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天の白滝 六十一

一緒に死ねたらよかった。そう何遍も思った。一緒に死にたかった。こんな残りの人生何の意味があんねやろ、ないよ、なんも。罪滅ぼしか、ただの罪滅ぼしのために生きる、それが俺に残された道か。それでも死にてえなと思いながら死ねずにただ生きてきた。闇雲に生きてきた、俺の周りはいつも薄暗くて手探りで何かを考えついてもすぐに捨て、何か見つかりそうな気がしてもすぐに失ってはの繰り返し、何一つ残って積み重なっていかない、積まれていくのは俺の罪悪感だけだった。外に一歩出るのでさえ苦痛になり家でじっとして、何もせず伯母の世話になっていた時期もあった。するとこんだ一日一度顔を出し飯を持ってきてくれたり家のことをして帰っていく伯母と顔を合わすことさえ苦痛となり、伯母から逃げるようにして外に飲みに行くという日が増えていった。そうしてそれから俺は博奕にのめりこんで行った。博奕場におると伯母と顔を合わさずにすむ、俺の過去を何も知らない連中に囲まれてただ博奕に集中していれば良い、これだ、と俺は思った。俺はもう博奕だけをして生きよう、ほんで酒を毎日浴びるように飲んで、早死にしよう、このまま行くとあと十年も持たんやろ、そう思って暮らし始めたのが、二十二の年であった。よくそんなんで生きてこれたなぁと今にしてみると俺は思う。そして博奕をやり始めた頃と同時に女というもんを知り、女とおる時は何も考えずに没頭できるということを覚えて遊郭に入り浸り、その日博奕で勝った銭をぜんぶ使い果たして帰るという日も多々あった。

完全な無頼者として村中に知れ渡り、伯母からきつく叱られても言うことは聞かず、酒と博奕と女でなんとか身を支えるかのようにして生きていた。

しかし何事も俺はうまく続くということがない、こんだはこの身を支えてくれている酒、博奕、女までもを厭悪するようになっていったのである。

酒を飲んでは何も美味いと感じられない、最悪な悪酔いが続く、博奕場に赴いては誰彼構わず悪態をつき捲って荒事となる、女郎を買って、さあ寝ようというときになったら目の前におる女が嫌なもので出来ているような気になってきて堪らなく女を殴って宿を出るという日も続くようになり、俺を支えてくれていた酒、博奕、女、この三つがまるで俺を支えてくれない、このままでは近いうちに何かやらかして牢屋に入れられるということにもなりかねない、獄舎に入るくらいなら俺は死んでしまいたい、死ぬか、死ぬか、もう死ぬしかないのか、こんなに苦しいならば、死ぬしかないだろう、もう死んでもいいだろう、もう死ねるような気がする、死ぬ、どこで死ぬ、俺の死に場所に一番相応しい場所は何処か、そんなのは決まっている、あの場所しかないと俺は思った。俺の死が今でも横たわっている場所。脱け殻が戻りたい、ちゅうとぉ、そう呟いた俺は蒲団からぬっくっと起き上がるとその場所へと向った。

空は眩しかった、真っ白であった、俺の引き裂いた肉の血をこの空に振り撒いたらどんだけ鮮やかに冴えるだろう、振り撒きたい、俺の血一滴残さず、俺はこの天の中で死にたい、天を真ッ赤いヶに染めぬきこの天もろとも死んでやろう、天を連れ立って俺は、し・・・。

そういいかけたときであった。なにやらその場所の方から赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がした。俺は訝りながらその場所、俺の自家へ近づいた。

俺がここで生まれてから十五歳の夏至ごろまで、俺と家族はこの家で一緒に暮らしていた。俺があの時殺していなければ、今でもここで一緒に暮らしていただろう。生きとったら親父は相変わらず今でも朝早くから百姓仕事に出て行く毎日を過ごしていただろう。

帰ってきたで、親父、そう心の中で自然と言った俺は、そう言えた俺は今なら死ねる、とそう迷いが切れた、やっと俺は死ねる時がやってきた、もう死んでもいい、本心でそう思った。

あれ、やっぱり赤ん坊の声が聞こえる、おかしいな、ここはずっと廃屋で誰も住んどらんはずやが。

外から見ても自家は廃屋そのもので、雨戸は一つなくなってるし、もう一つは外れかけて傾いている、折れた軒が垂れ下がっている、障子はこれでもかというほどぼろぼろになっている。縁側には鍬が置かれたままになっている。親父があの日一日の農作業を終えてうちへ帰ってきて縁側で少し夕涼みをしてからそこに鍬を置いたまま家へ上がったのだろうか。雑草が生え放題となった庭には草で半分隠れたカメの墓と書かれたでかい石がまだある。俺が幼いときから飼ってて八年くらい生きて死んだカメを埋めた墓である。

この十二年間この家には誰も住んでいない。家は人に住まれてようやく家である、誰も住まない家は最早家という形があるだけの空っぽで何の役にも立たない巨大なから箱と同じである。

主を失った家の姿は俺の姿そのものであるように思えた。

家の存在価値とは人が住んでくれることである。

俺の存在価値とは家族を喜ばせ、助け合って生きることだった。俺は存在価値を壊した。

俺はみんなの存在価値がそこに同時に存在していたこの家を殺した、そんな俺をこの家は呪い続けているように今までは思えたが、しかし今の俺の眼前にある自家は俺を拒んでいるというようには見えなかった。俺が来たことに、ここで死ぬと決心してやってきたことに、やっとおまえを許せる、安心したという顔で俺を見ているような気がした。

役目を失った死んだ家であるのに、何故人が住んでいる家よりもまるで生きた物のように様々な感情を内に宿しているように見えてくるのか不思議であった。

「戻ってきたで、一緒に死のう」そう小さい声で俺は言うと戸に手をかけて開けようとした。すると確かに中から赤ん坊の泣き声がはっきりと聞こえた。俺は建てつけのひどく悪い戸をガタガタ言わせて無理やり力づくで抉じ開け戸がはずれてそれを横に立て掛けると走って家中声の主を探し回った。

家の中は何故ここまで荒れているのか、残骸が散らばったようになっており、それらを押し退けて進むと唯一俺の暮らしていた時のままに置かれていた背の高い階段箪笥が目に入った。俺と向き合うように階段は上へと伸びている。一番上の段を見やると何かが乗っかっている。どうやら少しおとなしくなった泣き声もそこから聞こえて来るようだ。俺は幅の狭い箪笥を猫みたいな低姿勢で慎重に上ってゆく。ふぎゃらふぎゃらと鳴くその主に近づくのに驚かせないようにと俺は静かあに一段一段上ってゆく。そして一番上段の手前まで上るとそのものは生成りの白絹のきれにくるまれていて顔だけは出ていたが、ふがふが鳴いているその顔はまるで白餅のように白く、 また見た感触も白餅のようであり、頬だけは桜に染めたような色をしていた。目をぎゅっと瞑ってずっとふがふがふがふが泣いていた。

俺はその赤ん坊を真面目な顔でじっと眺めていた。実際少しの間であったと思うが、俺は一日がここで過ぎたと思える、そんな気が一瞬遠くなってまた戻ってきた後、俺は気付くと勝手に腕を伸ばしそのものを腕の中に抱いていた。やっと辿り着いた死を今諦めた俺と言う己れに降り懸ることはもう決まっている死以上の何か、死よりも俺を死に至らしめるはずである何かを俺は今おのれは抱いた、俺は今、それを自分のものとした。それはあたたかかった。今までの何より、それはあたたかかった。

