天の白滝 五十四

自失したようになって日を過ごしてゆき、気づけば、もう一年の最後の日、大晦日となっていて、一年が経つのは早いなあ、とか、一年あっちゅうまやね、とか人々はよく言うけれども、俺はこの一年というものを振り返ってみると、一年前、というのがものすごい昔のことのように思える。この一年確かにいろいろあった。いろいろあったので長く感じるのか、というとそうでもないと思う。のは何故か。それは俺は時間というものがよくわからなくなってしまっているからである。時間を感じることが難しくなっている、のはいつからかというと家族をこの手で殺めた日からで、ずっとそんな感覚で生きてきたが、それもしらたきを拾ってからは何か違う感覚へと変わってきたように思える。若干、時間が過ぎていくこと、季節が代わる代わる訪れることを少しは身近に感ぜられて来たようだ。しかしそれでも完全には戻ってきていない。そんなだから一年が過ぎたなあ、となってもそれは俺以外の場所で起こっているように思えて、俺の中ではあの日から時間が同じところに存在していて、その止まった時間の俺の世界にしらたきはばまりこんで来てくれたような気がするのである。決して、俺からしらたきのいる正常な時間の中に、入り込めた訳ではない。しらたきからきっとやってきてくれた、俺のところに、俺はそう思っているのだが。しらたきは、そんな世界はやっぱり嫌だから俺の世界を離れていってしまったのかもしれない。時間が正常に流れてくれないことは人間にとって苦しいことだからだ。その苦しみをしらたきは感ずる日々を俺の傍らで過ごしていたのかと思うと、可哀想でならない。これでよかったのではないか、しらたきは俺の側を離れることができてよかったのではないだろうか。俺と過ごすだけの世界よりも、俺なんかのことを忘れてしまった今の世界のほうがずっとしらたきにとって幸せじゃないのか。もし、俺が親なら、しらたきの親なら、しらたきと二人で暮らせることばかり願うのはおかしい、子はいずれと親のそばを離れ巣立って行くのが至当であって、子がいつまで経てども親の元を離れないと親は子の生い先が心配で心配で俺が死んだ後、こいつはどうなってしまうのかと夜も眠れないてなことになるのが至極当然だが、俺はそうゆう親としての気持も勿論ある。俺が死んだ後にしらたきが変な奴にそそなかされたりしてみいな、俺は彼の世からでもそいつをぶん殴りに行きたい想いである。しらたきと離れることが考えられん、今現に離れている。
そんなことを考えながらも漠然となって、腹が減りすぎてぐぎゅうと締め付けられる。もう後数時間で年が明ける。俺は何をすればいいのかと思ったが、そう言えば長らく風呂屋に行っていない気がしたので、そうだ風呂屋にでもいてこませばええのかと思い、のそのそと動き出して外へ出た。
除夕に何をすればええのかわからないというのは悲しいことだなぁと思うが、そんなものはどうでもええ悲しみであって、それどころやないんや俺は、と思いながらもやはり風呂に入って身を清めて年を越したいと思っている俺は小さいと思われそうだが、それは違う、俺は何をすればええのかわからなかったから風呂屋に行こうと思っただけであって平俗の慣わしと一緒にせんでくれ、そう思った俺が風呂屋へ着いて、さぶいからはようあったまりたいなぁって風呂屋を見るともんのぎょうさん人々が前に列伍しておった。くわあ、ごっついことならんどるわ、みんな考えることはおんなしやな、身を清めたら一年の厄は落とされると本当に思っておるのか、落としたところですぐつくがな、阿呆やな、ははは、と心で笑ったが風呂屋にすぐに入れないことはものすごい残念になった俺は、並ぶのは嫌なので、どないしょうと思って、蕎麦でも作るか、それとも食いに行くかと悩んだ。ああ、俺は小さい人間やなぁ、蕎麦を食ったところでしゃあないのんに、でもさぶすぎるから体をあっためたいと思いふらふらと蕎麦を探して歩いた。しかしやっと見つけた蕎麦を食わしてもらえそうな店を覗いても大入り満員と、またここでも待たなくてはならんのかと思い、待つのは俺は嫌だからと、結句もう蕎麦なんか食わんでええわ、酒がありゃあわしはええんじゃ、阿呆ン鱈と投槍になり暗くて寒い住家へ戻ろうとした。が、俺は引き返して今し方通り過ぎた神社に二年参りをしようと突として考えが変転し神社へ行った。まだ時間が少し早いからか人は誰もいてなかった。
厳粛成る神域に入り神殿の前で俺は手を合わせて目を瞑った。目を瞑って手を合わせるだけで終えた。
何かが次々と奪われてゆくような気がした。何故神社へ来てそんな思いにとらわれるのかわからない。悲しいことであったが俺は自分の足というものを持たんければならん、どうゆうことか。しらたきを諦めろと神は言っているのか。俺は神殿の暗闇の奥を凝視すると「諦めません」と声に出してはっきりと誓った。
今夜も酒飲んだ暮れて寝よう、とそう決めて住家に着いて戸を開けたら、土間で竈の前を行ったり来たりしている弥五郎がおった。
俺の顔を見るなり「おおー兄貴ぃ、おかえりぃ」と嬉しそうな顔を向ける弥五に近づいて「弥五おまえ来とったんかいな」と返し、それならもっとはよ帰ってきたのにと俺は弥五と顔を合わし、でも嬉しいなという気持が込み上げてきて「弥五、おまえなんしてんや」と聞いた。
「決まっとるやん、蕎麦作てんがな」
「おお、蕎麦か、ほなわしも手伝うわ」とゆうて袂をまくり上げて弥五が買ってきたものを見ると芝海老が入ってあった「お、芝海老やん、海老天蕎麦やね」と言って海老の下拵えにかかった。
海老の殻を剥きながら俺は楽しい気分になってきて思ったことが全部口からこぼれていった。
「しかし来てくれておおきにな、蕎麦食いに行こかおもたんやけろもどこも一杯でな、もう酒飲んで寝たろかおもてたんにゃ、あ、しゃあけろわれこんな日はあれちゃうん、照と一緒におったほうがええんちゃうんか」そう言って蕎麦を湯掻いている弥五郎の顔を見ると一瞬寂しげな表情になって「ああ、照は今日は馴染客の相手するんやて、わいずっと前から約しとってんけろな、ってそんな話はもうええねん、はは、それより来てよかたで、兄貴ひとりィさすほうがわい嫌やさかい」と明るく言うので「そうか、俺はひとりでも屁の河童やゆうたら、まあ嘘や思う?」となんでか弥五郎に問うてしまった。
「はは、嘘やな」
そう言われて俺はほーっうという顔をして「おほほん」と笑って海老に衣をつけた。
そうやって二人して年越蕎麦を作っていると出来上がる前に除夜の鐘が鳴り響いた。
ぼおーん、ぼおーん、ぼおーんと鳴る鐘の音を聞いて「ほほ、間に合わんかたな、まあええか」と弥五郎がいうに応える。
「はは、年明けたな、あけまっておめっとさん」
「兄貴あけまっておめっとおさん」
そうして出来上がった年越蕎麦を二人で食らった。
弥五郎は「ええ酒買うてきたで」と買ってきたという酒を持ってきて俺の湯呑に注いだ。
俺も弥五郎の湯呑に注いで湯呑をあわし新年になった夜が深まる中に二人で飲んだ。
