もちろんです城戸はん、ほなそこまでがんばって行きましょう」
そう深切にゆうてくれる辰次郎の肩に凭れ、気まずくまた面映いながらも家へ向った。
俺の住処が辰次郎にばれてしまうのは避けたいことであるのを重々承知していたが、こういう成り行きとなってしまっては致し方ない、そう己に言い聞かせ辰次郎に凭れ掛って歩を進めた。
辰次郎の顔をよく見ることも出来なかったが、先程ちらと見た辰次郎の左の頬にうっすらと傷のようなものがあり、まだ俺の撲ったあとが残っているように見えた。しらたきほどではないのだが、辰次郎も色白の肌を持っており、日によってか、光の加減によってか、青白く見えることもあった。俺がぶん殴ったとき、思いもよらず遠くまで飛んでいったのは辰次郎の力が弱かったからかと思うこともあったが、こうして掴まって歩いていると、思うよりしっかりとした体つきであり身は華奢であったが、骨は太そうだなあと意外であった。おそらく、まさか俺に殴られるとは全く意想外であったため力を抜いて安心しきっていてあんなに吹っ飛んで行ってしまったのかもしれない。
なんて謝ればええんにゃ、とそういや俺は謝る文句を好い加減にしか考えていなかったことに難渋して、本当に胃の部分が痛くなってきた。
男が同年の知り合いの男に向って平謝りに謝る。これはとんでもなくみっともないことであって、どんな理由がそこにあろうと厳烈な苦汁なくしては行えない。
まだ辰次郎が年下であってくれたほうが良かったと俺は思った、同年というのはなんでかわからなんだが、同等、同格であると思うため、そこで対等とならないどちらかが優る、劣る、となった時、劣ってしまったほうはものすごい悔しさに打ちのめされるのである。
しかも今の俺と辰次郎とは目に見えて俺の完敗、惨敗であって、それを更に俺はこれから負けの戦に出ようとしているわけであるが、これを普通にやってしまうとただの醜状をさらすだけに終わるが、俺はそれを少しでも払拭したいが為に、態と自ずから醜態を曝けて辰次郎が俺に本当は謝って欲しいなと思っている隙を感ずる前に、もう前以て先に謝ってしまうという先手を打つ行為であって、そんなことを考えている俺はほんま情けない無様な男であるなあと思って、そう思って俺の心は黙り込んだ。
ちょっとだけ、無になりたい。とそう思った。心を無にすることができなければ、その間だけ俺はこのわびしさの頂上みたいな内的世界から逃れず、あまりの己のわびしさに意識を失うかも知れず、そうなってしまってはせっかくのこれまでの好機を無駄にしてしまう。まあそんなことゆうて意識失うなんてことあらへんねんけどね。兎角、早く謝ってしまいたいと思った俺は、またわびしさの増す、謝れば済む、謝るのは辰次郎のためではなく、己が早くそのことについてすっきりさせたいからである、それはわかっていたよ、わかっているよ、わかっていて、もうどないせえっちゅねん、わかっていてもいなくてもやることはおんなじやんけ、違うのはその心の内にあるもんで、上ッ側でなんぼ謝っても内ッ側で、はっ、辰次郎これでおまえに借りは返したで、もうこれで俺は気が楽や、ありがとう、ではさようなら。ちゅうてても、意味あらひん、俺は決してそんな気持で最初から謝ろうなどとは思っていなかったのだが、なんでこんなことになってしまうのか、わからない。何も考えたくなかった。何も考えずに謝れたらどんなに楽だったことでしょう、ってそう考えるってことは俺は楽をしたいってもう思ってるってことが決定されてしまうというのか、誰に?俺か、俺は決定せざるをえない立場に今、立っているのだろうか。では、決定しよう、俺は、辰次郎が神以て憎い、そしてものすごいことやっかんでいる、しかし俺は謝らんければならん、それは何故かと言えば、しらたきがこれからも辰次郎の側におるからである。俺ではなく、この辰次郎が。