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天の白滝 六十

なんでそんな気持に俺はなったんやろう。俺がどれほど辰次郎をそねんでいるのか、そんなことは辰次郎は露知らずという真に廉潔な顔だったからであろうか。
ああ、余りに情けなく、冬風や骨の芯まで届けれり。
そんな出たら目な俳句を詠んでいるうちに、我家へと到着した。
「ようこそ、俺の我家へ」とは俺は言わなかったが、そのような気持ちで辰次郎と一緒に家の中へと入った。
辰次郎は俺を居間まで上げると、直ちに蒲団を押入から出そうとしたので、慌てて俺は言った。
「あっ、なんや、家着いたら、きゅーうに腹痛がどっかとンで行きまひたわ、はははは、けったいな腹やね、胃ィも我家が一番ちゅうてね、ちゅうてんのかしらンけろも、ははは、ほんますんまへなんだ、おおきに、あ、茶ァ入れまっさかいね、ゆっくりしてってってってくらはい」そう言うと、ほっとしたような辰次郎は「それはよかった、ほなお言葉に甘えまして」と充足な顔で言い寛ごうとしてくれたので、俺はしゃかしゃかと機敏に動いて茶を入れに行った。
茶の湯を沸かしながら俺は超高速回転で回り凄まじい飛沫を撒き散らす水車のように頭の中で辰次郎に謝る言葉を回して考えだした。
しかし、ただ出てくる言葉は「すんまへん」「撲ったりなんかしてすんません」「ほっんまにすんませんでしたあっ」と言うような言葉しか見当たらず、すんまへん、すんまへん、すんまへん、と叫びながら超高速回転で回り続ける水車は無意味な回転に絶望して突然に停止したことで水車を構築していた木板の全てに亀裂が一斉に走り一瞬にして自壊した。
俺はその水車の残骸にまみれたなづきがずきずきしながらも、内広がった水辺の水面に浮かぶ幾多の小さな木片にそれでもしがみついて離れない「すんまへん」という言葉たちに憐情を抱きながら、入れた茶を辰次郎のところへ持って行った。
静寂な宵に満ちた間の畳床の上に座っている慎ましやかな辰次郎と差し向かって茶を飲みながら、絶好の折を探すのだが、辰次郎は喉が渇いていたのか、茶を飲むと湯呑を持ったまま膝の上にちょっと置く、するとまたすぐに茶を口へ持って行く、俺は湯呑を膝上に置いた瞬間に、ここが折りやっ、と内で叫び話を切り出そうとするのだが、そう思ったら、またすぐに湯呑を口のところへ持って行こうとして、やっぱりいらないかな、と思うのか、またぞろ持ってった湯飲みをまた膝の上に置いたりするのを繰り返し、俺が言いかけようとして口を開けてはまた閉める、俺も同じように茶を飲んだり床に置いたり、て繰り返したりと、一向に絶妙な機に恵まれない。
しかも、辰次郎も俺と同じく何らかを深く考えているような顔つきでそれを話し出す機を窺っているように思える。それはまずい、辰次郎が話し出す前に俺は先に謝らなければならない、早く切り出さなければならん、気は甚だ焦り、口火を切るのに体勢を正そうとしたら足が湯呑に当たってそれをひっくり返してしまった。わちゃあ、と思いながら「ははは、あっつぅ」と笑いながら手拭でこれを吸い取っていると、前から不意を討つように辰次郎に少し改まった調子で声をかけられた。
「あの、城戸はん、先達てのことなのですが・・・・・」
そう切り出されて、俺はしまったあっ、と内心で叫んで辰次郎に顔を上げた。
すると驚いたことに、辰次郎は顔を酸漿のように赤くして涙を目に溜め、俺と目を合わせた瞬間床に手を着いて、一心に目を床に落とし口を切った。
「わたしが、至らなかったために、しらたきはんが、あのような危ない目ェにおうてしもて、また城戸はんにえらい御心配をかけさしてしまったことを、どうか許して頂けるやろか、この通り、誠に申し訳なかった」
そう切れ切れな声で言って辰次郎は己の頭を床につけて俺に切に謝った。
俺は、呆気にとられてしまった。そして自ら企てたこの拗けがましき魂胆の因果を俺は辰次郎から直裁に今諸に受けているのだと思い知らされ恐ろしい敗北に打ち砕かれた心は最早、木片にしがみついたすんまへんと呟く声たちも敗亡の嵐の強烈な突風により、うわあーと言いながら飛ばされて行き跡形も消えてなくなった。
俺は完全の廃残により酷い虚脱に見舞われたが、まだ頭を下げ続ける辰次郎を目の当たりにして、辰次郎という人間の懐の深さが如何に深いかを知り、畏れ入って、負けを認めずにはおれなかった。
しかし、そうやって潔く負けを認めた瞬間にまた違う感情が湧いてきた。
辰次郎はもしかして、俺が考えていたことと同じことを俺にやったのではないか、と思ったのである。俺が図っていた先手を打つ、という策を、その先手のさらに先手を打つ、という意企がそこにあったとしたら?そう思うと、その方が俺は心底救われると感じた。そうであってほしいと願った。俺はこの期に及んでまだ救われたいと思っているからそうやって訝りたい気持もわかるわかる、わかるよ、俺は俺の気持がわかった、情けなさ過ぎて泣きたい気持になった。もうこの際辰次郎と二人で泣きながら酒を飲もうかと俺は思った。
それ、いいかもしれない。そう思った俺は練りに練りこました臥薪嘗胆が立ち消えとなって胸苦しいこの進展を切り抜けるには酒がどうしても必要だろう、こんなことになったらもう開き直る、己れという自我から逃げこます以外に自我を保てない、と奇策に走って、黙って辰次郎の右肩に手を置くと、俺は声を落として大様な感じで告げた。
「なんかしてんねん、辰次郎はん、謝るんは、わしのほうやんけ、殴ってもうてほんますまんかったな、ずっと悪かったと思っとったんにゃ、痛かったやろ、それでお返しちゅうたらあれなんにゃが、ええさかいィ同じように俺を今ばあんと殴ってはもらえんかの、どや辰次郎はん、わしの横面をな、こう思っきしどがーんと殴ったってもらえんけ」そう見振り手振りしながらすらすらと口から出てきて俺は吃驚した。諦めの持つ蛮力とは、これのことか、どれや。
辰次郎はそれを聞いて驚いた顔で俺に向き直ると、ぶんぶんぶんぶんと頭を横に振って応えた。
「く、熊太郎はんを殴るやなんて、わ、わたしにはできんです」
「くはははははは」俺は笑いながら立ち上がって土間に行くと一升瓶を持ってきて笑いながら言った。
「はははは、手ェれ殴たら手ェ痛いさかいなあかんわ、ほなこの一升瓶でね、かまへんさかいィわいの頭をかちこーんとどついてもらえんか」すると顔面蒼白となって「め、滅相もない、そんな、そないなこと、できまへん、わたしには、堪忍致してください」と言う辰次郎にまた対座して座り俺は一升瓶を傾けた。
「ははは、それは冗談やがな、辰次郎はん、どや、酒はいける口か」
「ああ、冗談ですか、吃驚しました、良かった・・・あ、お酒は、滅法弱いのですが、好きです」
「ほらええこっちゃ、ほな、安酒やけろも、一杯やろか」と俺が言うと「ほな、お少し頂きます」と血の気が戻ったような辰次郎は湯呑を持ち、それに酒を注いだ。
辰次郎と差し向かいで酒を飲みながら、つくづくこの男は不思議な男であると俺は思った。
話し方や、最前の俺に対してとった態度など、気の弱さを節々に感ぜるのだが、しかし辰次郎のその外見の風格はまるで別人のように貫禄があり、いつでも凛としているのである。
この辰次郎という男を兄に持った弟寅三の混乱が見て取れるわけだが、そんな辰次郎と寅三は何一つ似ていないのかというと、そうでもないということがわかる。寅三も辰次郎も繊細な心の持ち主であり、よく周りに気を回していることがわかる。弥五郎もあいつは繊細でもあるが、結構荒削りな部分もあり、そこが弥五郎のいいところである。その違いはやはり辰次郎と寅三はええとこのぼんぼんであるという気品を備えており、それがないのは俺も同じである。