美味かった。一人で飲んだ酒とは比べ物にならんくらいに美味い酒であった。俺はまだしらたきと一緒に酒を飲んだことがない。あ、あったわ、そういえば、いつの正月やったかな、しらたきが俺が酒をあまりに美味そうに飲んでいるので「ぼくもそれ飲んでみたい」ゆうからちょびっとだけ飲ましてやったらば、しらたきはあいつはどこかおかしいのだろうか、飲んだ瞬間に確か、茶碗は引っ繰り返すわ、漬物を壁に投げつけるわ、俺の頬を痛いとゆうてるのにびいーって何度も引張ったりして変になってしまったからもうそれからは飲まさないようにしていたのである。小さい童子に酒を飲ますとあんなことになるのだろうか。しかししらたきはどういう訳か成年となった。しらたきどないしてるかなぁ。初めて別々に離れて違う場所で年を越した。


天の白滝 五十三

気が付けば、朝か午が来ていた。喪失の朝だ。喪失感が一定を越えたとき、次の朝に必ず訪れるとんでもない朝で、悲しみが大きすぎるため、この日常当たり前に起こる現象さえも受容することを脳が拒絶する、朝がやってきたことが堪らなく残酷なことに感ずる感覚の中に打ち拉ぐことしかできない絶望なる朝。今までに何度か味わったことのある感覚で、それは決まって朝起きた時に襲われる。一度目の朝は、家族を殺した次の朝だった、二度目の朝は、しらたきが忽然といなくなった日の次の朝、しらたきが旅に出た日の次の朝も若干あったような気がするがそれよりしらたきを探すことに只管であったから直に立ち直ることができたのだろう。
全身が不快物の塊に貪られているようだ。蒲団を見ると蒲団が惨澹なことになっていた。寝ながら嘔吐したようだ。甚だしい吐き気がする。俺は口を押さえながら裸足で外へ駆け出した。
戸を開けた瞬間、何もかも真っ白だった。外にあるあらゆる像の上に白いものが積もっている。雪原、そう思った瞬間俺は白銀の上に吐した。ほとんど胃液で血の混じった血反吐であった。吐きすぎてまた咽を切ってしまったのかもしれない。心が悲しみで飽和した俺は雪を見ても何も感じることができなかった。しかし白い雪上に俺の汚い反吐が乗っかっている事は、俺に著しい憎悪を起こさせ、俺は横から雪を掻き集めて来ると吐瀉の上に乗せてそれを隠した。隠したところで雪の下には俺の血反吐がある、それが居た堪れなかった。しかし全身中がおもぐるしく痛かったので、そのままにした。いったい昨日何をしたのか俺は、記憶が完全にぶっ飛んでしまっている。今日は一日安静にしておくしかない。俺は水をがぶがぶ飲むとぐたっと蒲団に横になろうとして、やっぱり思い直して、気持ち悪さと鈍痛と絶望感の厳しい中濡らした手拭で反吐を拭って洗うと、ばたっと倒れるようにして寝込んだ。
といっても寝られない、こんな中眠れないのは本当に苦しい。
寝られないでいると何も映らない景色が一瞬見えた。その景色を見ている俺ってなんなんやろうと思った。人は何から始まり、何で終わろうとするのか。遠くに篝火みたいなのが見える。けどそれ以外が全部闇で、そんな場所でも人は生きてゆけるのか。その篝火はいつまで経てども篝火のまま、どんなにその小さい灯に向かって歩いても走っても届かない、それとも走ればなんなく届いてしまったが、篝火の側から辺りを見廻した時、周りは真っ暗闇、どちらがええと思う、篝火がなんなのかによってそれは意味が多分と変わってくる、篝火は何か解らない得体の知れないものなのか、それとも人がその光ひとつ知るならどんなに不幸でも生きてゆくことができる光なのか、それがわかればええ、それだけがわあれば。
俺が手にしたものは、信じられないほどの明光だった。俺にそれまで与えられていた宿命、孤独、堕落、暴力、絶望、虚無、罪、それらはどのようにして暗転してゆくのか、神に試されていたのかもしれない。
俺は明光を手にした、透かさず手にしていた、飢え切った猿がきしきしっと鳴いて我のもんじゃいと叫びながら目にも留まらぬ速さで人の手から葡萄の実を盗み取るように、俺は気付や、この腕の中に嬰児のしらたきを抱いてあやしていた。
それから少しずつ、俺の中にとめどもなく流れていた滂沱たる赤黒い血が時にあやすくらいにまでなったことは確かである。それが、やがて止まるかもしれないと俺は思っていた。阿呆すぎる。しらたきはいつまでも俺の側にいてくれると何処かで思っていたのだ。
畳の上に置かれていた一升瓶が目に入った。昨日、俺がしたこと、話したことを思い出した。
白い坂を滑ってゆこうとする。一度滑ったらもう止まらないだろう、何故ならその坂は雪の坂であるから。止まろうにも止まれない。その坂を滑っていったらどこへ行くのか、しらたきとはぐんぐん離れて行ってしまうのだろう。昨夜、俺はその坂の頂上に立ったような気がする。俺の背部には何があるのか、それはわからないけれども。わかるのは、俺が破壊してしまったものは、おっさんの前歯二本でもなく、丸太ン棒を持っていた男の肩甲骨でもない、俺が破壊したもの、それは俺の未来。俺の時間、俺としらたきの時間、それが木に激突した雪兎のように粉々に砕け散って元通りにすることが不可能となった。気がしてしまう。しらたきは俺ではなく、松河絹と松河源次郎を選んだ。しらたきは俺の娘ではなくなって、松河家の娘になった。もう俺のところへは帰ってこない。
吐気がまた上がってきたがもう吐きたくないと思い唾を飲み込むと吐気がしずまるような気がして唾を沢山飲んだ。そうして少しの眠りに入った。
家族みんなで御膳囲んで楽しそうに飯食っている。俺は成人していて、しらたきがそこにおる。ちびっこいしらたきがおる。みんなで何がそんなに楽しいんだろうか、みんなで飯を食うだけのことがなんでこんなに楽しいんだろうか。おかしいなぁと思いながら俺も笑っている。しらたきも嬉しそうにけらけらと笑っていて、俺の親父がそんなしらたきを抱っこして膝に乗せる。孫の顔を見せることができてよかった、と俺はほっとしている。間に合ってよかったと思って心からほっとしている。
目を開けたら真っ暗だった。目から熱いものがいきなり溢れてきて次々に耳の中に入ってくる。耳が満水となっても俺は横を向くことも出来なかった。俺はやっと横を向くと子供のように咽びながら声を出して泣いた。
その時戸をガラっと引く音が聞こえて「熊やん?」と寅三が入ってきた。俺は吐気はなくなったが鈍い痛みは変わらない体を起こすと行灯に火を点した。
「熊やん寝とったん」と居間に上がってきた寅三に向かって「うむ、昨晩ちょう飲みすぎてもうてな」と洟を啜りながら応えると「そうなんか、外えらいどか雪やで」と言いながら寅三が俺の顔を近くで見ると驚いた顔をして言った。
「熊やん、その顔どないしたん」
「ん、なに」と俺はとぼけた振りをした。
「ごっついこと腫れとるがな」
「うん、ちょっとな、酔って猿らと遣り合ってもうて」
「山におるあの猿?」
「そうや、てちゃうよ、博奕場におる猿」
「ほんまか、うわぁ、痛そうやなぁ」と寅三は俺の顔を嘗めるようにして見るから俺は「うん、痛いけろまあ大丈夫や」と言いながら顔を逸らすようにして火鉢に火を熾していると寅三が懇ろに聞いた。