夕闇の降りてこようとする中、俺は辰次郎に寄り掛かって淡く焼けた雲のまだらと同じ色を映した辰次郎の顔の反面を見た。しかしそれは何故か太陽や月を見るのと同じような思いで俺は見ていた。


天の白滝 五十八

明治二十四年如月のこの日俺は相変わらず何もしないで午過ぎから山羊の親ッさん方で酒を飲んでいた。
一月前、辰次郎に謝ろう、そう思った俺は一度松河家へ訪ねた。するといつもの下人が出てきて、俺が辰次郎にちょっと話があるので呼んでもらいたいと丁寧に頼むと「あにぼんはんは今いはりまへんさかいどうぞお引取りください」と冷たくあしらわれ、ほないつやったらいてるのかと聞いたら「だいたい家にはあまりいはりまへん」とこない返され、けったくそ悪い気持でしょんぼりしてそれきり諦めてしまったのだった。
寅三に頼むという手立てもあるにはあるが、あまり寅三と俺が密接していると疑われそうになることは出来れば避けたほうが良い、寅三に迷惑がかかってしまうし、またそれでしらたきが外に出られなくなることも考えられる。
それにしても、しらたきとたった一月会わないというだけで心が散らし鮨のように散ってしまう。今までなら生きていくために俺は博奕をがんばっていたと言える。それはしらたきがいたから、しらたきを食わしていかなくてはならないという思いでまるで仕事をしに行くように博奕をしに行ったものだ。そして博奕は楽しかった。しかし、しらたきが俺から離れて行ってからというもの博奕をしている最中にも溜息がこぼれたり、家帰ってもしらたきおらんねや、さびしいなあ、などと嘆きながらやっていたりするからちっとも楽しくない。
だから俺は今日もこんな時間から酒を飲んでいた。往来を忙しそうに行き交う人々らを眺めつつ飲んでいた。羨ましいな、という思いで最初は眺めていたのが酒が回ってくると、ご苦労様ですな、という気持に変わって行き、そしてもっと酒が回ってくると、われの仕事はそれなんか知らんけろもね、俺の仕事はこれ、これなんにゃわ、わかりますか、わかりますか、その意味をわかりますか、という完全な酔漢の空しきあらがいとなったもので思考を埋め尽くしていく、悲しきかな。
今日は節分だからといって大豆や鰯や恵方巻を売り子がさばいている。
「かっ、何が節分、何が鬼は外福は内じゃ、あのなあ、鬼は己の外ィ出るかあ、あんだら、鬼は己の中ィしかおらんわちゅうねん、鬼はまさに己を喰わんかとしてやね己に向けて牙を剥き続けとるもんでやなあ、それィ気付くもんが福を授かることができるっちゅう話や、ほんま、豆撒いて何叫んどってもええことあるかあ、あかんあかん、そんなことばあっかしゆうとったら出直し食らうっちゅう話やでほんま、だいたい柊に鰯の頭刺して戸口ィ立てたり、でっかい巻鮨を恵方向いて阿呆みたいな顔してかぶりついたり、豆を大声で怒鳴り散らしながら撒き散らしてあとで無言でもくもく、あーめんどくさいなあ、とか思いながら片付けたりやな一体人間は何がしたいんにゃ、狂っているとしか思えまへんでっせ、みんながやっているから自分もする?それではあまりィそれはうといちゅうもんにゃ、情けないでほんま、俺もね昨年はしらたきと一緒ィ豆巻いて楽しかったなあ、しゃあけろ今年はできひんがな、毎年毎年人々がみんな節分できると思うなあ、俺の前で豆売りさばくなあ、あほんだら、あ、ちょう酒持てきてくれる?酒、さ、け、うん燗でね」
俺はそう独り言をぼやいて残りの酒を一気に呷った。
ごろんと横になって肘を着き、雪見障子の四角く切り取られた形の空を見上げた。
晴れ渡ってはいるが霞がかったような寒そうな冬空であった。
弥五郎はまたすぐ村に帰ってしまったし、寅三とも行き違いになっているのか元日から会っていない、さびしいなあと思ってまた通りを眺めた。