俺は控えめに酒をちょびちょびと飲み頬が薄く桜色になっておとなしい辰次郎を見て、この男は弥五郎や寅三と同じく信頼できる男であると感じた。
辰次郎に黙っていることを打ち明けても大丈夫だろう、そう俺は思った。酒を飲みながら、そう思ったので俺は辰次郎に隠している事柄を話した。
まず、しらたきは拾ったのは実は七年前のことであって、なのに、どうして今は二十歳頃の娘なのか、そのことについて話した。
静かに聴いていた辰次郎は寅三と同じく訝る表情はせず、素直に驚いていた。俺は察していた通りだったと会心すると、今度は、もうこれも話してしまっても大丈夫だろうと思い、寅三と俺の仲についても話した。しかしそれには辰次郎は特に驚きの顔を見せなかった。大方既に気色取っていたのであろう。
俺は結構感動していた。酒を飲みながら。しかしまあ、感動した途端に別の思いがぬまぬまという感じに現われるのは、どうしてか、それはしらたきの側におれるのは俺ではなく、この男辰次郎である意味が、そういったところにあるのだろうかと悲しむからであるが、悲しみながらもそれを酒で流そうとしてまた飲んで、辰次郎とたわいもないことを喋ったりなんかしながら、二極の陰と陽の思いを懐きながらも、俺はあることを思いついて、それについて考えているような、頭が眠りかけているような感覚でも潜在した意識の中で心中思惟をめぐらせた。
それはこの男、辰次郎を俺は信頼していると、心から俺はもう信じる、いや信じたい、これからもずっと、と思うがために、俺の一大事、大変に大事なもの、切要な事物、それを辰次郎に預けようと思ったのである。
それは松河家からしらたきの代価として手渡された千円のことであるが、千円てな大金は百姓なら一生かかっても絶対手にする機会もないような希有な代物である。
だいもつ、それは俺にとってあまりに大きな物と言える。俺にとって大きな大物である千円、それを置いておく望ましい場所というのはどういう場所か、それは絶対に誰にも盗まれない場所であるわけだが、それが未だ見つからないから、床下に置いているという始末で、これは非常にもって危険極まりない場所である。何故ならこんな貧しげな屋だから盗みに入る泥坊はいないかというとそんなこともなく、いないと断言することはできないので心配で仕方がないのであるが、だからといって、地中を深く掘りこれを埋める、ということもちょっとやろうという気になれない、それは俺がしらたきのことがどうでもいいからかというとそうではなく、俺が一生懸命に地中を掘っているところをもし誰かが、盗人が草の陰から覗いてでもいたらばどうなるか、俺が千円を埋めたその日の夜にもう千円は掘り返され奪われ、朝になって掘られたる穴を俺は見下ろし脳内で自作の穴掘り名人という浪曲が流れつつ穴に落っこちてその日は暮れるということが考えられる。そんなことになったら穴を掘らないほうがよかったではないかと穴の中で土から顔を出す蚯蚓と向き合いながら絶対想像にしがたい酷烈な後悔の念が待っており、それならまだ床下で眠らせておく方が良いと思えるからである。
ですから俺は、そうだ、今畳の下にある千円、これを最も信頼したいと思う男、辰次郎に預けるということにするのが一番ではないかと賢察したのである。
俺は酒が美味かったので、酒をしたたか嗜んだ末に、それを辰次郎に切り出してみた。
「あんね、ちょと辰次郎はんにね折り入て頼みたいことあんねやん、それ聞いてもらえるぅ?」
「勿論ですとも、なんなりと申してください」
「へへ、おおきに、これね辰次郎はんィ面と向って可也言い辛いことなんにゃがね、辰次郎はんも既に承知かもわかれひんのやが、わしィ、そのしらたきの代わりィね、千円ちゅうのんをもろたんやけろもゥ、ぅその千円ちゅうの絶対なくしたらあかんもんにゃと思てね、ずと今床下に置いとんにゃわ、しゃあけろそれではあんまり心配でしゃあなあてね、もしその千円、辰次郎はんィ是非ともこの千円、預かっとってもらえひんかなあて思て、そのなんでかちゅたら、うちやたらいつ盗まれる恐れもないこともないんちゃうか思てね、怖いんだすわ、ぶっちゃけてまうと、しゃあけろ辰次郎はんとこやたら、そない盗賊が入らんてなこともまあないやろが、人がようさんおりまっしゃろ、うちはたった一人やさかいィわしがおらなんだら家は誰一人おらんさかいィ泥棒でもとっ捕まえてきて泥棒に留守番させるゥてなわけィもいかしまへんで、ほんィ心配が尽きひんでね、や、無理ィは言わなんだ、ほんませいぜい気楽ゥに考えとくれはったらええんにゃ」
そう言うと辰次郎は、終始穏やかな顔でこれ聞いて、ほがらかな顔と調子で応えた。
「熊太郎はん、あなたは凄い御方だ、並べてまだあんまり知らないしかも当の家の息子に千円を預けるということはしないでしょう、しかしあなたはあえてわたしにそれを頼んだ、わたしはその想いに感謝致して、重責尊んでその千円を預からしてもらいます、そして熊太郎はん・・・うちの親のしたこと、わたしが代わって謝りたい」
そう言ってまた頭を下げようとしたので、俺は慌てて辰次郎の手をぐっと掴むと、うんうんと首肯きながら落ち着いた声で言った。
「大事あらへん、辰次郎はん、あんな俺はなんにゃ、しらたきと離れてからね、ずっと暗いとこを歩き通しで来たけろもね今までにない楽観のような、こうごっつい解放された気分なんにゃ、それはなんでかちゅうと辰次郎はんの御蔭や、俺はな、もうあんたんとこの親御さんのことを怨むのももうやめる、しゃあさかい辰次郎はんもそういったいらん煩慮をもうせんでええ、ね、これからは仲良うみんなとうまァくあんじょうやてけるようィわしも精進すっさかいィね、また感謝すんのんはこっちゃのほやでほんま、おおきに、おおきにな辰次郎はん」
辰次郎の手を強く握って俺は酔いが心地好く回ってくれている体に身を任せ心からそう告げた。
二人は互いの人徳に触れることがはじめてできてこんな肩の荷が下りるということもない、よかった、ほんまよかった、と口にしなくともわかってる、嬉しいなあ、どや、これから飯でも食いに行かへんけ、みたいな感じになって、俺は辰次郎を飯処へと誘った。
辰次郎は実に残念だが、という顔で今日はすぐ家に帰ると言ってから出てきたのでもうそろそろ帰らなければならないということを言って、なんて謹厳実直な男であろうか、と俺はまた感激して、ほな飯はまた今度ィしょう、と言い、あ、忘れてた、千円千円と、畳を上げて下から千円の風呂敷包を上げると、辰次郎はこれを堅実な態度でしっかと受け取ると「大事に保管しておきます」と言い、俺は千円が元あった場所に戻ってくれることにほっとしたような気持で「おおきに」と応え、本当に辰次郎に預けておく以上に一番善い方法はないだろうと信認して、この悪辣で不義理な銭である千円を長男の辰次郎の苦衷を察しながらも預けるという清水の舞台から飛び降りる如く行為、運を天に任せるといった行動に出たことも、俺はこれを機にすべてがうまく回り始めて行く、うまく流れ行く川に水端を流してみせただろうと、そう信じる思いで俺は嫉妬と憎しみも忘れ辰次郎にしらたきとの幸福な未来が係っている千円という千金を預けた。
辰次郎が帰った後も俺の心は清み切って上濁りもしない真冬の湖面に映った青天井のように晴々としていた。


