月別アーカイブ: 3月 2012

天の白滝 六十

なんでそんな気持に俺はなったんやろう。俺がどれほど辰次郎をそねんでいるのか、そんなことは辰次郎は露知らずという真に廉潔な顔だったからであろうか。
ああ、余りに情けなく、冬風や骨の芯まで届けれり。
そんな出たら目な俳句を詠んでいるうちに、我家へと到着した。
「ようこそ、俺の我家へ」とは俺は言わなかったが、そのような気持ちで辰次郎と一緒に家の中へと入った。
辰次郎は俺を居間まで上げると、直ちに蒲団を押入から出そうとしたので、慌てて俺は言った。
「あっ、なんや、家着いたら、きゅーうに腹痛がどっかとンで行きまひたわ、はははは、けったいな腹やね、胃ィも我家が一番ちゅうてね、ちゅうてんのかしらンけろも、ははは、ほんますんまへなんだ、おおきに、あ、茶ァ入れまっさかいね、ゆっくりしてってってってくらはい」そう言うと、ほっとしたような辰次郎は「それはよかった、ほなお言葉に甘えまして」と充足な顔で言い寛ごうとしてくれたので、俺はしゃかしゃかと機敏に動いて茶を入れに行った。
茶の湯を沸かしながら俺は超高速回転で回り凄まじい飛沫を撒き散らす水車のように頭の中で辰次郎に謝る言葉を回して考えだした。
しかし、ただ出てくる言葉は「すんまへん」「撲ったりなんかしてすんません」「ほっんまにすんませんでしたあっ」と言うような言葉しか見当たらず、すんまへん、すんまへん、すんまへん、と叫びながら超高速回転で回り続ける水車は無意味な回転に絶望して突然に停止したことで水車を構築していた木板の全てに亀裂が一斉に走り一瞬にして自壊した。
俺はその水車の残骸にまみれたなづきがずきずきしながらも、内広がった水辺の水面に浮かぶ幾多の小さな木片にそれでもしがみついて離れない「すんまへん」という言葉たちに憐情を抱きながら、入れた茶を辰次郎のところへ持って行った。
静寂な宵に満ちた間の畳床の上に座っている慎ましやかな辰次郎と差し向かって茶を飲みながら、絶好の折を探すのだが、辰次郎は喉が渇いていたのか、茶を飲むと湯呑を持ったまま膝の上にちょっと置く、するとまたすぐに茶を口へ持って行く、俺は湯呑を膝上に置いた瞬間に、ここが折りやっ、と内で叫び話を切り出そうとするのだが、そう思ったら、またすぐに湯呑を口のところへ持って行こうとして、やっぱりいらないかな、と思うのか、またぞろ持ってった湯飲みをまた膝の上に置いたりするのを繰り返し、俺が言いかけようとして口を開けてはまた閉める、俺も同じように茶を飲んだり床に置いたり、て繰り返したりと、一向に絶妙な機に恵まれない。
しかも、辰次郎も俺と同じく何らかを深く考えているような顔つきでそれを話し出す機を窺っているように思える。それはまずい、辰次郎が話し出す前に俺は先に謝らなければならない、早く切り出さなければならん、気は甚だ焦り、口火を切るのに体勢を正そうとしたら足が湯呑に当たってそれをひっくり返してしまった。わちゃあ、と思いながら「ははは、あっつぅ」と笑いながら手拭でこれを吸い取っていると、前から不意を討つように辰次郎に少し改まった調子で声をかけられた。
「あの、城戸はん、先達てのことなのですが・・・・・」
そう切り出されて、俺はしまったあっ、と内心で叫んで辰次郎に顔を上げた。
すると驚いたことに、辰次郎は顔を酸漿のように赤くして涙を目に溜め、俺と目を合わせた瞬間床に手を着いて、一心に目を床に落とし口を切った。
「わたしが、至らなかったために、しらたきはんが、あのような危ない目ェにおうてしもて、また城戸はんにえらい御心配をかけさしてしまったことを、どうか許して頂けるやろか、この通り、誠に申し訳なかった」
そう切れ切れな声で言って辰次郎は己の頭を床につけて俺に切に謝った。