「熊やん、なんかあったんか」
寅三は普段はへらへらとしておる男だが、人のことを良く見ているというか洞察力に長けているところがある、とそういえば昨日の寅三も俺を見て心配そうな顔をしていたし、俺の変化を素早く感づいて心配してくれていたのか、と俺は少しく慰められる気持ちになった。しかし俺はそんな親身になってくれる寅三に対し本当のことを話すことをとつおいつ躊躇った。俺は決してしらたきとまた一緒に暮らすという望みを完全に諦めた訳ではない、だが俺の今日のこの底なしのような喪失感と絶望感は俺が諦めたということを裏付けているとしたら、俺の中に甘受されたとされているであろう事が俺以外の者にそれを話すことによって俺の中だけで行われていた諦念甘受されたしという判を押されたような観念が俺以外の者によって象徴されたる事になってしまいそうな気がして俺は話すことが出来なかったのである。
俺は返事をまっている寅三に向かって言った。
「いや、なんもあらひんねけろ、ただこの師走っちゅう時期がなんや追い込まれてくるような感じしてしんどくなてまうねんな」
「そないか、それやったらええねんけどさあ、熊やんてなんや一人でもんのすごい抱え込んでるんちゃうかおもてな心配になってね」
「そんなこともないねんけろな、すまんな、いらん心配かけてもうて」
「ええてええて、そのうちわいもごっついな心配さしたるさかいゆうてな、ははは」
「ははは、ほな頼むわ」と俺はいつか途轍もない心配をさせてもらうことを寅三に頼んで、今日は俺もう酒飲まれんで呑み屋行けんですまんと謝ると、んなんええがな、しんどいならほなまた寝とくかと聞かれ、一人は辛いと思ったので、なんか部屋で遊ばへんとなって、ほなまた賭け事を、つって乗せられて賭碁をすることになり今次は俺が大いに負けて、次は勝ったんでと言いながら顔では笑っているが、胸はずっと苦しくて心の中は塵色の雲と地の間が五尺ほどしかない雪砂漠のような場所に俺一人ぽつんと立たされて、胸から上がこの世にない、という気味の中に、在って。


天の白滝 五十二

しらたきをずっと抱っこしていると全身にしびれがきだしたが、それでも下ろすのは嫌だからとその体勢を保っていると、一眠りした、という顔でしらたきが目を覚ました。俺は慌てて顔を逸らした。泣き腫らした目をしらたきに見せてはならない、どないしょうと思い、しゃあないと俺は水辺から上がってきたイヌのようにぶんぶんと頭を振って、むさ苦しい前髪を前に垂らし赤い目を見えづらくした。
「よう寝てたな」と言うとしらたきは「うん」と言って「ぼくもう帰らんといかん」と体を起こし俺の膝から退いたので俺としらたきとの間に空隙が出来てしまった。それだけのことで俺はたまらない苦しみを覚えた。
「ほな送ったるさかい、帰ろか」と俺は立ち上がって丹前をしらたきに着せて戸を開けようとしたとき、しらたきが「くし」というので俺は花櫛を持ってきてしらたきに渡した。しらたきはそれを大事そうに着物の襟の中へ仕舞った。しらたきにこうして何か買ってきてやるというのは俺はあまりしたことがこれまでなかった。しらたきは珍しく何か買うてきてやったら物凄く喜んで大切そうにしてくれる。それを不憫に思うこともあったが、なんでもかんでも与える養育を俺はしてこなかった。それは俺が親父がたまに買うてきてくれた俺への玩具などがたいそう嬉しかった記憶が残っているからである。子供の俺は感じた、収入の少ない親父が切り詰めた銭で買うてきてくれた玩具はいかにも安そうな玩具であったが、その価値はどんな高い玩具よりあると、心の底から嬉しかったし、飽きてほったらかすようなこともなくずっと大事に扱ったものだ。しらたきにもその喜びをわかってほしかった。だから俺は滅多に物を買うてきてやることはなかった。だから着物とかでも、全部近隣でもらったお古などを着せていた。しらたきは文句のひとつも言わなかった。それが今ではどうだろうか、きっと富祐な松河家では、これがいいわ、やっぱりこれなんかどうかしら、などとまるで人形のようにあれやこれやと照合されてはまた別のものをとっかえひっかえ着せられているのではなかろうか。それではしらたきが可哀想である、それに物の値打ちというものが分からなくなってしまう。
そんなことを考えながら、俺はしらたきと夜の野道を歩いていた。
「星がいっこも出とらんなぁ、あいたは雨かもな」
「雪は降らんのん」
「さぶすぎたら雪が降るなぁ」
「さぶいと雨が雪なるんはなんでや」
「なんでやろなぁ、あれちゃうか、人もさぶすぎるとさぶすぎて動きたないって思うやろ」
「うん」
「しゃあから、雨も同じで、さぶすぎてもう俺たち動きたくありませんて思って、ほんで固まって雪になってまうんちゃうかな」
「ふーん」
「たぶんそうとちゃうかなぁ」と俺はこの同じ話をしらたきが小さいときにしたような気がしたが、しらたきは俺から教わったこともすべて忘れてしまったのだろうか。
俺としらたきの吐く息が白く目に見えて、それはまるで俺の魂としらたきの魂が口から外に出て魂同士で喋ってるみたいな状景が浮かんだ。代わりに冬の夜気が口の中へ入って来て体内にじんわりと浸透してゆく。
「しらたきさぶないか」
「これ、あたかい」しらたきはそうはゆうが、変にさむがりだったから、きっと手足はかじかんでしまっているに違いない、と俺は心配してしらたきの手を握ろうとした。しかし俺の左少し後ろを歩くしらたきのほうへ差し出した手をすぐに引込めてしまった。て、これじゃ前に見た夢のまったく同じではないか。しらたきの手を握りたい、握ってあっためてやりたいと思うのに、なのに握ることができない、なんでなのだろう、悲しい。するとしらたきがか細い空気の中にさらわれて今にも消え入りそうな声で呟いた。
「ぼくのじんせい、ないような」といいかけた時、前から「熊やん」と呼びかけられた。
寅三であった。俺はくわわわわ、と思った。寅三が声をかけたせいでしらたきの言葉が最後まで聞き取れなかった。一体何を言おうとしていたのだろうか。寅三がほっとしたような顔で走り寄ってきた。
「しらたきちゃん、熊やんと一緒におったんか、安心したわ」と息を切らして言う寅三に俺は迷走的な気持で応えた。
「偶然、近くで会うてな、今から家ィ送りィいくとこやたんや」
「そうだんね、うちのもんがみな血の気引いたよな顔で探し回っとってな、ははは、まあわいは多分熊やんとこおるんちゃうかおもて熊やんち行くとこやってん」
「ほうか、そら入れ違いならんでよかったな」と言いながら、なんで入れ違いになってくれへんかったんや、とこの偶合をのろうた。
「せやが、熊やん、しらたきちゃんと一緒おるとこうちのもんィ見つかるとよろしないね、今以上の堅牢の門になってまいよるわ」
「せやね」と言いながら俺は身を切られるような感触になった。
「またこうゆうことあたら、わいを呼びィ来てくれたらええね、そしたら迎えに来るさかい」
「そやな、おおきに寅ちゃん」