天の白滝 五十九

ほんまやったら、俺は処刑されていた。少年の身であろうと犯した罪は大罪であって家族三人を殺した俺はほんまやったら死刑で恐ろしい刑に処されて死ぬべき人間であった。
しかし罰を免れた俺はこうやってのうのうと生きている。飯を食って酒を飲んで博奕をしては屁をこいたり糞をしたり、時に仲間らと笑ってはしょうむない話をしたりして生というものを受け、存在している。
死ぬべき、と国が決めた罪人がその国の中で生きているということは、国から滅ぼされるべき身であるとされている人間がのさばっているというのは、この国の汚辱であるのだろうか。日本中の人間が俺のことを汚泥であると感じているのだろうか。
ずっとそんなことを思って俺は生きてきた。だから人の目を見ることが未だに怖くて苦手であり、できる限り人と目を合わすことを避けてきた。
例え、辰次郎のような生き菩薩のような人間に、あなたの罪は許されました。と言われたとしても、俺はこのこわばり果てて己の世界を世に映してでしか世を見ることができなくなってしまった俺の鋼鉄のような信条を洗い落とすことはできないと思っている。
警察に追われて追いつかれたら捕まって殺されるから、必死になって逃げている、という夢をよく見る。俺は今でも家族殺しの罪が露見して、警察にしょっぴかれるのではないかという恐れに震えながら生きている。時効というものがあるようだが、いったい今の日本の制度はどうなっているのか俺はよく知らない。知ろうとも思わない。知って、ああ、よかった、もう時効過ぎてるから俺捕まえられへんですむ、うっわあ、最高や、ぃやっほぅ、と歓喜の叫びを上げる俺はどこにもいないからである。
俺はこの罪を手放すとき、俺の本当の死がやってくるときだと信じている。
俺はこの罪と共に死ぬ、それは誰が決めたことでもない、己で決めたことである。しかしそうは思っていても国家に殺されるのはどうしても嫌で、なんで嫌かと言えば俺は国家を愛していないからである。右翼青年のように俺は国を愛している、だから俺は国に殺されても構わない、むしろ本望だ、そんな気持があるなら喜んで刑に処せられるのか、というとそうでもないのは、国の憲法と天皇とは繋がっているようで繋がっていないからであるが、つまり人間というものは愛していないものに殺されるのは嫌なのである。愛されないものに殺されるくらいなら自分で死のうと思って刑が決まっているのにその前に自死を遂げる者がいるのはそのためではないかと俺は思っている。俺も国などに殺されるくらいなら自分で腹を刺して死んだほうがどんなに良いだろうかと思うからである。
俺が今も生きている、ということは俺の中で間違っていることではないのだが、俺以外の多くの人間の中では間違っているとされている。多くの人間の法によって殺されることが正当であるとされている俺の命はいったい誰のものなのだろうか。自分の命というものはいったい誰様のものなのであろうか。神のものか、己のものか、己が愛する者のものか、己以外の知らない人間のものか、辰次郎のようなまっとうに生きる者のものか。
俺の罪とは、いったい誰の手によって贖わされるべきであるというのか。俺は間違った者の手によって贖わされたくはない。もし、間違った者の手によって贖わされた時、贖わした者は過ちを犯したことになる、これは重大なことではないか。人の罪は誰でもいいから罰を与えればそれで良いのだ、これではあまりに暗愚で粗雑な考えだと言える。俺は別に自分の罪を国に罰されたくないからこんなことを言っているのではない。なにかとんでもない重大な間違いを犯しているような気がしてならないのである。
そんなことを考えながら博奕場に着いたのだが、戸の前に突っ立って冷たい風に巻かれていると、俺はなんでか急に気持が入れ替わり、今日辰次郎に謝ることができなければいったいいつ謝ることができるというのかと思い、一刻も早くに辰次郎にこの前のことを謝りたいと気も漫ろとなって俺は来た道を走って引き返した。
先刻に辰次郎が道で坊主を助けた場所に辰次郎はいてなかった。まだ同じ場所で辰次郎が子供を抱いてあやしていたらそれはそれで吃驚するが、いてなかったことに悄然となり呆けたように立ち尽くし、ほどなく、あ、家に戻ったんかもしれん、と思い俺は松河家に向かってまた駆け足で走って辰次郎を探した。
往来を抜けると、枯れたような色の草や木が好き放題に伸びて雑多な景色に入り、そこを小川がちょろちょろと流れている。その向こうに生えた大きな松の木に背を凭せ何かを木筆で帖面に書き記している世に静穏な面差しの辰次郎がそこに立っていたのを俺は見咎めた。
うわっ、辰次郎がおったわ、どないしょ、俺は念願の辰次郎を見つけたものの、自分から声をかける勇気がちっとも出てこず逡巡して、辰次郎から気付いてくれへんやろかと思い、偶然ここを通りかかった熊太郎を演じようと、怪しまれぬようにさりげなく小川を挟んだ向こう側にいる辰次郎の前を行きつ戻りつしたり、後ろに生えた木の表面に手を当てて腕立てみたいな動作をしたり木に額をつけて瞑想を行っている俺という風に見せたり、枯葉を拾っては川に流し、それがどこまで流れてゆくのかを静かに見届けている俺、土に穴を掘り、何か研究対象にしている虫を真剣に探している俺、急に腹に激痛を覚え、道に蹲って艱難辛苦している俺、少しでも体を動かした場合、体内にあるものが下から出てしまうのではないかと静かな面持ちながらも心中では周章狼狽している俺、周章狼狽しながらも瞑想をしてなんとかこの深刻な事態を切り抜けようと目をつぶって心を研ぎ澄まそうと敢闘している俺、敢闘はしてみたが、実際すこしのものが外に出てしまったような気がして空を見上げて絶望している俺、しかし絶望して気を抜いているとすべてのものが安心したように外に出て行こうとするのではないかと慌ててまた瞑想に奮闘している俺、などあらゆることをしながらも自然とこの場所にいる、近くに辰次郎がいるなどとは夢にも思っていない、というような熊太郎という俺を演じてはみたのだが、辰次郎は熱心に何を書いているのか手帖にずっと筆を動かし、まったく俺に気付かなかった。
草臥れ儲けとなって、俺はぽかんと口を半ば開けて放心したように辰次郎を見てしまった。
すると間ンの悪い、俺が見ているときに限って辰次郎は俺に気付いてしまったのである。
はっ、という顔で俺に気付いた辰次郎に俺もはっという顔になって、それでも自分から声を掛けるのがどうにもやりづらいと思い、俺は咄嗟にまたどこかの内臓に激痛を覚えしゃがみ込み呻吟している俺を演じてしまった、すると辰次郎は「城戸はん、どないしはりまった」と心から心配そうな顔をして小川をひょいと飛び越えて渡り俺の元に駆け寄ってきた。
俺はもうこうなったら演技を最後まで通すしかないと思い、うーん、と唸り「あっ、辰次郎はん、いやね、なんやしらんが急ィ内臓の奥んとこらへんが痛んでね、しゃあけろ大事無いでふわ、すぐィ止む痛みやさかい、はは」と嘘をつく痛みに耐えながら腹の痛みに耐えているが大事はないという見てくれそう見えるようにして辰次郎に言った。
辰次郎は真摯にそれを受け止め、「そらあきまへん、城戸はん、わたしの背にはよおぶさってください」と言うのに俺は「いややややややや、ほっんま大丈夫やさかい、ほっといたらもう、すぐィれも立って走て飯喰うたりとかできまっさかい、いつものことなんだすわ」と慌てて応えた。
「ほんまだっか、どこかお悪いなら早う医者に診てもらわんとあきまへんがな、今から一緒に先生んとこ行きましょう」
「いやややや、これはほんっまなんでもない痛みなんふわ、体が悪いっちゅうよりかは多分精神かどっかから来とるもんなんすわ、われの体やさかいわれが一番ようわかるもんだっさかい心配はありまへん、おおきに辰次郎はん」
「そうですか?そうならわたしも安心ですが、しかしここにずっとおっては体が冷えて悪化するとよろしない、どっか休めるとこに行きましょう、さ、わたしの肩につかまってください」
そう言われて俺は困り果て不自然だが、もう治りました、ほらもうこんなに元気と言いながら猿のように木に登ってまた降りてこようかと思ったが、しかし待てよ、辰次郎に謝るのにこの場所で謝るより俺の家で謝ったほうがええんちゃうか、誰に見られるかわからない場所で謝るのは気が引けてしまう、もしそんなところをしらたきに見られてしまったら俺は情けなくて死にたくなってしまうだろう、だからこのまま痛い振りを演じ辰次郎を俺の住み家までおびき寄せよう、と思いなんかおびき寄せるってごっつい嫌な言い方やなぁ、虫かなんかをおびき寄せて殺す、みたいな言い方だなぁと思い辰次郎に申し訳がないという気持ちになったがそれも全部含めた謝意をあとで示さねばならないと思った俺は辰次郎をおびき寄せる為騙すぺてん師のような気分で辰次郎に向って言った。
「ほしたら、辰次郎はん、この道をもうちょい行て右行て左曲がたらわいの住んどる宿があるんだすわ、そこまでちょうすんまへんけろ肩貸いてもらえまっかいね」
「もちろんです城戸はん、ほなそこまでがんばって行きましょう」
そう深切にゆうてくれる辰次郎の肩に凭れ、気まずくまた面映いながらも家へ向った。
俺の住処が辰次郎にばれてしまうのは避けたいことであるのを重々承知していたが、こういう成り行きとなってしまっては致し方ない、そう己に言い聞かせ辰次郎に凭れ掛って歩を進めた。
辰次郎の顔をよく見ることも出来なかったが、先程ちらと見た辰次郎の左の頬にうっすらと傷のようなものがあり、まだ俺の撲ったあとが残っているように見えた。しらたきほどではないのだが、辰次郎も色白の肌を持っており、日によってか、光の加減によってか、青白く見えることもあった。俺がぶん殴ったとき、思いもよらず遠くまで飛んでいったのは辰次郎の力が弱かったからかと思うこともあったが、こうして掴まって歩いていると、思うよりしっかりとした体つきであり身は華奢であったが、骨は太そうだなあと意外であった。おそらく、まさか俺に殴られるとは全く意想外であったため力を抜いて安心しきっていてあんなに吹っ飛んで行ってしまったのかもしれない。
なんて謝ればええんにゃ、とそういや俺は謝る文句を好い加減にしか考えていなかったことに難渋して、本当に胃の部分が痛くなってきた。
男が同年の知り合いの男に向って平謝りに謝る。これはとんでもなくみっともないことであって、どんな理由がそこにあろうと厳烈な苦汁なくしては行えない。
まだ辰次郎が年下であってくれたほうが良かったと俺は思った、同年というのはなんでかわからなんだが、同等、同格であると思うため、そこで対等とならないどちらかが優る、劣る、となった時、劣ってしまったほうはものすごい悔しさに打ちのめされるのである。
しかも今の俺と辰次郎とは目に見えて俺の完敗、惨敗であって、それを更に俺はこれから負けの戦に出ようとしているわけであるが、これを普通にやってしまうとただの醜状をさらすだけに終わるが、俺はそれを少しでも払拭したいが為に、態と自ずから醜態を曝けて辰次郎が俺に本当は謝って欲しいなと思っている隙を感ずる前に、もう前以て先に謝ってしまうという先手を打つ行為であって、そんなことを考えている俺はほんま情けない無様な男であるなあと思って、そう思って俺の心は黙り込んだ。
ちょっとだけ、無になりたい。とそう思った。心を無にすることができなければ、その間だけ俺はこのわびしさの頂上みたいな内的世界から逃れず、あまりの己のわびしさに意識を失うかも知れず、そうなってしまってはせっかくのこれまでの好機を無駄にしてしまう。まあそんなことゆうて意識失うなんてことあらへんねんけどね。兎角、早く謝ってしまいたいと思った俺は、またわびしさの増す、謝れば済む、謝るのは辰次郎のためではなく、己が早くそのことについてすっきりさせたいからである、それはわかっていたよ、わかっているよ、わかっていて、もうどないせえっちゅねん、わかっていてもいなくてもやることはおんなじやんけ、違うのはその心の内にあるもんで、上ッ側でなんぼ謝っても内ッ側で、はっ、辰次郎これでおまえに借りは返したで、もうこれで俺は気が楽や、ありがとう、ではさようなら。ちゅうてても、意味あらひん、俺は決してそんな気持で最初から謝ろうなどとは思っていなかったのだが、なんでこんなことになってしまうのか、わからない。何も考えたくなかった。何も考えずに謝れたらどんなに楽だったことでしょう、ってそう考えるってことは俺は楽をしたいってもう思ってるってことが決定されてしまうというのか、誰に?俺か、俺は決定せざるをえない立場に今、立っているのだろうか。では、決定しよう、俺は、辰次郎が神以て憎い、そしてものすごいことやっかんでいる、しかし俺は謝らんければならん、それは何故かと言えば、しらたきがこれからも辰次郎の側におるからである。俺ではなく、この辰次郎が。
夕闇の降りてこようとする中、俺は辰次郎に寄り掛かって淡く焼けた雲のまだらと同じ色を映した辰次郎の顔の反面を見た。しかしそれは何故か太陽や月を見るのと同じような思いで俺は見ていた。