俺は、呆気にとられてしまった。そして自ら企てたこの拗けがましき魂胆の因果を俺は辰次郎から直裁に今諸に受けているのだと思い知らされ恐ろしい敗北に打ち砕かれた心は最早、木片にしがみついたすんまへんと呟く声たちも敗亡の嵐の強烈な突風により、うわあーと言いながら飛ばされて行き跡形も消えてなくなった。
俺は完全の廃残により酷い虚脱に見舞われたが、まだ頭を下げ続ける辰次郎を目の当たりにして、辰次郎という人間の懐の深さが如何に深いかを知り、畏れ入って、負けを認めずにはおれなかった。
しかし、そうやって潔く負けを認めた瞬間にまた違う感情が湧いてきた。
辰次郎はもしかして、俺が考えていたことと同じことを俺にやったのではないか、と思ったのである。俺が図っていた先手を打つ、という策を、その先手のさらに先手を打つ、という意企がそこにあったとしたら?そう思うと、その方が俺は心底救われると感じた。そうであってほしいと願った。俺はこの期に及んでまだ救われたいと思っているからそうやって訝りたい気持もわかるわかる、わかるよ、俺は俺の気持がわかった、情けなさ過ぎて泣きたい気持になった。もうこの際辰次郎と二人で泣きながら酒を飲もうかと俺は思った。
それ、いいかもしれない。そう思った俺は練りに練りこました臥薪嘗胆が立ち消えとなって胸苦しいこの進展を切り抜けるには酒がどうしても必要だろう、こんなことになったらもう開き直る、己れという自我から逃げこます以外に自我を保てない、と奇策に走って、黙って辰次郎の右肩に手を置くと、俺は声を落として大様な感じで告げた。
「なんかしてんねん、辰次郎はん、謝るんは、わしのほうやんけ、殴ってもうてほんますまんかったな、ずっと悪かったと思っとったんにゃ、痛かったやろ、それでお返しちゅうたらあれなんにゃが、ええさかいィ同じように俺を今ばあんと殴ってはもらえんかの、どや辰次郎はん、わしの横面をな、こう思っきしどがーんと殴ったってもらえんけ」そう見振り手振りしながらすらすらと口から出てきて俺は吃驚した。諦めの持つ蛮力とは、これのことか、どれや。
辰次郎はそれを聞いて驚いた顔で俺に向き直ると、ぶんぶんぶんぶんと頭を横に振って応えた。
「く、熊太郎はんを殴るやなんて、わ、わたしにはできんです」
「くはははははは」俺は笑いながら立ち上がって土間に行くと一升瓶を持ってきて笑いながら言った。
「はははは、手ェれ殴たら手ェ痛いさかいなあかんわ、ほなこの一升瓶でね、かまへんさかいィわいの頭をかちこーんとどついてもらえんか」すると顔面蒼白となって「め、滅相もない、そんな、そないなこと、できまへん、わたしには、堪忍致してください」と言う辰次郎にまた対座して座り俺は一升瓶を傾けた。
「ははは、それは冗談やがな、辰次郎はん、どや、酒はいける口か」
「ああ、冗談ですか、吃驚しました、良かった・・・あ、お酒は、滅法弱いのですが、好きです」
「ほらええこっちゃ、ほな、安酒やけろも、一杯やろか」と俺が言うと「ほな、お少し頂きます」と血の気が戻ったような辰次郎は湯呑を持ち、それに酒を注いだ。
辰次郎と差し向かいで酒を飲みながら、つくづくこの男は不思議な男であると俺は思った。
話し方や、最前の俺に対してとった態度など、気の弱さを節々に感ぜるのだが、しかし辰次郎のその外見の風格はまるで別人のように貫禄があり、いつでも凛としているのである。
この辰次郎という男を兄に持った弟寅三の混乱が見て取れるわけだが、そんな辰次郎と寅三は何一つ似ていないのかというと、そうでもないということがわかる。寅三も辰次郎も繊細な心の持ち主であり、よく周りに気を回していることがわかる。弥五郎もあいつは繊細でもあるが、結構荒削りな部分もあり、そこが弥五郎のいいところである。その違いはやはり辰次郎と寅三はええとこのぼんぼんであるという気品を備えており、それがないのは俺も同じである。