通りを行ったり来たりする人の顔を見てみてもやることもなくてさびしいなあと思いながら歩いているような人は一人もいない。いったい何を考えて生きているのだろう。こうやって眺めていると大方の人間は同じようなことを考えて生きているようにも見えるが、実際そうではないのだろう一人一人がぜんぜん違うことを考えて生きているかもしれない、しかしそのことに気付いて生きている人間と気付いて生きていない人間とではその差が歴然としていて、そこで分け隔てられてしまいそうな気がする。俺はそう思って、では俺はどっちにいるのかと考えてみたが、それがよくわからなかった。自分で考えていることが自分にとって難しすぎてよくわからなくなってしまったのである。しかし大事なことである、それだけはわかったのだった。
また持ってきてもらった酒を飲んでは外を眺め眺めしていると鬼の面を被ったちっこい餓鬼んちょが騒ぎながら走ってきて思い切り道にけ躓き、ずっでーんと派手にこけた。鬼の面もふっ飛んでいき真っ赤な顔になって大声でわあわあ泣き出した。ちょうどなんでか近くには誰もいてない一人で小児は泣いていた。少し哀れに思ったが、子供は気が移り変わるのがとても早い、直になんでもなかったかのように立ち上がるだろうと俺は見守っていた。しかし坊主は一向に起き上がろうとしない、うつ伏せになったまま涙と洟を飛び散らせながらわんわんと泣きじゃくっている。俺はもしかして打ち所が悪く大怪我を負ってしまったのではないかと心配になった。俺は助けに行ってやろうかと思い障子を開けたがすぐ下に低い垣根があり、それの向こうが急に落ち込んだ溝となっていて出るに出られない、戸口から出ると反対側なので大分回って行かなければならない、どうしようとぐずぐずしていると、その時、小僧の前にすっと自然に走り寄り現れた男が坊主を軽く抱き上げた。俺は驚いた。その男は辰次郎だったからである。
辰次郎は坊主をあやしているのか、何かを優しく話しかけながらまるで父親が子をいつくしむような慈愛の顔で坊主を見ていた。
俺はそれを見ながら複雑な思いにとらわれた。きっとしらたきを助けたときも同じような顔をしていたのだろう。俺が助けることの叶わなかったしらたきを辰次郎はあんな顔で助けた。俺のできなかったことを何故辰次郎はいとも簡単に出来うるのか、悔しさのようなもの、嫉妬のような黒々しいものが奥のほうから沸き立ってくるのだった。そしてしらたきの命の恩人に向ってそのような思いになる己の小ささにそれ以上にひどく悔しさにかられ苦しかった。
事実、辰次郎は俺に出来ないことすべてができる人間であるように思えた。
俺以外の人間には笑いかけたことなどなかったしらたきが辰次郎に向って不安を振りほどき微笑んでいたのは俺の見間違いではなかったのかもしれない。
すべての俺を覆っていた自尊心という殻がもろもろもろと剥がれ落ち、辰次郎から目を逸らすと障子を静かに閉めた。そしてまたぞろ酒を呷っては汲み、呷っては汲んで博奕しに行こうと心でぼそりと言ってぬぼっと立ち上がると勘定を済ませ、店を出てぬぼぬぼと俺は歩いた。売り子の籠の中に見えた大豆を食べ続けて気絶して寝たいな、と思った。
常識では考えられないようなことを起こさなければ、心がひしゃげて大きな龍に飲み込まれて死ぬ、そんなことを思ってはまた落ち込んだ。怖い、と思った。辰次郎の存在が恐ろしいと思った。
そして、俺はあのようにはなれないと思うのだった。なんでなのだろう。俺は罪人だからだろうか。


天の白滝 五十七

「またあとで話すけどもな、俺がしらたきを連れ帰ったっちゅうのんを辰次郎は知っとるんにゃわ、そやさかい、寅三おまえが俺と偶然道端で会うて、しらたきを送ってくれとそう頼まれた、とこないゆうといてくれるか」と唐突に俺が言ったのは、この二人なら辰次郎を俺がぶん殴ってしまったことを話してもわかってくれるだろうと思ったが、それを今しらたきの前で話す訳にはいかなかったからである。
「心得まった、ほなそゆうことにしとくさね」と寅三はそれに快く相槌を打った。