天の白滝 五十八

明治二十四年如月のこの日俺は相変わらず何もしないで午過ぎから山羊の親ッさん方で酒を飲んでいた。
一月前、辰次郎に謝ろう、そう思った俺は一度松河家へ訪ねた。するといつもの下人が出てきて、俺が辰次郎にちょっと話があるので呼んでもらいたいと丁寧に頼むと「あにぼんはんは今いはりまへんさかいどうぞお引取りください」と冷たくあしらわれ、ほないつやったらいてるのかと聞いたら「だいたい家にはあまりいはりまへん」とこない返され、けったくそ悪い気持でしょんぼりしてそれきり諦めてしまったのだった。
寅三に頼むという手立てもあるにはあるが、あまり寅三と俺が密接していると疑われそうになることは出来れば避けたほうが良い、寅三に迷惑がかかってしまうし、またそれでしらたきが外に出られなくなることも考えられる。
それにしても、しらたきとたった一月会わないというだけで心が散らし鮨のように散ってしまう。今までなら生きていくために俺は博奕をがんばっていたと言える。それはしらたきがいたから、しらたきを食わしていかなくてはならないという思いでまるで仕事をしに行くように博奕をしに行ったものだ。そして博奕は楽しかった。しかし、しらたきが俺から離れて行ってからというもの博奕をしている最中にも溜息がこぼれたり、家帰ってもしらたきおらんねや、さびしいなあ、などと嘆きながらやっていたりするからちっとも楽しくない。
だから俺は今日もこんな時間から酒を飲んでいた。往来を忙しそうに行き交う人々らを眺めつつ飲んでいた。羨ましいな、という思いで最初は眺めていたのが酒が回ってくると、ご苦労様ですな、という気持に変わって行き、そしてもっと酒が回ってくると、われの仕事はそれなんか知らんけろもね、俺の仕事はこれ、これなんにゃわ、わかりますか、わかりますか、その意味をわかりますか、という完全な酔漢の空しきあらがいとなったもので思考を埋め尽くしていく、悲しきかな。
今日は節分だからといって大豆や鰯や恵方巻を売り子がさばいている。
「かっ、何が節分、何が鬼は外福は内じゃ、あのなあ、鬼は己の外ィ出るかあ、あんだら、鬼は己の中ィしかおらんわちゅうねん、鬼はまさに己を喰わんかとしてやね己に向けて牙を剥き続けとるもんでやなあ、それィ気付くもんが福を授かることができるっちゅう話や、ほんま、豆撒いて何叫んどってもええことあるかあ、あかんあかん、そんなことばあっかしゆうとったら出直し食らうっちゅう話やでほんま、だいたい柊に鰯の頭刺して戸口ィ立てたり、でっかい巻鮨を恵方向いて阿呆みたいな顔してかぶりついたり、豆を大声で怒鳴り散らしながら撒き散らしてあとで無言でもくもく、あーめんどくさいなあ、とか思いながら片付けたりやな一体人間は何がしたいんにゃ、狂っているとしか思えまへんでっせ、みんながやっているから自分もする?それではあまりィそれはうといちゅうもんにゃ、情けないでほんま、俺もね昨年はしらたきと一緒ィ豆巻いて楽しかったなあ、しゃあけろ今年はできひんがな、毎年毎年人々がみんな節分できると思うなあ、俺の前で豆売りさばくなあ、あほんだら、あ、ちょう酒持てきてくれる?酒、さ、け、うん燗でね」
俺はそう独り言をぼやいて残りの酒を一気に呷った。
ごろんと横になって肘を着き、雪見障子の四角く切り取られた形の空を見上げた。
晴れ渡ってはいるが霞がかったような寒そうな冬空であった。
弥五郎はまたすぐ村に帰ってしまったし、寅三とも行き違いになっているのか元日から会っていない、さびしいなあと思ってまた通りを眺めた。
通りを行ったり来たりする人の顔を見てみてもやることもなくてさびしいなあと思いながら歩いているような人は一人もいない。いったい何を考えて生きているのだろう。こうやって眺めていると大方の人間は同じようなことを考えて生きているようにも見えるが、実際そうではないのだろう一人一人がぜんぜん違うことを考えて生きているかもしれない、しかしそのことに気付いて生きている人間と気付いて生きていない人間とではその差が歴然としていて、そこで分け隔てられてしまいそうな気がする。俺はそう思って、では俺はどっちにいるのかと考えてみたが、それがよくわからなかった。自分で考えていることが自分にとって難しすぎてよくわからなくなってしまったのである。しかし大事なことである、それだけはわかったのだった。
また持ってきてもらった酒を飲んでは外を眺め眺めしていると鬼の面を被ったちっこい餓鬼んちょが騒ぎながら走ってきて思い切り道にけ躓き、ずっでーんと派手にこけた。鬼の面もふっ飛んでいき真っ赤な顔になって大声でわあわあ泣き出した。ちょうどなんでか近くには誰もいてない一人で小児は泣いていた。少し哀れに思ったが、子供は気が移り変わるのがとても早い、直になんでもなかったかのように立ち上がるだろうと俺は見守っていた。しかし坊主は一向に起き上がろうとしない、うつ伏せになったまま涙と洟を飛び散らせながらわんわんと泣きじゃくっている。俺はもしかして打ち所が悪く大怪我を負ってしまったのではないかと心配になった。俺は助けに行ってやろうかと思い障子を開けたがすぐ下に低い垣根があり、それの向こうが急に落ち込んだ溝となっていて出るに出られない、戸口から出ると反対側なので大分回って行かなければならない、どうしようとぐずぐずしていると、その時、小僧の前にすっと自然に走り寄り現れた男が坊主を軽く抱き上げた。俺は驚いた。その男は辰次郎だったからである。
辰次郎は坊主をあやしているのか、何かを優しく話しかけながらまるで父親が子をいつくしむような慈愛の顔で坊主を見ていた。
俺はそれを見ながら複雑な思いにとらわれた。きっとしらたきを助けたときも同じような顔をしていたのだろう。俺が助けることの叶わなかったしらたきを辰次郎はあんな顔で助けた。俺のできなかったことを何故辰次郎はいとも簡単に出来うるのか、悔しさのようなもの、嫉妬のような黒々しいものが奥のほうから沸き立ってくるのだった。そしてしらたきの命の恩人に向ってそのような思いになる己の小ささにそれ以上にひどく悔しさにかられ苦しかった。
事実、辰次郎は俺に出来ないことすべてができる人間であるように思えた。
俺以外の人間には笑いかけたことなどなかったしらたきが辰次郎に向って不安を振りほどき微笑んでいたのは俺の見間違いではなかったのかもしれない。
すべての俺を覆っていた自尊心という殻がもろもろもろと剥がれ落ち、辰次郎から目を逸らすと障子を静かに閉めた。そしてまたぞろ酒を呷っては汲み、呷っては汲んで博奕しに行こうと心でぼそりと言ってぬぼっと立ち上がると勘定を済ませ、店を出てぬぼぬぼと俺は歩いた。売り子の籠の中に見えた大豆を食べ続けて気絶して寝たいな、と思った。
常識では考えられないようなことを起こさなければ、心がひしゃげて大きな龍に飲み込まれて死ぬ、そんなことを思ってはまた落ち込んだ。怖い、と思った。辰次郎の存在が恐ろしいと思った。
そして、俺はあのようにはなれないと思うのだった。なんでなのだろう。俺は罪人だからだろうか。