俺は控えめに酒をちょびちょびと飲み頬が薄く桜色になっておとなしい辰次郎を見て、この男は弥五郎や寅三と同じく信頼できる男であると感じた。
辰次郎に黙っていることを打ち明けても大丈夫だろう、そう俺は思った。酒を飲みながら、そう思ったので俺は辰次郎に隠している事柄を話した。
まず、しらたきは拾ったのは実は七年前のことであって、なのに、どうして今は二十歳頃の娘なのか、そのことについて話した。
静かに聴いていた辰次郎は寅三と同じく訝る表情はせず、素直に驚いていた。俺は察していた通りだったと会心すると、今度は、もうこれも話してしまっても大丈夫だろうと思い、寅三と俺の仲についても話した。しかしそれには辰次郎は特に驚きの顔を見せなかった。大方既に気色取っていたのであろう。
俺は結構感動していた。酒を飲みながら。しかしまあ、感動した途端に別の思いがぬまぬまという感じに現われるのは、どうしてか、それはしらたきの側におれるのは俺ではなく、この男辰次郎である意味が、そういったところにあるのだろうかと悲しむからであるが、悲しみながらもそれを酒で流そうとしてまた飲んで、辰次郎とたわいもないことを喋ったりなんかしながら、二極の陰と陽の思いを懐きながらも、俺はあることを思いついて、それについて考えているような、頭が眠りかけているような感覚でも潜在した意識の中で心中思惟をめぐらせた。
それはこの男、辰次郎を俺は信頼していると、心から俺はもう信じる、いや信じたい、これからもずっと、と思うがために、俺の一大事、大変に大事なもの、切要な事物、それを辰次郎に預けようと思ったのである。
それは松河家からしらたきの代価として手渡された千円のことであるが、千円てな大金は百姓なら一生かかっても絶対手にする機会もないような希有な代物である。
だいもつ、それは俺にとってあまりに大きな物と言える。俺にとって大きな大物である千円、それを置いておく望ましい場所というのはどういう場所か、それは絶対に誰にも盗まれない場所であるわけだが、それが未だ見つからないから、床下に置いているという始末で、これは非常にもって危険極まりない場所である。何故ならこんな貧しげな屋だから盗みに入る泥坊はいないかというとそんなこともなく、いないと断言することはできないので心配で仕方がないのであるが、だからといって、地中を深く掘りこれを埋める、ということもちょっとやろうという気になれない、それは俺がしらたきのことがどうでもいいからかというとそうではなく、俺が一生懸命に地中を掘っているところをもし誰かが、盗人が草の陰から覗いてでもいたらばどうなるか、俺が千円を埋めたその日の夜にもう千円は掘り返され奪われ、朝になって掘られたる穴を俺は見下ろし脳内で自作の穴掘り名人という浪曲が流れつつ穴に落っこちてその日は暮れるということが考えられる。そんなことになったら穴を掘らないほうがよかったではないかと穴の中で土から顔を出す蚯蚓と向き合いながら絶対想像にしがたい酷烈な後悔の念が待っており、それならまだ床下で眠らせておく方が良いと思えるからである。
ですから俺は、そうだ、今畳の下にある千円、これを最も信頼したいと思う男、辰次郎に預けるということにするのが一番ではないかと賢察したのである。
俺は酒が美味かったので、酒をしたたか嗜んだ末に、それを辰次郎に切り出してみた。
「あんね、ちょと辰次郎はんにね折り入て頼みたいことあんねやん、それ聞いてもらえるぅ?」
「勿論ですとも、なんなりと申してください」