「ほな、しらたきちゃん連れて帰るわ、あ、あいた熊やんち行くさかい、日没あたりかな、飲みに行こうな」と気前好く言う寅三に手を振って返し「おう、ほな待っとるわ、気ぃつけて帰りや」と二人が歩き行くのを見送った。最後にしらたきと一目合わした時、俺はたまらなかった。だんだん遠ざかってゆく、しらたきと寅三の後姿が闇に消えてゆく、俺は振り返らないだろうかとしらたきの後姿を見送っていたが振り返ることなく寅三に手を引かれてしらたきは見えなくなってしまった。
俺はこれから寝られるまでに何をすればいいのかと思った。ただ酒を痛飲するのではこのたまらない愁傷、喪失感は弛んではくれないだろう。こうゆう時に仕事があれば人は救われるのだろうか。しかし俺には不幸にも仕事がない。そこらの田や畑の雑草たちをすべて奉仕の思いで引っこ抜いて回ればよいだろうか。俺などに引っこ抜かれた雑草たちは哀れである。俺がするべきことが何一つない。俺は出家するべきなのだろうか。そう思いながら、やっぱり博奕しに行こうと思い博奕場へととぼとぼ足を引き摺る様にして歩いた。博奕場なら大勢の人間にまみれていくらか気が紛れるかもしれないと思ったのだ。俺は途中に一升瓶を買って行った。
一升瓶をぶらぶら提げて呑みながらふらふらと歩いて着いた賭場で、俺は自棄の弥ン八となり酒をがぶがぶ呑んで飲んで銭を張り張倒して行った。気付くや二十五円勝ち取っていた。しかし俺は今日は勝つ為にやっている博奕ではなく、博奕に集中してほかのことを一切考えないためにしているだけだから負けても別によかった。酒でほてり狂った脳を垂れ流す、汲み取り式の厠のように流した脳は博奕場の暗くて狭い空間を漂って行き場がないのでまた自分の頭がそれを汲み取って脳の中に戻ってきてまたそれを脳から垂れ流すのを繰り返しているだけである。
その脳には銭、賽子、壷ザル、四匁蝋燭などしか映っていない。人間を脳内から根絶させようとしている。ある不安は但一つ一升瓶の酒がもうちょいでなくなってしまうということに俺の脳がきりきりきりと鳴く。ぶっ倒れる寸前のような気もする、早く打っ倒れたい。俺はここで打っ倒れてしまったら俺を家まで送り届けてくれる人はいそうにないし、いたとしても俺が気絶してしまっていては誰が俺の家の場所を説明するのか。てことは俺は明くる朝までここで気絶したままで凍え死ぬということも考えられる。そうならないうちに去なねばならん。と俺は「ほな、おいとまを」と言いかけたその時である。
俺の左側向こうのほうから「胡魔化ししとんちゃうけ」と言う声が聞こえた。明らかに悪意のこもった言い方であった。俺はその場にぬっくと立ち上がるとその声がしたほうを振り返って「われ、だれィゆうとんね」と言った。舌が半分回っていなかった。すると一人の知らんおっさんがにやつきながら「ひょひょ、地獄耳やのぅわれぇ、誰のことやて一人しかおらへん、のっ」と皆に同意を求めるように言った。「前回も見とったけど、そない勝ち続けるんはなんか胡魔化しでもせなおかしいちゅうとんねん」とそのおっさんの言い方が癪に障った俺は「ほな俺がどうゆう胡魔化ししとんか説明したってくれへんけ」と俺は立っているのも難儀であったので、恫喝も含めそのおっさんの前にずたずた寄っていき、その肩に腕を回して凭れ掛かりたかったので俺はそうしながら「おい、はよ説明したれや、俺に」と言った。するとおっさんは思い切り腕をぶんと振って「んなもんわしが知るかあっ」と言ったそのおっさんの振り解こうとした肘がまともに俺の顔面中央に直撃して一瞬何が起こったのかよくわからなかったが、顔の真ん中部分に激烈な痛みを感じて俺は鼻の下を拭うと手の甲に鮮血がぬらと付いた。それを見た俺は体内を流るる血がいっせいに沸騰したようになり、その瞬間にはおっさんの顔面を思い切り殴っていた。打っ飛んだおっさんの顔面も血だらけになっていて、元からないのか俺が殴って折れたのか前歯の二本がない間抜けな顔で「ひいいいいいぃっ、痛いぃ、歯が折れた」と言ったので、あ、俺が折ったんや、と思いながら続けざまにおっさんを打ん殴ってやろうとしたら周りのもんに後ろから、横からと止められて関係のないもんまで頭突きまわして「おまえもか」「おまえもか」と言いながら全員掛かってくる奴らを滅茶苦茶に撲り倒していると、しまいに全員から思い切り足蹴り、どこから持ってきたのか丸太棒でおもくそ脾腹を撲られるなどして、俺は激しい痛みのあまり小さくなって頭を抱えて丸くなった。撲られ蹴られながら俺は思った。いつもこうだ、相手が間違っていて俺が正しいのに誰も俺の味方となってくれる奴はいない、俺の言うことを誰も聞いてくれない、俺は胡魔化しをやっていない、俺は暴力というものが本当に嫌いだがあえて暴力の恐ろしさを見せ付けて暴力が大嫌いだということを言いたかったんや、暴力はこんなに嫌な気持になるものなんだとみんなにわかってほしかったんや、なのにこいつらときたらなんもわからないのか、俺がおっさんを撲って清々しているとでも思っているのか田沸けども田でも沸かしとけ、俺は暴力を信じない、俺は暴力を信じない、俺は暴力を心から憎む、そう思いながら俺は側にあった一升瓶を掴むと丸太ン棒で撲ってくる男の肩に振り上げた。その時逆さになった一升瓶から残っていた酒が俺の顔に降り懸って酒が鼻の中に入り激痛を享受した、惠の激痛だ、俺は肩を撲られ痛みで転げ回っている男の横で一升瓶を持ってのそっと立ち上がると「どたまかち割られたい奴来んかあ」と力無い声で言った。みんな黙って退いて様子を伺っている。「おい、なんや目ェがいっとんど」「やばいどこら」と口々にぼそぼそ言っているのが聞こえる。
その時俺の視界に横なぐりに細かい雪みたいなものが吹雪きだした。俺は知らない間にみんなに向かい落ち着き払ったように話し出していた。
「もう、猛吹雪がやってきまして、さぶいったらありません、凍える?ノン、そんなのとうに超えてるんです、だから吹雪いてまんねん、でもそれは真横に吹いているくらいの激しい風雪です、そこへ飛んでくるものがたくさんあるんです、例えば食卓に並んだ酢醤油の瓶なんかも勿論飛んできますけれども、まあそれはいいとして、俺が見たのは、雪兎が見えたね、なんでか、小さい誰が作ったかわからんのだが雪兎が真横に飛んできてんね、むっさ速い、そりゃ速いよ、風速がなんせ凄く凄く速いから、雪兎が風速で真横に飛んで行き林の中を神速して樹に激突したんや、どうなるかおまえらにもわかるやろ、雪兎は粉々に成り果てたんや、それがどうゆうことかおまえらにわからんか、雪って脆いっちゅうことや、もろすぎんねん、もろいからなあ、雪は雪なんやで、おまえらは今そんな雪景色の向こう側におる、その懸隔の中間は美しい雪景色やゆうから皮肉やね、おまえらは醜いし、俺も醜い、その中間をものすごい速さで走って行って死んだ雪兎の気持は量り知れんて思うね、誰が殺したかわかるか、俺とおまえらや、俺とおまえらの暴力が白い雪兎を殺してもうたんや、それを俺に伝えたかったから俺にこんな吹雪く景色を見せたんや、俺らが暴力を駆使したそこで苦しんで死んだんか、苦死か、櫛の形そういや雪兎の形やったなあ、その形を壊したんだよ、おい、てめえらわかってんのか、なんとか言えよ、おい、壊したら元通りできねえんだよ、おい、こら」とだんだん声が荒くなってきたら、横から伊達の褌ちゃんが「もう今晩はここらで退散しいひんか」としんどそうな声で言った。俺はそれに反応してまた話し出した。まだ肩を撲られた男が俺の横で「いてえよお、いてえ」と言っていた。