天の白滝 五十七

「またあとで話すけどもな、俺がしらたきを連れ帰ったっちゅうのんを辰次郎は知っとるんにゃわ、そやさかい、寅三おまえが俺と偶然道端で会うて、しらたきを送ってくれとそう頼まれた、とこないゆうといてくれるか」と唐突に俺が言ったのは、この二人なら辰次郎を俺がぶん殴ってしまったことを話してもわかってくれるだろうと思ったが、それを今しらたきの前で話す訳にはいかなかったからである。
「心得まった、ほなそゆうことにしとくさね」と寅三はそれに快く相槌を打った。
「しらたき寝てもうたんかいの」と弥五が蒲団にもぐったままのしらたきを見ておもむろに俺に聞いた。
俺はしらたきの掛蒲団を少しだけめくり中を覗いてみた。するときょろっとしたしらたきのふたつの目とぱちんとぶつかった。しらたきは起きていた。俺はしらたきと見詰め合って寸時、その意を汲み取った。そして弥五に返した。
「寝てもうとるわ」
「なんや、残念やな、わいもしらたきの寝顔見たいわ」と弥五が蒲団をめくろうとしたので俺は目にも留まらぬ速さでその手を制し「それは無理」とすかさず言った。
「いけずな兄貴やのぉ、ええやんけちょびっとくらい」と弥五郎はそれでも蒲団をめくろうとしたので俺はむきになってとめながら「いけしつこいやっちゃな、ほんま、姫の寝顔を見るとは百数万年早いわい」と弥五と遣り合っているのを寅三が「ははは、しらたき姫が目ェ覚ましますで」と笑った。
俺はふと、有明行灯の柔い明りに照らされた俺と寅三と弥五郎の男三人の影が巨大となって動く壁と天井を見た。
それはまるで、三つの影が合わさって一匹の竜となり、寝ているしらたきに今にも襲い掛かろうとしているような形に見えるな、と思った。
俺はそこで、また辰次郎を思い出した。あらゆることで辰次郎を思い出してしまう。それはあまりに辰次郎という存在が気になって気になって仕方がないからだ。今あいつは何を考えているのか。普段からいったいどんなことを考えて生きているのか。なんであんなに善の塊のような男なのか。そして、なんであんなに優しい男なのに、とてつもなく不気味な感じを俺に抱かせるのか。
最初に会ったときはこれといってそんな印象は受けなかったのだが、二度目に辰次郎を見たときから俺の中で辰次郎のその外面と内面があまりに一致していないような違和感のような不気味さを感ぜずにはいられなかった。二度目に見たときというのは、俺が少し遠くを辰次郎としらたきが仲良さそうに歩いていたのを見つけたときだった。
辰次郎の顔を思い浮かべてみると、やっぱり恐ろしい何かがある。何故か。辰次郎の顔は目が切れ長で若干吊り上っている。鼻と口は、特に特徴もない普通である。しかしなんでか眉の骨がぶんっと前に突き出していて、また眉が尋常ではない、仙人かと思うような立派なそして濃く黒い眉で少々下がり気味なのである。なのでその突き出して下がり気味の眉の骨と眉の下にある切れ長の吊った目がどうも変だなあ、合ってないのではないかという気がして、ずっと見ているとまるでこの世のものでないような奇妙な感覚を抱かせるのである。しかし、その眉にその目はおかしいでしょう、と思わせしめるような顔なのに、またずっと見ていると、実にいい顔だと思えてくるから不思議である。辰次郎は寅三と違い男前という感じではないのだが、男前を超えたというような顔、そこに男前かどうかは最早まったく関係ないというような、顔から念力が迸って甚だしすぎる、というよな気にさせる複雑かつ珍妙な顔なのである。それでいて、俺は寅三が俺と知り合った当初話してくれた自分の事を見ていないような冷たさを辰次郎からも感じると言ったことがよく理解できた。それはもしかして辰次郎の慈悲が余りに人間に理解できる優しさを超え過ぎている為に、優しさを優しさと感ずる前に疑いが先に生じてしまうというものかもしれなかったが、つまり、本当のところ何を考えているのかさっぱりつかみようのない人間だということである。そしてずっと見ていると何かを吸い取られてしまうのではないかと恐怖を起こさせるような目を持っているのに、しかしその個の持つ性質は暗いものではなく、むしろ眩しすぎる太陽の如く存在であるというような非常に理解に困る難解な人間なのである。
その時、あっ、と俺は弥五郎とふざけあい考えながら壁と天井に映りこんだ竜のような影を見ながら、気付いたのだった。竜顔なんだ。と俺は思った。だから辰次郎っていう名前に辰が入ってるんにゃわ、と今初めてそれに気付いたのだった。しかし、辰に似ているから辰次郎とは親は名前をつけるのにあまりに手を抜きすぎていると思って辰次郎が哀れになった。では、その弟の寅三は虎に似ているのかと思って、ふと寅三の顔を見て驚いた。そう思って見ると顔の輪郭といい、目の位置や鼻と口の振り合いが虎のそれと似ていると思えてくるから面白い。じゃあ、弥五郎はヤゴに似ているのかというとこれは全然似ていなかった。どう見てもこの顔から蜻蛉に羽化するというような顔ではなかった。それなら当の本人、この己の顔は熊に似ているのか、と思って熊の顔を思い浮かべてみた。俺はあんなに顔が横に広がって目がまあるくて鼻から口にかけて尖っていない。よかった、俺は熊に似ていたから熊太郎と名付けられたわけやないんやと内心ほっとした。
と、俺はほっとして蒲団の中にいるしらたきに目を向けて愕然とした。そういえば俺はしらたきがただ色が白かったので、しらたきと名前をつけたのであったことを思い出したからである。俺はしらたきに対して御詫びのしようもないことをしてしまったのではないか。何故なら、しらたきというのは、動物でも生きたものでもなく、江戸で呼ばれる蒟蒻状の糸のように細くて白い食べ物のことだからである。俺はなんて名前を自分の拾って育てると決めた娘に付けてしまったのだろうかと呆然となった。しかし、俺は決して、他に何もいい名前が浮かばなかったので、もういい加減に諦めてしらたきでええか、という気持でこれをつけた訳ではない。俺はこの小さい乳呑み児になんて名前をつけようかと思ったとき、真っ先になんでか頭に浮かんだ言葉がしらたきという言葉であって、俺はそれが食べ物の名前であると知っていたが、そのしらたきという言葉を心の中で呼んでみたら、その音色がごっつう心地が良いことを知って、実際声を出して呼んでみた。丸っこい二つの目で俺の顔を何も考えていないような顔で見つめる児に向って俺は呼んだ。しらたき。しらたき。と、とすると、しらたきはなんとなく嬉しそうにしているような気がしたのである。そうか、おまえ、しらたきっちゅう名前気に入ったか、おまえほんま白いしな、ほな決定じゃ、おまえの名前は、しらたきや、ええな、白い滝のように立派に育つんにゃで。とあとから無理やり白滝の意味を入れて俺はしらたきにしらたきとつけたのである。
どうなんやろう。と俺は思った。しらたきは、もしかしてその名前で呼ばれるのがもう嫌で仕方なくて、しかしその名前ではもう呼ぶなと言うとせっかくつけた俺を悲しませると思って、しかし、どうにも苦しいので、旅に出ることにしたのであったら。俺はもっとちゃんとした名前をつけるべきであったのだろうか、と苦渋した。
悩んでいると、ほたえていた弥五郎が煙草盆の角に思い切り肋を打って、いてつつつつ、と言っているのを寅三が大笑いして俺も笑った。
少ししてから、蒲団の隙間からしらたきを覗いてみるとすうすうと眠っていた。起したくなかったし、しらたきと離れたくなかったが、それはしょうことない、しらたきを起すとかなり眠たそうだったので弥五郎にしらたきをおぶらせ「け躓かんよう気ィつけや」と言って、寅三と一緒に家へ送らせた。
三人の後姿を見送っていると、三人は俺の居る場所と全く違う場所へ行ってしまうのではないかという気持になって恐ろしさと寂しさが来て、その後にはとめどない虚しさがやってくるのだった。
家で一人になると、俺はしらたきの体温がまだ残ったあったかい蒲団の中に入った。するとすこし心もあったまってきて、次はいつしらたきに会えるだろうかと思って、その次には辰次郎に一度ちゃんと謝るべきではないかと考えた。どないしょ、松河家に訪ねる、寅三に頼んで辰次郎を連れてきてもらってどこかで会って謝る、どっちがええやろう。そんなことを考えながら知らぬ知らぬま眠りへと落ちていった。