「へへ、おおきに、これね辰次郎はんィ面と向って可也言い辛いことなんにゃがね、辰次郎はんも既に承知かもわかれひんのやが、わしィ、そのしらたきの代わりィね、千円ちゅうのんをもろたんやけろもゥ、ぅその千円ちゅうの絶対なくしたらあかんもんにゃと思てね、ずと今床下に置いとんにゃわ、しゃあけろそれではあんまり心配でしゃあなあてね、もしその千円、辰次郎はんィ是非ともこの千円、預かっとってもらえひんかなあて思て、そのなんでかちゅたら、うちやたらいつ盗まれる恐れもないこともないんちゃうか思てね、怖いんだすわ、ぶっちゃけてまうと、しゃあけろ辰次郎はんとこやたら、そない盗賊が入らんてなこともまあないやろが、人がようさんおりまっしゃろ、うちはたった一人やさかいィわしがおらなんだら家は誰一人おらんさかいィ泥棒でもとっ捕まえてきて泥棒に留守番させるゥてなわけィもいかしまへんで、ほんィ心配が尽きひんでね、や、無理ィは言わなんだ、ほんませいぜい気楽ゥに考えとくれはったらええんにゃ」
そう言うと辰次郎は、終始穏やかな顔でこれ聞いて、ほがらかな顔と調子で応えた。
「熊太郎はん、あなたは凄い御方だ、並べてまだあんまり知らないしかも当の家の息子に千円を預けるということはしないでしょう、しかしあなたはあえてわたしにそれを頼んだ、わたしはその想いに感謝致して、重責尊んでその千円を預からしてもらいます、そして熊太郎はん・・・うちの親のしたこと、わたしが代わって謝りたい」
そう言ってまた頭を下げようとしたので、俺は慌てて辰次郎の手をぐっと掴むと、うんうんと首肯きながら落ち着いた声で言った。
「大事あらへん、辰次郎はん、あんな俺はなんにゃ、しらたきと離れてからね、ずっと暗いとこを歩き通しで来たけろもね今までにない楽観のような、こうごっつい解放された気分なんにゃ、それはなんでかちゅうと辰次郎はんの御蔭や、俺はな、もうあんたんとこの親御さんのことを怨むのももうやめる、しゃあさかい辰次郎はんもそういったいらん煩慮をもうせんでええ、ね、これからは仲良うみんなとうまァくあんじょうやてけるようィわしも精進すっさかいィね、また感謝すんのんはこっちゃのほやでほんま、おおきに、おおきにな辰次郎はん」
辰次郎の手を強く握って俺は酔いが心地好く回ってくれている体に身を任せ心からそう告げた。
二人は互いの人徳に触れることがはじめてできてこんな肩の荷が下りるということもない、よかった、ほんまよかった、と口にしなくともわかってる、嬉しいなあ、どや、これから飯でも食いに行かへんけ、みたいな感じになって、俺は辰次郎を飯処へと誘った。
辰次郎は実に残念だが、という顔で今日はすぐ家に帰ると言ってから出てきたのでもうそろそろ帰らなければならないということを言って、なんて謹厳実直な男であろうか、と俺はまた感激して、ほな飯はまた今度ィしょう、と言い、あ、忘れてた、千円千円と、畳を上げて下から千円の風呂敷包を上げると、辰次郎はこれを堅実な態度でしっかと受け取ると「大事に保管しておきます」と言い、俺は千円が元あった場所に戻ってくれることにほっとしたような気持で「おおきに」と応え、本当に辰次郎に預けておく以上に一番善い方法はないだろうと信認して、この悪辣で不義理な銭である千円を長男の辰次郎の苦衷を察しながらも預けるという清水の舞台から飛び降りる如く行為、運を天に任せるといった行動に出たことも、俺はこれを機にすべてがうまく回り始めて行く、うまく流れ行く川に水端を流してみせただろうと、そう信じる思いで俺は嫉妬と憎しみも忘れ辰次郎にしらたきとの幸福な未来が係っている千円という千金を預けた。
辰次郎が帰った後も俺の心は清み切って上濁りもしない真冬の湖面に映った青天井のように晴々としていた。

広告