「しらたき寝てもうたんかいの」と弥五が蒲団にもぐったままのしらたきを見ておもむろに俺に聞いた。
俺はしらたきの掛蒲団を少しだけめくり中を覗いてみた。するときょろっとしたしらたきのふたつの目とぱちんとぶつかった。しらたきは起きていた。俺はしらたきと見詰め合って寸時、その意を汲み取った。そして弥五に返した。
「寝てもうとるわ」
「なんや、残念やな、わいもしらたきの寝顔見たいわ」と弥五が蒲団をめくろうとしたので俺は目にも留まらぬ速さでその手を制し「それは無理」とすかさず言った。
「いけずな兄貴やのぉ、ええやんけちょびっとくらい」と弥五郎はそれでも蒲団をめくろうとしたので俺はむきになってとめながら「いけしつこいやっちゃな、ほんま、姫の寝顔を見るとは百数万年早いわい」と弥五と遣り合っているのを寅三が「ははは、しらたき姫が目ェ覚ましますで」と笑った。
俺はふと、有明行灯の柔い明りに照らされた俺と寅三と弥五郎の男三人の影が巨大となって動く壁と天井を見た。
それはまるで、三つの影が合わさって一匹の竜となり、寝ているしらたきに今にも襲い掛かろうとしているような形に見えるな、と思った。
俺はそこで、また辰次郎を思い出した。あらゆることで辰次郎を思い出してしまう。それはあまりに辰次郎という存在が気になって気になって仕方がないからだ。今あいつは何を考えているのか。普段からいったいどんなことを考えて生きているのか。なんであんなに善の塊のような男なのか。そして、なんであんなに優しい男なのに、とてつもなく不気味な感じを俺に抱かせるのか。
最初に会ったときはこれといってそんな印象は受けなかったのだが、二度目に辰次郎を見たときから俺の中で辰次郎のその外面と内面があまりに一致していないような違和感のような不気味さを感ぜずにはいられなかった。二度目に見たときというのは、俺が少し遠くを辰次郎としらたきが仲良さそうに歩いていたのを見つけたときだった。
辰次郎の顔を思い浮かべてみると、やっぱり恐ろしい何かがある。何故か。辰次郎の顔は目が切れ長で若干吊り上っている。鼻と口は、特に特徴もない普通である。しかしなんでか眉の骨がぶんっと前に突き出していて、また眉が尋常ではない、仙人かと思うような立派なそして濃く黒い眉で少々下がり気味なのである。なのでその突き出して下がり気味の眉の骨と眉の下にある切れ長の吊った目がどうも変だなあ、合ってないのではないかという気がして、ずっと見ているとまるでこの世のものでないような奇妙な感覚を抱かせるのである。しかし、その眉にその目はおかしいでしょう、と思わせしめるような顔なのに、またずっと見ていると、実にいい顔だと思えてくるから不思議である。辰次郎は寅三と違い男前という感じではないのだが、男前を超えたというような顔、そこに男前かどうかは最早まったく関係ないというような、顔から念力が迸って甚だしすぎる、というよな気にさせる複雑かつ珍妙な顔なのである。それでいて、俺は寅三が俺と知り合った当初話してくれた自分の事を見ていないような冷たさを辰次郎からも感じると言ったことがよく理解できた。それはもしかして辰次郎の慈悲が余りに人間に理解できる優しさを超え過ぎている為に、優しさを優しさと感ずる前に疑いが先に生じてしまうというものかもしれなかったが、つまり、本当のところ何を考えているのかさっぱりつかみようのない人間だということである。そしてずっと見ていると何かを吸い取られてしまうのではないかと恐怖を起こさせるような目を持っているのに、しかしその個の持つ性質は暗いものではなく、むしろ眩しすぎる太陽の如く存在であるというような非常に理解に困る難解な人間なのである。