天の白滝 五十六

行くっつっても、恵方詣りをする神社は辰次郎がしらたきを連れて向かった神社と同じ神社ではないのか。だとするとまた顔を合わすかもしれない。辰次郎とまた顔を合わすのは甚だ心苦しいが、しらたきの姿はもう一度この目で見たい、そう思った俺は寅三に、辰次郎が向かった神社と同じ神社へ俺らは行こうとしているのかを聞いてみた。
「まあ、別の神社もあることにゃあんねけどね、あこの神社が一番本場ちゅうたら本場かな」
「よし、ほな寅ちゃん、われは兄さんに見つからんように俺の後ろ歩いとき」
「へい、兄貴」
「ほんで弥五ちゃん、われは俺のまァ前を歩いてや」
「しゃあけろ兄貴、さいぜんわいの顔見られたやんけ、わいが見つかればわいの後ろィは兄貴がおるとばれたも同じィなれへんけ」
「あ、ほんまやな、ほんまやわ、ほなどないしょ」俺は弥五郎に尤もなことを言われてあぐねっていると寅三が賢そうな顔で妙案を唱えた。
「ほなこないせえへん、わいらは表通りからは行かんで裏の山道を通ってくやんか、ほいで木の陰から辰次郎を探し当てたらええねん、ほしたら辰次郎から見つかる前にわいらは隠れたらええちゅう話しやん」
「ほんまや、それええわ、それで行こ、山道がええわ、山道に賛同や」
そう言って俺と弥五郎と寅三は暗い山道から回り道を経て、辰次郎の在処を突き止めるべく獣道を通って向かった。
獣道がなければおのずとから脇差を抜いて、しゃっ、しゃっ、と豪放磊落と草木を刈りながら進む。なんてなことはせず、酒の尾がまだ引いている男三人はへらへらと、いつつつっ、とか、おわっ、とか、なんやこれ、などと口々に発し、またはひゃっぷんしょいっ、などと豪快なくっしゃみをしながらがさがさごさごさと山道を進んでいった。
そして表通りから少しかみてとなっている山の斜面木の陰から下を窺ってみたら、そこそこの広さを持った道に人々がごった返しておった。人々は何を考えてこんな寒くて暗い夜の内から人の群聚の中に身をこごめながらも向かうのか、斯く斯くの事情に因り、各々の悲境を嘆いて深刻な思いで祈願しに行こうとしているのか、それとも徒、祭りのような感覚で楽しもうとして古来からまつわる行事に参集しているだけなのか、どちらにしろ哀れな光景である。祭りのように思うのならばもっと楽しそうにしたらいいものを、人々の顔は皆寒さに震え、またなかなか進んでくれないことに腹立ち紛れながら焦燥に充ちているのである。毎年のことなのだから、今年はそんな顔で並ぶのはやめようとは思わないのだろうか。しかしそんな民たちの疲労は俺は知ったこっちゃあない、俺が心配になったのは、こんな中に連れて行かれた人嫌いのしらたきのことを思うと、やりきれない。
俺たちは結構早歩きで歩いたし回り道ではあったが、この混雑の中もう辰次郎としらたきは参って帰ってしまったということはないだろうから、まだ参ってないか、参っていても帰りにまたここを通るときに一目しらたきの姿を目に留めることが出来うるはずである。俺は獲物を探し求める肉食獣のようになって毛が汚なくて黄ばんだような群羊の中から一匹だけ真っ白な羊であるしらたきを探した。
すると俺の右の木から首を伸ばしていた弥五郎が「めったくそやな、わいちょう小便してくるわ」と言って後ろの繁みに行こうとしかけたら寅三も「わいもいてこましたろうかな、熊やんはええか」と言ったので「おう行ってこい、俺はもうちびってもうたさかいええわ」と恥ずかしそうな顔をつくって応えると、寅三と弥五郎は笑いながら二人で小便をしに行った。実のところ俺も小便を我慢していたのだが、俺が用を足している間にもし、しらたきが一番見える場所まで来ていたらと思うと行くに行けず我慢を通すことを決めたのである。弥五郎と寅三に頼んで一人で行くことも出来るが、俺はしらたきの姿を見つけ出す自信が大いにあるのに比して弥五郎と寅三は見つけられないのではないかとうたぐれてしまって任せておけず己に頼るに如くはなしとなって俺は目を血走らせて探した。
すると、どうだろう、見よ!俺の目は真っ白き羊の姿を捉えたのである。すわ、しらたきや、と思った瞬間のことであった。俯いて歩いていたしらたきは顔を上げて俺の立っている地点を刹那、望んだのである。なんで俺がここに立っていることがわかったのだろうか、確かにしらたきの目は俺を一瞬見た。はずである。この幸先のような一事に俺の全身は何かが走りぬけた感覚になった。何か大きなものに走り抜けられたような後の幸運なる心地の中に突っ立っていると、しらたきが俺の見ている中に倒れこんですっと姿を消した。隣にいた辰次郎がしきりに「すえ」と名前を呼んでいる。俺は一目散に下へ斜面を滑りながら降りた。それでしらたきの倒れた場所へ行こうとするのだが人の群れに押されて思いのほか近づくことができない。最初のうちはすんまへん、すんまへん、と謝りながら人の間を無理やり入って行こうとしたが人々は誰一人と足を止めようとせず俺を押しやることしか考えない、俺はそっちがそう来るなら俺もこうすると「どきさらせ」と怒鳴り散らしながら無茶苦茶になって前に進んだ。そうしてなんとかやっとしらたきのところまで来れて俺は身動きがとれずにしらたきを庇うようにして座り込みながら閉口してしまっている辰次郎に向かって「大丈夫かっ」と叫んだ。俺は「城戸はん」と驚いている辰次郎の手から即座しらたきを抱きかかえて思った、どうにか道の端まで行って、そこから危険であるが致し方ない、斜面を上がって行くしかこの狂った猪のように猪突猛進してくる人波から避難することはできない。俺は自分の背中を後ろに向けてどかどかと押されながら端っこに行こうとした、その時である。ものすごい故意の力で責めてくるおっさんにどんとぶつかられて俺は人波も押し退けて打っ倒れた。幸い横倒しに打っ倒れたのでしらたきは無事であった。おかげで道の端まで一気に来られたが、俺はもしこれが横倒しに倒れずしらたきが飛んでって頭を石畳にぶつけるなどしてしらたきが大怪我を負っていたらと思うと、殺意に駆られた俺はしらたきを安全な土の斜面に寝かせ親父に向かって「われ、待たんかい」と怒鳴ってその親父を打ん殴ろうと親父の肩を思い切り掴んで振り向かせようとしたその時であった、辰次郎が物凄い手捷さで俺の腕をぐっと掴んでこれを止めさせた。そして静まった荘厳な顔つきで「城戸はん、暴力はあかん」と言った。しかし先に暴力を行ったのはこの親父であり、否、親父だけでない、ここにいる人間全員が暴力であり、もしこの場に俺がいなかったら一体どうなっていたのか、しらたきは人々の無愧なる暴力によって殺されていたのかも知れんのだ、おまえはしらたきが別に死んでも良いと思っているからそんなことが言えるのではないのか、そもそも人が嫌いなしらたきをこんな場所へ連れてきたのはおまえである、おまえがここへしらたきを連れてこなければこんな目にしらたきは合わずとも済んだのだ。俺は何の反省もなく立ち去ろうとする親父よりも目の前に立っている辰次郎のほうに憤恨が移って抑えきれなくなり辰次郎の頬をぶん殴った。しかし殴りつけるまでの瞬間この男はしらたきの命の恩人であることを思い出し、力は大分と緩んだ。それなのに辰次郎は少しく大袈裟ではないのかと思うほど飛んで行った。辰次郎の体が飛んできて将棋倒しのように幾人かが倒れ込んだ。俺は、やってしまった、という気持を抱えるも、しらたきのそばにおりながらしらたきを守れなかった辰次郎の弱さを憎み、俺は振り返って倒れたままのしらたきをおぶると斜面を上った。
しらたきが無事でよかった。しらたきが無事でよかった。しらたきが無事で、ほんまによかった。俺はそのことだけを考えるようにして、しらたきを連れて家に帰った。
家に帰って蒲団を敷いてそこにしらたきを寝かせると、しらたきは目を覚ました。
「気分わるないか」と聞くと「うん」と応え「なんでぼくここにおんのん」と言った。
「おまえ神社参る途中でぶったおれてもうたんや、ほんで俺がおぶって連れ帰ってきたんやで」
「ふーん」
「おまえ人が大嫌いやのにあない仰山おる中歩いて気ィ失ったんちゃうか」
「そうかしれん」
「もうあないな場所は行かんこっちゃで、行きたないてはっきしゆえばええんにゃ、わあたか」
「うん、けろ、行きたいてぼくがゆうたねん」
「ほんまか」
「うん」
「そうか、またなんで、まあええか、もうこりたやろう、もう行かんときや」
「うん」
しらたきは半分蒲団で顔を隠すようにしてそう言った。辰次郎から無理に恵方詣りへしらたきを誘った訳でなかったことを知り、苦々しい場所へ一瞬追いやられたが、それにつけてもこのひととき。幸せの森。そんな言葉がふと浮かんだ。俺はしらたきさえそばにおってくれたら本当に幸せでしかたないんや、なんであの頃はそれがわからんかったんやろう。しらたきを邪魔に思ったことなど一度とてないが、しらたきがいつもおることはもう決定付けられていると思い込んでいた為そのことを幸福とは思わなかったのだろうか。
あっ、と、そうや、この前にしらたきが言いかけてごっつう気になっていた続きの言葉、これ聞かな、と思い出した俺は前に夜道で別れる前にしらたきが言った「ぼくのじんせいないような」という言葉の続きをしらたきに聞いた。
「しらたき、おまえなんかこの前ゆいかけてたことあったやん、なんかぼくのじんせいがなんちゃらかんちゃらとか、あれ、なんてゆおうとしとったんにゃ」
「そんなんゆうたっけ、ぼく」
「おお、ゆうてたで、ちいちゃい声でな、最後に、覚えとらんのか」
「おもいだした、ぼくのじんせいないようなも」
するとその時戸が勢いよくガララッと開いて「おー兄貴ぃ、おおぅ、おおしらたきや、しらたきがおるぅ」と弥五郎がまずでっかい声でゆうて、それをさらに上回るでっかい声で寅三が「あらららららぁ、しらたきちゃん、ははは、ここにおったんですかい、熊やん、やられたね、やられたねぇ」などとふざけてやかましく騒ぐので、しらたきの言葉がまた聞こえなかった。もう、いや。と思ったけど、俺は苦笑しながら「やかましいの帰ってきてもた」としらたきに言うと、しらたきは蒲団の中に顔をひょこっと隠した。
「ちょうやっかましい、しらたきが寝とるさかい」と俺が言うと、二人は顔を見合して片手を顔の前に立てて御免の素振をしながらへこへことそおっと居間に上がってきた。
「また飲んで来たんか」と俺が二人に聞くと二人は、ッヘェ、そうっす、みたいな頭を掻いて恥ずかし乍らという仕草と顔をした。
「いや、しゃべったらあかんゆうてへんがな」と笑いながら俺が言うと寅三が声を出した。
「わいらもっぺん飲んでこよかいな、なあ弥五さん」と言うに弥五が「いや、もうわいはええわ、われ一人で飲んでこいや」と応えるといかにも寅三が、おっまえ、あほ、あっほやなおまえ、という顔で気ィ利かさんかいと顔で言っているのがわかり俺は「はは、だんないがな、もうちょいしたら、しらたき寅三ィ連れ帰てもらわんならんさかいな」と言った。
「熊やん、安心しぃ、わいが責任の限りを尽くしてしらたきちゃんを送ったるさけ、あ、ほな酒と宛て、酒と宛てを持てこよかいね」
「弥五郎、おまえも一緒ィ送ってってくれるけ」
「兄貴、任しとけ、こいつあてならんわ」
「兄貴、任しとき、こいつあてなるわ」
「また掛け合いか」
まあ年も同じとあって、二人は余程気が合うことだ。それで思い出したが、辰次郎は俺より若いと思っていたが俺と同年であるらしい。辰次郎が今どのような思いでいるのか、俺にはまったく推し量ることさえ出来ないのであった。辰次郎は多分俺と何一つ似通った部分が存在しない人間である。