「たいさんか、おまえらは胎散すんねやな、そうやって胎内に散らばろうとする、胎児になってまた行きたいところへ行こうとする、胎内は騒がしい、俺は探すんや、そう、胎内は雪原の如く白いからおまえら逃げてもすぐ見つけてまた撲ったる、散らばりたいだけ散らばればええさ、ええさ、俺はおまえらを引き戻したるさかいな、散らばってもな、無駄やで、そやさかいな、俺もな、散るわ」と限界を感じた俺が言うとふらつきながらいつの間にか下ろしていた一升瓶をまた持つと「空やわ」とびびった顔で俺を見ていた狸の豆やンに向かって言って一升瓶を置くと、俺は博奕場をいんで寝所へ生ける屍のようになって歩いているのかよくわからないまま帰った。
寝所に着くと俺は蒲団のあるところまで這ってってそのまま失神した。


天の白滝 五十一

俺は、家族を殺すために生まれてきたのだろうか。
俺が生まれんで別の人格者、別の人間が生まれていたら、多分家族は殺されずにすんだであろう。
何から始めたらええのかな。しらたきに会えないと何から始めればええのかさえわからない。しらたきは俺に会いたいとも思ってないのだろうか。何故こんなことになってしまったのか。この世界はわからないことだらけだ。もしかしてあれか、俺が平穏を恐れるようになったのは平穏の暮らしには必ず幸福感が必要になってくるからという理由もあった、俺は家族を殺してから自分が幸福になることを恐れていた、幸福を求めてしまうのは人間の性だから恐れながら俺は求めてもいたのだが、やはり怖かったから、幸福来んな、俺んとこには来んでええ、という存念で生きてきたが、それはしらたきに出会うまでの話であって、しらたきを拾ってからは仕合せになりたいなぁと思って来た俺は、しかし神はそんな調子のええことをほざくなかれ、と俺に間断なく平穏を訪れさせないように奮闘しているのかもしれない。だとしたらちょっと待ってください、と俺は言わなければならない。言いに行こう。どこに言いに行けばええんにゃ。近くに小さいが祠があったな、言いに行こう、もう。思い立ったが吉日である。これはきっと夕飯を食うて、ちょこっと酒を飲んでええ気分になってからいてこましたればええか。では、夕飯食うてからは凶となる、みたいなことになる。それにこの前伊勢で寅三が言っていた満腹で神の前に現れてはならない禁忌のような事は俺は結構信じてしまう、信じていてもすぐに忘れて、行ってから、あっ、しもた、とかゆうてるのが俺だけれどもってだめやん、それじゃあ。今はちょうど空腹だ、よかった、こんなに腹を空かしているのに飯を食うより先に祈願しに行く人間をきっと神は憐れに思われて聴き届けてくれることだろう。しかしそんなせこい心のうちを神さんはわかっていたら聴いてはもらえない気がする。どないしょう。まあええか、兎に角行こう。
俺は茶の縦縞模様の丹前を羽織ると、さっぶーと思いながら外へ出た。
歩きながらもうすぐ祠のある場所に着くな、と思ったところで俺は、しまった、と思った。丹前を羽織ってくるんじゃなかった、こんな温かい着物を着込んだ人間の言うことなど神は聴くだろうかと思ったのである。どてらを着込んでわしの前に来るなどどてらい根性を持っておるではないか、よしその願い聴届ける。と思ってくれる神がいると思えない。しまったあっ、脱ごうかな、と、丹前の紐をほどき掛けたその時であった。
俺の目がある一角を捉えた。そこまで近づいて行って道の隅っこに横たわっているものを見下ろした。それは鼬であった。口から血を流して死んでいた。どうしたのだろうか。鼬がひょろっと草陰から現れたりするのはよく見掛けるが、こうやって死んでいる姿はあまり見ない。痛々しい事象だ。なんで口から血が出てしまったのだろうか。哀れな鼬である。
俺は一瞬この哀れすぎる鼬を土に埋めてやろうかと思ったが、ある場面が俺の脳裡に浮かんで血を流しながら死んでいる鼬と俺が殺したあと動かずに横たわっていた肉親の姿とが重なり激しく呼吸がおかしいことになり俺はその場を即離れた。
しらたきに会わしてください。俺のしらたきに会わしてください。と泣きながら祠に縋り付く自分の末々の姿を思ったが、いざ祠の前に着くと、俺は何も願えなくなってしまった。願うことも謝罪することもできなかった。唯おれは、祠の前で洟を垂らしながら蹲っていた。涕は出ないのだが洟がものすごい垂れてくる。寒いが動けない。俺は祠の隣に置いてある小さな地蔵の頭を撫でた。地蔵の頭は冷たかった。あの鼬の頭も撫でたら冷たかったのだろうな。俺の殺した親父と、それから、みんな俺が殺す前は温かかったのに、俺が殺した後には冷たくなっていった。俺がみんなを冷たくしてしまった。そしてみんなを冷たい土の中にやってしまった。俺だけがこんな体温を持った体で、しかもこんな温かい褞袍を着てるのはおかしい。俺は今すぐ裸になって真冬の池にはまりたい気持ちに駆られたが、肺炎になって死ぬ恐れがあるので、それはやっぱりやめとこうと思った。死んだらしらたきに会えなくなってしまう。
俺は無意味な罪滅ぼしをする為に立ち上がり、鼬のところへと戻った。
その道半ば辺りのところで俺は幻を見た。しらたきが死んだ鼬を抱いて頭を撫でている。そして俺の方へと近寄ってくる。竟に俺は幻覚を見るほどにまでおかしくなってしまったのか。しかし幻覚とはこんなにはっきりと見えるのか、しらなんだ。すると幻のしらたきは俺の少し離れた俺の前でこう言葉を発した。幻聴である。
「熊太郎や」
俺は吃驚した。幻覚であるしらたきが俺の名前を呼んだのだ。なんで幻覚なのに俺の名前を知ってるのか。俺は幻しらたきに応えた。
「しらたきやっ」
すると幻しらたきは顔をちょっと歪めた。実しらたきが人に向かってよくする訝る思いを表している顔だ。よく知ってるなぁ、幻しらたきは。俺は幻しらたきに訊ねた。
「鼬持てどこ行くんにゃ」
幻しらたきは訝りながらこう言った。
「ぼくんとこ」
「ぼくんとこてどこにゃ」幻しらたきは面倒くさいなあという顔で続けた。
「ぼくがおるとこの家」
「家持て帰るんか、持て帰てどないすんねや」
「飼う」
飼う、と言った、幻しらたきは、まだ幻しらたきとなって日が浅いのだろう、鼬が生きているのか死んでいるのかさえわからないらしい。
「そうか、しゃあけろな、そいつもう死んでもうとるさかいに、飼うよりは土に埋めたったほうがええな」そう言うとしらたきは鼬を見て動かなくなってしまった。
幻しらたきは消えてしまうのだろうか、怖くなった俺は幻しらたきの元に歩いて行き幻しらたきの頭を撫でた。すごい幻である、髪の毛一本一本までもが精密に本物のように手に触れることが出来る。俺はそれでもまだ信じられない気持でいた。しらたきとはもうずっと会えないような気がしていたからだ。俺は枯れたような声でしらたきに言った。