その時、あっ、と俺は弥五郎とふざけあい考えながら壁と天井に映りこんだ竜のような影を見ながら、気付いたのだった。竜顔なんだ。と俺は思った。だから辰次郎っていう名前に辰が入ってるんにゃわ、と今初めてそれに気付いたのだった。しかし、辰に似ているから辰次郎とは親は名前をつけるのにあまりに手を抜きすぎていると思って辰次郎が哀れになった。では、その弟の寅三は虎に似ているのかと思って、ふと寅三の顔を見て驚いた。そう思って見ると顔の輪郭といい、目の位置や鼻と口の振り合いが虎のそれと似ていると思えてくるから面白い。じゃあ、弥五郎はヤゴに似ているのかというとこれは全然似ていなかった。どう見てもこの顔から蜻蛉に羽化するというような顔ではなかった。それなら当の本人、この己の顔は熊に似ているのか、と思って熊の顔を思い浮かべてみた。俺はあんなに顔が横に広がって目がまあるくて鼻から口にかけて尖っていない。よかった、俺は熊に似ていたから熊太郎と名付けられたわけやないんやと内心ほっとした。
と、俺はほっとして蒲団の中にいるしらたきに目を向けて愕然とした。そういえば俺はしらたきがただ色が白かったので、しらたきと名前をつけたのであったことを思い出したからである。俺はしらたきに対して御詫びのしようもないことをしてしまったのではないか。何故なら、しらたきというのは、動物でも生きたものでもなく、江戸で呼ばれる蒟蒻状の糸のように細くて白い食べ物のことだからである。俺はなんて名前を自分の拾って育てると決めた娘に付けてしまったのだろうかと呆然となった。しかし、俺は決して、他に何もいい名前が浮かばなかったので、もういい加減に諦めてしらたきでええか、という気持でこれをつけた訳ではない。俺はこの小さい乳呑み児になんて名前をつけようかと思ったとき、真っ先になんでか頭に浮かんだ言葉がしらたきという言葉であって、俺はそれが食べ物の名前であると知っていたが、そのしらたきという言葉を心の中で呼んでみたら、その音色がごっつう心地が良いことを知って、実際声を出して呼んでみた。丸っこい二つの目で俺の顔を何も考えていないような顔で見つめる児に向って俺は呼んだ。しらたき。しらたき。と、とすると、しらたきはなんとなく嬉しそうにしているような気がしたのである。そうか、おまえ、しらたきっちゅう名前気に入ったか、おまえほんま白いしな、ほな決定じゃ、おまえの名前は、しらたきや、ええな、白い滝のように立派に育つんにゃで。とあとから無理やり白滝の意味を入れて俺はしらたきにしらたきとつけたのである。
どうなんやろう。と俺は思った。しらたきは、もしかしてその名前で呼ばれるのがもう嫌で仕方なくて、しかしその名前ではもう呼ぶなと言うとせっかくつけた俺を悲しませると思って、しかし、どうにも苦しいので、旅に出ることにしたのであったら。俺はもっとちゃんとした名前をつけるべきであったのだろうか、と苦渋した。
悩んでいると、ほたえていた弥五郎が煙草盆の角に思い切り肋を打って、いてつつつつ、と言っているのを寅三が大笑いして俺も笑った。
少ししてから、蒲団の隙間からしらたきを覗いてみるとすうすうと眠っていた。起したくなかったし、しらたきと離れたくなかったが、それはしょうことない、しらたきを起すとかなり眠たそうだったので弥五郎にしらたきをおぶらせ「け躓かんよう気ィつけや」と言って、寅三と一緒に家へ送らせた。
三人の後姿を見送っていると、三人は俺の居る場所と全く違う場所へ行ってしまうのではないかという気持になって恐ろしさと寂しさが来て、その後にはとめどない虚しさがやってくるのだった。
家で一人になると、俺はしらたきの体温がまだ残ったあったかい蒲団の中に入った。するとすこし心もあったまってきて、次はいつしらたきに会えるだろうかと思って、その次には辰次郎に一度ちゃんと謝るべきではないかと考えた。どないしょ、松河家に訪ねる、寅三に頼んで辰次郎を連れてきてもらってどこかで会って謝る、どっちがええやろう。そんなことを考えながら知らぬ知らぬま眠りへと落ちていった。