天の白滝 五十五

そう思って寂しくもなるが、年が明けたからだろうか、寂しいだけで終わらることもない、今年は昨年と違いしらたきともっと会える機に恵まれるやもしれん、そしていつしかしらたきは俺のことを完全に思い出し、これまでのように共に暮らせる日が来るかもしれんし、と年明け早々小心でいてしまっては来るものも来なくなってしまうしと思って、そんなことを思いながら俺を慕い続けてくれる男弥五郎と酒を飲んでいると、寅三がやってきた。
戸を開けるなり寅三は「あけましたかな」と聞いたので、俺が「開いとるよ」と応えたら「あー、それはよかった、あいたィ開いたらば会いたいわぁって思っててんか、てああ、もうあいてたんか、ははは、年明いてたんやね、はは、ってあれ、弥五はんやな?なあんで弥五はんがここにおんね、ヤゴゆうたら田んぼにおったけどなぁ、あっれぇおっかしいなぁ」という寅三を見て「もう寅三はできあがっとるな」とぼそっと弥五郎は言って「ほな、あれか、寅はそこやね、どこや、虎はどこやね」と土間によらっと立っている寅三に向かい合って聞くとそれに寅三が応える。
「寅は印度にいんど」
「ほな印度にいんどれや、寅」
「嫌です、わたくしはここにいたいのです、そしてみなさんで酒を飲みたかったのです」
「おお、寅ちゃんも酒買うてきてくれたんけ、おきにおおきに、せやたらはよ上がってきて飲もぅや」
「うん、いまに上がってくるよ」
そう言うなり上がってきた寅三は一升瓶を床に置き「開けましてっと」と云いながら栓を抜いて俺と弥五郎と自分の湯呑に「おー」と言いつつ注ぐと「めでとうさん」と湯呑を三人で合わして飲んだ。寅三の酒も負けじと劣らず美味い。
湯呑一杯の酒を飲み干すと弥五が徐に「どないする、これから恵方詣りにでもいてこますけ」と聞いてきた。それに寅三が寝そべりながら、吸っていた煙管の雁首で煙草盆の縁をカンッと叩いて、煙管の吸い口を弥五郎に向けてうん、と肯き「ええね」と応えた。煙管を寅三から受け取って旨そうに呑むと弥五郎は「兄貴、どや」とまた聞いた。俺はそれに考え込む姿勢をとり「うーん、まあなぁ、俺実はな、ぶっちゃけてゆうてしもたほうがええな」と勿体をつけてから言った。
「俺はね、先ィ風呂へ参りたいなぁて思うねんね、垢が七分ほど積とるさかいな」「ほな、風呂ィ参ろう、でそのままの格好で恵方詣たらええんちゃう」と寅三が笑いながら言う。「素っ裸で神さんに詣るんか」
「いひゃひゃ、そう、熊やんだけな」
「ははは、兄貴それがええわ、まあ褌だけはしていきぃな」
「いやいや、さぶいやん、てそれ以外に問題が大事あるやん」
「ないない、熊やんにはないて、ひゃひゃひゃひゃ」と寅三がおちょくる。そうしてふざけながら三人でまずは風呂屋へと出向くと、風呂屋は空いていた。三人で入るには大分と狭いが、誰一人この寒さの中外で待ちたがらず、無理に三人で入りこました。温かい湯に浸かっていると心地が良いあまりに俺はしらたきのことばかり考えてしまうのだった。そんな中俺は変なことが気に掛かった。心がのぼせているため何一つ躊躇せず途端寅三に尋ねた。
「なあ寅ちゃん」
「うん?」と足の垢を熱心に擦りながら寅三は俺を見た。
「いやな、年が明けた瞬間、しらたきは一体誰の顔を最初に見たんかなあて思てね」
「きひひ、うーんそやなぁ、ちょう思い出すさかい待っててや」
俺は寅三の顔に目を凝らして返事を待った。
その時、弥五郎が「わいも入ってええか」と言い狭い湯船に入ってきた。「そんなご無体な」と言うに弥五郎は出て行ってくれないので俺は足だけを浸けて湯桁に腰を掛けた。寅三が急に声を上げた。
「あっ」
「なんや」と俺が聞くと寅三は半笑いで「あーそうそうそう、確かね、あっちの方角やろ、あーあーうん、間違いあらひん」
「なんが間違いあらひんね」
「熊やんの家の方角見とったわ、確か、しらたきちゃん」
「ほんま、ほんまに、ほんまか」と俺は声が弾むまえに幸福感で満たされて低い声で何度かそう確かめた。酷く曖昧模糊たる寅三の記憶に俺は満足してしまったのである。阿呆やん、阿呆やん、完璧て自分でも思ったが、それは俺の体の表面をなげえこと蔓延らせしめていた垢が散り散りとなって俺から飛び離れていきよった、ことで俺を同時にせしめていた虚勢なるものも程なくしてチリヂリ、と啼いて湯に溶けていったのだろうか。知らんけれども。
身を清め終わると三人は風呂屋を出た。出た時の体に当たる寒風の寒いの寒くないの、って寒かったから、ああこれは湯冷めをするなと思って湯冷め三昧で恵方詣りとなる。まあ正月のっけから風邪でぶっ倒れてしまうのも面白いのかもしれない、弥五と寅三は気にしない風だから俺も気にせず向かうが、俺は歩きながら風呂から上がったときによく、ゆじゃめ、ゆじゃめとしらたきと走りまわしながら言っていたことを思い出して懐かしくなる。
それはそうと風呂屋から出たら寅三が手拭を鼻の下で結んだ盗人被りをして歩いているから「それはいったいなんの真似やね」と聞いたら「ふふん、わいは今から義賊になんねんてゆうのんは嘘やでん」と言うから「やねん、とやでが一緒なったあるね」と云うと「そう、一緒んなたさかいわいはもうこうする」と言いこんだは鼻から下を全部覆った鉄火被りをした。弥五がそれに「もうそうなったらこれをこうしたらええんちゃうけ」と手拭を寅三の目の部分に巻いて後ろで結んだ。
「あれ、暗いなあ、おかしいなあ」と言いながらふらふらして歩いているのを後ろから見て俺と弥五郎はかははと笑っていたら、後ろのほうから突然「城戸はんやないですか」と声を掛けられて、俺はびっくうっとした。あ、この声はまさか、と思ってたじろぎながら振り返ってみれば、そこにはなんとも華やかな晴着を着せてもらってきょとんとした顔のしらたきがおった、とその隣には壮健に恭しくも泬寥ほとばしったというようなあの辰次郎が立っていたので俺は驚いた。そしてその周りにも誰か松河の者がおるかと見渡したが、誰もいてなかったことに俺の少しく上がって来ようとしていた内海域が一瞬にして退潮みたいな感じになった。て、ことは、この二人は、二人で恵方詣りに向かおうとしているのか、もう既に参った帰りなのか、二人で、何で二人で、また、と俺は情けないほどに銷魂して、辰次郎の存在に圧せられて倒れ臥す心境になった。
「ああ、やっぱり城戸はんでひたか、いやぁ、お久しゅうございました、お元気でいはられましたか」と気取りなく声を掛けてくる辰次郎に俺は息を詰まらせるようにして応えた。
「やあや、ああこれはこれは、辰次郎はんやおまへんか、久しいもんでんな、いやあ、わいは元気でおりまんなあ、ははは」
「そりゃあよろしいことです、あ、もしかして城戸はんもこれから恵方詣りへ行きなさるか」
「あ、ぅいやぁ、そうでもないでんねん、まあ新年の中をぶらぶらとしておったんでふわ」
「左様でしたか、ほなお邪魔となってはいけませんね、うちらはこれから詣りに行くところなんです、ではまたお会いしましょう」
「へえ、さいでんな、ほなまた」と俺が返すと辰次郎は俺と弥五郎、後ろのほうにいる誰なのか分からない変な男に向かって会釈するとしらたきの手を優しく引いて通り過ぎて行った。しらたきはどうしてかずっと俯いていたので、目を合わす閑もなかった。突如投げられた投網に捕まって惘然となっている魚のようになった俺に海にいる仲間が呼びかけた。
「兄貴、誰やねんあの男、しらたきの手ェ握っとったど」しらたきの手を握っとったど、しらたきの、手を握っていた、握っていた、俺のしらたきの手を、と頭で復誦しているとやがて漁師の手が俺の体を握って捌くかとするから、俺は弥五郎と言う弟魚に応える。
「うん、あの人はな、寅三の兄でな、辰次郎っちゅう人やで」俺は必死に頭の中で身悶えた。捌かれたくない、何故なら捌く漁師の顔が辰次郎に思えてしまうからで、俺は海へ戻りたい、帰りたい、しかし待てよ、しらたきがいるのはどこや、海か、それとも、この漁師の家か、漁師の別の網の中だったらばどないする、俺は助けに行かんければならん!と俺は俎板の上の鯉から化して、なにになるのがええのかと思った俺は何故か俎板に乗った鰤が浮かんだ、ただ少し大きくなったというだけで、これでは捌かれるに違いない。
「ほおー、寅三の兄貴か、寅三も兄貴分おったんやな」という弟魚にずっと後ろを向いておった寅三という魚が来て「ちゃうがな、わいのほんまの兄貴やちゅうねん」「なんや、そうなんけ」と興味ないような弥五魚。やごうお。
「ああー、ばれんでよかたわ、ばれたらええことないさかいの」
「なんでばれたらええことないねん」
「いやあ、なんでてわいと熊やんが連んでんのんうちのもんィ見つかたら親が口喧しいなるんわあってるんや」
「しゃあから手拭かぶて顔隠しとったんけ」
「そうでんがな、弥五ちゃんさすが話しわかる男や」
「まあなんでもええけろも、兄貴がさきからちょうおかしないけ、なんやぶつぶつゆうとる」
「うん、熊やんおかしなったな」
弥五郎と寅三が話している間に俺はいくら考えてもええ魚になれんかった。俎板にのった太刀魚、俎板にのった笠子、俎板にのった昆布、若芽、俎板にのった鉄鎚、俎板にのった黒豆、俎板にのった元徳、後醍醐天皇、俎板にのった活力、俎板にのったらてんてこ舞い、俎板に乗った普遍。だんだんと変なものが俎板の上にのるので、もう俺は疲れ切ってしまった。俺は漁師が他の僚船に呼ばれて顔を上げるを見計らってぺちぃっと飛んでちゃつぽんと海へなんとか掻い潜ること成功。仲間のいる海へ戻ってこれた、夜の海、暗くさぶいのだけれども。
「さっ、ほな行きまひょか」となんでもない振りをして、道を進んだ。「おうっ」と寅三と弥五郎が地面を蹴る音はまるで韻を踏むように響く。
おれのぢごくに、冬篭り、という言葉が何故か浮かんだ。まったく韻を踏んでいない。
天体の出没を、地獄にて待つ。というのも踏まない。待ちて。金の松が殪れる方角を踏んではならぬ。踏んで待つ。待つ河。俺は踏んでいる方角を危ぶんだ。