「しらたきんとこのお庭に埋めたろか」
したらしらたきは、いやんいやんと鼬を抱きながら全身で、嫌やというのを表した。
「そうか、嫌か、困ったなあ」俺は困りながら、あっ、と思い、閃いた。
「うちにそいつとちょっと似とるやつがおまえのこと待っとるで」
しらたきは顔を上げて、俺を見上げた。錯綜な顔をしている。俺も錯綜な気持になった。ゆうたら、それはもう死んでしまっている鼬よりも、うちにおる生きたそれに似た生物のほうがええやろ、せやさかいそいつのことはもう諦めろ、と言っているのと同じだからである。
「ちゃうねん、そうゆう意味とちゃうんや、そゆうことやないんにゃ、しゃあけろそうゆう意味でもあるんや、死んでもうたもんはもう飼われひんにゃ、それはなんでかちゅうとな、死んでもうたらもう生きてないってことやから飼われんねや、飼うってことは生きてるもんの世話をするっちゅうことやろ、てそれはしらたきもわかるわな?」
しらたきの涙が、鼬の口元に落ちた。しらたきの姿をじっと見て、冬物を何も羽織っていないことに気付いた俺はどてらを脱いでしらたきに羽織らした。そしてしらたきに「寒いさかい、いったんうちかえろか」と言い、勾引かしているような気持で左右には冬枯れた草や木があらゆる方向に生え繁った上り坂をしらたきと一緒に上った。道の境界線の上には山が見えて、その上から夕日が覗いて眩しい。俺としらたきと死んだ鼬を照らす。前に見た夢を思い出す、あの夢もこんな坂道をしらたきと一緒に上っていた。
家に着くと、しらたきは自分から黙って家の前に行き、鼬を下ろすと前に鵲を埋めた隣の場所の土を手で掘り始めた。手で掘ったら痛いがな、と慌てて俺は落ちてあった木の枝を拾うとそれをしらたきに渡し「これで堀り」と言った。しらたきは前からこうゆうところがある。さっきまであんなに嫌がって駄々を捏ねていたのに突然何がしらたきの中で起こるのか自ら黙って遂行し出すのである。一種の激切な撥無をそこに感じる。しかしそうゆうところがまた、また、と一生懸命土を掘っているしらたきを俺は眺めていた。
「かささぎ横ィおるさかい、いたちさびしないやろか」としらたきは不安そうな顔で俺に聞いた。
「おう、これでさびしないやろ、せやけろ、あれやなぁ、しらたきがしょっちゅう会いに来たらもっとさびしないんちゃうかなあ、つって」と俺はそれは俺がしらたきに会いたいだけでそんなことを言っているのがそこらへんのところが鋭そうなしらたきにばれるだろうかとひやひやしながらしらたきの顔を覗いたら、しゅんとした顔でしらたきは応えた。
「毎日来たいけろ、出さしてくれへん」
「今日も黙って出てきたんか」
「うん」
やはりそうであったか、あの松河がすんなりとしらたきを外に一人で出さすはずがない。はあー、なんかええ方法はあらへんやろかなぁあ、と思っているとしらたきの目線が何かを追っていた。何を追ってるの、としらたきの目線を追ってみると、そこには、あの暴れ倒して連れてくるのに往生したボオちゃんがおった。
「ははは、しらたきおぼえとるか、こいつ」と言いながら柵の中に入ってボオちゃんを触ろうとすると、逃げた。
「うさごや、おぼえとお」
俺はぐわあん、と頭が鐘のように鳴り響いた。てことは、てことはつまりその、そう。俺のことはすっかりと忘れ果てたが、この兎のことは覚えてるってこと、それは、どうゆうこと?何故?何故?なんで俺のことだけ忘れてしまったんやあっ。と相当な打撃を受けながら、ぐわんぐわんと頭の中で揺れていると、しらたきも柵の中に入ってきてボオをいともたやすく抱き上げた。俺はそれに二重の打撃をこうむった。むかつくなあ、ボオ。なんかちょっと飛蝗みたいな顔しとんでおまえ。と心でボオに言いながら俺は、喜んでいるしらたきに視点を合わすと今度は頬が緩んで直らない。
そろそろ日が暮れようとしてきたので、俺は土間に入ってしらたきの大好物の芋粥と、それから粕汁を作るのに励んだ。松河は今頃またしらたきを探し回っているだろうか、知るか、ぼけ、探し回っとけ、あほんだらが。と勝ち誇った気分になって、ぴーひろろろーぴーろろー、と口笛なんか吹きながら作って出来上がった夕飯をしらたきと一緒に食うた。
しらたきとまたこうやって飯を食うていると、涙がこぼれそうになる。しかし、しらたきは俺以外の人間が本当に苦手だったのだが忘れてしまった俺という他人の前にいても平気なのだろうか。芋粥「うまい」とか、普段は他人には見せない顔で俺に接しているのは何故なのだろう。もしかして、こいつ俺のこと忘れてないのに忘れた振りしとんのとちゃうやろな、と思い俺は気に掛かっていたことをしらたきに問うてみた。
「さっき、おまえ俺のこと熊太郎ちゅたけど、なんでそない呼んだんにゃ」
「あんさんの名前、熊太郎やろ」
あんさん、と呼ばれてまた俺は顔がふにゃとなってしまったが慌てて戻して「そやで、けろなんでしらたきがその名前知っとんねや?俺のこと忘れとんのに」と聞いた。
「家で、みいなそう呼んどった」
「ほんまか、みいな俺んこと呼び捨てか」
「うん」
「寅三もか」
「寅三は、熊やんちゅうてた」
「そうか、ほんでも、しらたきは、俺んことあんさんちゅて呼ぶほうが呼びやすいんちゃうけ」と照れを隠しながら言うとしらたきは「うん」と言ったので俺は嬉しさのあまり黙り込んでしまった。
あっ、せや、あれしらたきに渡そう。と俺は伊勢の土産屋で買うたしらたきへの土産の花櫛を持ってきて、しらたきに渡した。
「それおまえに買うてきたんや、開けてみ」と言うとしらたきは包みを開けて中から花櫛を取り出して、行燈の前に翳して見ている。
「これ、なんや」
「知らんのか、おまえ、それ櫛や」
「くし、くしてなにゃ」と聞く。そういえば、俺は今までしらたきの髪を櫛でといでやったことがなかった。いつも手ですいてやっていたのだ。櫛など使わずともしらたきの髪は真っ直ぐでさらさらなので必要がなかったのである。でもこうやって大きくなったのだから、櫛のひとつやふたつ持っていても良いだろうと俺は櫛を選んだのだが、しらたきの髪を触ると変わらずさらさらだから特に必要はないのかもしれん、しかし花櫛は髪を結ったときに飾るものでもあるから、これ飾ったったら可愛いやろな、と思った。
「こうやって使うんにゃで」と言いながら俺はしらたきの髪を後ろに回って梳いでやった。前はおかっぱ頭だったのが、結構あれから伸びて肩に掛かるか掛からないかというほどにまでなっている。「もうまとめれそうやな」と俺が言っても、気持ちがよいのか黙って髪を梳かれているしらたきが思い掛けない信じ難い言葉を発した。
「あの人、ぼくのほんまのお母さんや」
俺はその言葉に手が止まった。そして言葉を出そうにも言葉が咽に突っ掛かって出てこない。
「あのおっさんもぼくのほんまのお父さんや」としらたきは言って俺の方に向き直って俺をじっと見た。「んなわけあるかいな」と言いたかったが、言葉が出なかった。それが本当なのか違うのかという問題はどうでもいいことで、俺はしらたきが何故そのことを俺に伝えたのか、その意味がわかったからだ。しらたきは、もう俺のところへ戻ってくる気はない。それを俺に伝えようとした。俺は涙が目の外側に押し寄せてくるのを必死に堪えて「さよか」としらたきに言った。
耐え難い悲しみの中、火鉢の灰を火箸でいらけていると、しらたきは俺に抱っこをせがんで来た。しらたきをいつもしていたように抱っこしてやるとしらたきは目を閉じて寝そうな感じになっている。俺が悲しんでいるとき、こいつはいつもこうやって抱っこをせがんで来たが、それを覚えているのだろうか。しらたきの寝息が聞こえてきたので、しらたきを抱きながら俺は声を殺していつまでも泣いていた。


天の白滝 五十

魚、うまいよね、と寅三と意見が一致したことで鮨屋を見つけ持ち帰って家で食うから適当に三人前、あと刺身も見繕うてくれ。と頼んで、待っている間に俺と寅三は少々の酒と肴を嗜んだ。鮨屋の亭主に「家どこや」ちゆわれて「水分のどこどこや」とゆうと「ほなあいたの朝ィ桶取りィ行くさかい出しといてくんろ」と言うので「そらおおきに」と親切な亭主から鮨を受け取るとこんだは酒を買いに行って我家へと帰ってきた。ボオちゃんは小屋の中で寝ていた。陽気に満ちて月見をしながら縁先で寅三と呑んでいると弥五郎が帰着。男三人揃って馬鹿話で盛り上がり明後日伊勢に弥五郎おまえも来いと言うと弥五も乗り気になって「行かいでかっ」となりその晩は朝方まで三人で飲み明かして鳥たちがチナナ、チナチィと鳴き出す頃になって三人は畳に雑魚寝した。酒を飲んで寝ると一度はすぐに俺は目が覚めてしまう、丁度、あ、そや桶を軒先に出しておくのを忘れておったと桶を持って外へ出て桶の中を見ると米粒がようさんついていた。
俺は近くの共同の川戸として使われている湧水場ひやみぞへ歩いていった、そこで桶を洗おうと思ったのである。楽しく飲んだ次の朝というのは気持ちの良いもので、宿酔の気配は訪れないし、銀杏の葉は黄に染まって嬉しそうだし、あー、なんかごっついええわあ、と思いながら俺は桶を湧水で洗っていた。水がまた気持ちええんだ、これ、といいながら黒い桶の外側を見ると金の紅葉と錫色の桜の画があしらわれている、ほーこらまた上品な、などと言いながら洗っていると村の女たちが大根や蕪の入った篭を持ってぞろぞろと入ってきた。せっかくええ思いで俺は桶を熱心に洗いながら日本の情調に触れていたのに、女たちが近くに来たのでは落ち着いて洗っていられない、しかし桶を見るともうすでに米粒の跡形が微塵もなかったので俺は女たちに軽く「おはようさん」と言うか言わまいで行くか、どっちがええのかと悩みながら立ち上がって言葉がすんなりと口から出たら言うこともできたが出てくる気配がなかったので俺は気不味いながらも黙ってひやみぞを後にしようとしたら、一人の女が俺に向かって何か言おうとしているのだが相手もなかなかすんなりとは言葉が出てこないらしく、あ、あ、と口を開けっ放しで俺はそのことにいたたまれなくなって顔を伏せて跑足で撤収した。女が聞かんとしていたことはまあだいたいわかっている、村を離れてどこかへ屋渡りでもしたのか、しらたきはまだ見つかっていないのか、とかだろう。確かに聞きづらいことだ、それを聞かれて俺もしらたきは見つかったで、ふんで二十歳そこそこなっててん、そいでから突然旅に出よったわ、ほんだら毒蛇に咬まれてん、ほでしらたき別の家に捕られたわ、ははははは、などと話せない、聞かれなくてよかった、とそれに俺は村の男と話する以上に村の女と話するのが大々大の苦手である。俺はほ、ほ、ほ、と三度くらいほっとしてそのまま鹿の脚となってうちに帰った。そして桶を軒先に掛けて寅三と弥五郎の間に潜り込んでまた寝直したのであった。
その日は午過ぎに弥五郎に起こされて「わいまた山行てくるさかいの」と言うと弥五はぺぺぺーんと家を飛び出していった。ほんま元気なやっちゃ、元気すぎるわ。と思ってまだ寝転がって、むにゃむにゃゆうてる寅三を「おい、もう午過ぎてるわ」と起こして起きたら、弥五郎が帰るまで何するって話になってまず午飯を食べに行って、水分をふたりでぶらつき帰ったら花札で銭を賭けてやったら寅三に五円も買ってしまって、これではあまりに寅三に悪いと思ったので「ほな俺が昨日勝った銭から五円おまえに返すわ」と言うと毅然としてこれを受け取らない、それなら仕方ないと諦め、もっかいやろうでと寅三に言われまた始めるとまたまた二円勝ってしまい。それでも寅三は飄々乎としているから、俺はこいつなんか悪いことして銭もうけてんのとちゃうか、いったいなんぼほどの銭持っとんにゃ、と訝しい気持ちになったが、そういや昨日博奕に三円負けたときは悔しがっていた、あれおかしいなぁ、と思ってしかしこれ以上勝つのはもう嫌だと思った俺は「なんかちゃうことしょうや」と言い特に何も面白そうな遊びが思いつかなかったので、笊を土間から持ってくると「これで今から泥鰌でも掬いに行かへんけ」と真面目な顔で言ってみたらげらげらと寅三は笑ってくれたので、よかった、これで気持ちは入れ替わってもう、もっぺん花札しよう、とは言わないだろうと解放感が広がっていってたら「ほなこんだ賭将棋しょうや、ある?」と言ってきたので俺はほんまに笊を持って薄い夜の中を走って行こうかと思った。が、やめといて寅三と将棋に諍いまた俺にとって苦戦、二円勝ったところで、たまらず「やっぱわしごっつ泥鰌が掬いたいわ」と叫び笊を持って猿のような動きで戸の方へと走って行ったら弥五郎が「只今」と帰して俺は大いに「う喜々ィ」と心の中で鳴いたのであった。

日は明け、今日は伊勢へ参ります日、と起きたらば俺はまた「ウキキキィ」と変に上擦っている。可笑しいな俺、と思いながらも伊勢へ向かうために身拵えをすませ、俺と弥五郎と寅三の参人はあれ愉し足並み揃え伊勢国へと向かった。
そしてやっと来ました、やって参りました伊勢国、まず伊勢に来たらば伊勢神宮というのは頭になかった、俺は伊勢の海が見たいな、と思ったから寅三に伊勢の海が見たいわ、と言うとほな海に参りましょうやということになり最初にやってきたのは伊勢の海。広大無辺の海をまえにして俺は、うわぁ、こりゃええ海じゃ。と全身がまるで海に吸い寄せられるかのような感覚になった。伊勢の海は暗かった。空は曇っているというわけでもないのだが白雲が多くべちだんどんよりとしてもいないが然るに海の色はどんよりと暗いのだ。ですから、そこに立つ波が白く際立ってなんかいいのである、それに風が強いから波が高い、こりゃええど、ええわ、と心奪われていた。するとふいに万葉集の歌で伊勢の海が出てくるやつがふっと浮かんだ、それは伊勢の海の白波がもし白い花であったらばこれを包み、愛する妻への土産にしたいなあ、とかなんとかゆう歌やったな確か、うわぁ、波ほんま白いわ、しらなみやわ、詠んだのは誰か忘れたがその頃の天皇さんとかも同じ波を見たんやなぁ、しかしええ歌やなぁ、しらたきにしらなみでできたしらばなを土産にしたらしらたき喜ぶかなぁ、などと想像してはしあわせなき持ちになったりなんかしながら寅三と弥五郎の顔を交互に見てみると、二人も同じような思いにとらわれているのか「おお」とか「波きついなあ」などと嘆賞しているから、おまえらも同じ思いか、そうかそうか、と嬉しがっていると寅三が「腹減ったなあ」と言い弥五郎がそれに「ほんまや腹減てきたな」と応えがくっと来たがそう言って俺も腹の虫が喧しいわいと三人して飯、伊勢料理でも食いにいっこうっでえとなり伊勢名物を威勢良く食らいに三人は御同行してつかまつったのであった。
で鱈腹食いすぎて店を出るとよしゃ、ほた寅三君、伊勢神宮とやらへ出掛けましょうというと「熊くん、本気か、そらあかんわ」と言った。
「なにがあかんね」
「知らんのけ、それ禁忌やね」
「近畿とな、まあ近畿に住んでるけろ、あかんのか」
「あかんね、たぶん、満腹で神社行ったらあかんちゅうで」
「ほんまか、なんであかんにゃろ」
「それは、やぱ神さんが怒るんちゃうけ、おまえ何飯食うてんねんて」
「飯食うたらあかんのか」
「いや、わしに参る前に何飯ぎょうさん食うてんねんて怒りそうやろ、神さんて」
すると弥五が「神さんはもっと心が広いんとちゃうんか」と言った。
それに対して「そやな、伊勢はごっつぅ古い神さんやさかいな」と俺が言った。すると寅三は「いやいや、古い格式ある神さんのほうがずっとえらそうにする思うで、本来」と言うので俺は「そうかなぁ、そうかもなぁ」と言い終わらないうちに弥五郎が「そないいばっとお神さんの根性わいが叩き直したる」と息巻いた。
俺はそれを聞いて弥五郎らしいわと目を細めて「はははは」と笑っていると寅三も一緒になって寅三の笑いはどっちかというと一寸人を小馬鹿にしたような哂いに聞こえたのか弥五郎が俺に向かってぽつりと呟いた。
「兄貴、しばいてもええか」
「兄貴、しばかれてもええか」
「掛け合いです」
言いながら俺は、お、なんか仲がよろしくなってきてるじゃないですか、おほほ、ええじゃないですか、ええじゃないか、と思い、あっ、ええじゃないかの伊勢じゃないのよ、伊勢はええじゃないかじゃないかと思い、あっ、さっき二人の掛け合いの後に俺が「ええじゃないか」と言ったら総勢大々爆々笑だったか知らんのに、うわぁ、しもたあ、でもやっぱ全然おもんないか、と一人どうでもええことで懊悩しておると二人はもうその話はどうでもええという風にすたすたと土産物屋の前に歩いて行って物色していた。
何々?何見てんのん、と俺も土産物を物色した。見るとそこの土産屋は櫛、簪、巾着などの娘たちが喜ぶものばかりを並べてあった。てことは弥五郎も寅三も女に何か買うてってやろうと考えておるのか、ほんま、ちゃっ、兄ちゃん若いね、などと思いつつ俺も真剣な眼になってしらたきへの土産を探し出した。すると、はと目に留まった赤い漆塗りで小判のような形をした小さな花が描かれてある花櫛が、これええなと思ってこれにしょうかなと決めてそれを購った。いつかしらたきと一緒にいろんなええ所を渡り歩きたいものだ、そして同じものを見て笑ったり、感動したりしたい。そのことも伊勢の神さんに頼んでみよう、と思って俺はまだ物色している弥五郎と寅三を見て、まだか、と店の前を何遍も往復して早く腹が空いてくれなくてはと激しく歩いた。
そうして二晩伊勢の地に泊まり、三人はすっきりした趣で遊び疲れを経験して水分へと帰ってきた。最初のうちは寅三を好ましくないと思っていた弥五郎も旅を共にするに連れて何をするにも気さくでさっぱりとした寅三とだんだんと馬が合うようになっていき、これで気兼ねすることもなくなると心安であった。
水分へ帰ると弥五郎は「わいここでもうちょい山仕事して銭貯めるわ」と言うから「そうか、またいつでも会いにこいや」と言い俺は暴れまくるボオちゃんを無理やり籠の中に入れると寅三と一緒にしらたきのおる地へ戻ったのであった。
住処に帰った俺は、しらたきの誕生日が来るまでにしらたきに会いたいと思っていたのだが、十月も十一月も一目すら会えず季節は師走、極月、限月となってしまった。ごくげつ、かぎりのつきという名前の通りこの時期になると人はこの一年を振り返り今月でもう今年も終わるが俺はこの一年何をしてこれたかとまるで極限の地に立たされて極所に至って極大な問題を突きつけられ極地はほんまさぶいっすわと嘆きながらそれでも大晦日俺は一人なんだろうか、などと極微なことを悲しみ極浦に見えるあれは光というものぢやあありませんかなどと蒲団の中で眠れぬ夜囁いてみたり、酔いつぶれて極光が見たいっすわっと叫んでみたり感極まって松河方の庭に少し忍んでみたところを即それも松河源次郎に見つかってしまい子犬のように首根っこを掴まれものすごい極悪な顔で「この極道もんがっ」と言われ引き摺り出されたり、極楽落としに捕まった鼠を出してやろうとして金網を抉じ開けようとしたら勢いよく開きすぎて鼠が池の中心部まで飛んで行って結句殺してしまった夢を見ては何故あの鼠捕りのことを極楽落としとゆうのかと恐ろしい気持ちになって震えていたり、極楽願うより地獄作るなとゆうなんか泥酔したおっさんが突然喚いた説法ごときの極論のような諺にまた恐ろしくなって一人で戦慄いていたりと年極る時、人は人生の果たてを見るのである。それほど最後の月というものは考えさせられる、苦しい月である。から何かええ事でもするのか、というと何もせず、では悪いことをやらないのかというとまあ博奕、酒はやる、酒を飲み呑み博奕をやりながら勝ってうほほほほほほ、と笑いながら、俺は日々遣り過ごしてしまっていたのであったんだけどね。
わからんが、俺のおらんところで俺の知らん場所でしらたきがいろんなことを知って行ったりして成長して行く事がやりきれんてどうすればいいのか俺はわからんのだ。嗚、泥鰌が鳴いている。


天の白滝 四十九

池田のおやっさん方の店に俺と弥五郎が入った途端「お?熊はんやないかいな、おまはん長らく見かけんかったやないか」と池田専太郎は台越しに声をかけてきた。
「おお池田のおっさん、そりゃなんでかちゅうとわしは村を離れとったんじゃ、村おらなんだら飲みにこられんやろ、今日は飲みにこなんだ分飲んだるさかいっちゅうのは冗談やけどもね、まあ帰郷の疲れを癒すには酒が一番かなちう話なてね、飲みにきたんやん」
「そうだっか、そうだっか、それはよろしい話でおまんがな」と浅くにやついた顔で言うなり池田のおっさんは一升瓶を後ろの棚から持ってきて俺と弥五郎に盃を出して注ごうとしたのを俺は「やっぱりちょう腹が減ってるからなんか先ィ頼むわ」と言い、これを受けて池田のおっさんは「おっと、それやたらなんでもよろしいんか、なんか造てくるわ」と言って何かをこしらえに厨に立って魚をさばき出した。
そうしておとなしく池田の親ッさんの料理が出来上がるのを待っている間、俺は心を無にすることを心がけていた、弥五が何故だか店へ入るなり何か考え込んでいるのか黙り込んでしまったからである。俺は一升瓶を持ち上げて「やっぱ先ィ飲んどくわ」と池田のおっさんに告げると弥五の盃に注いで自分のにも注いだ。弥五がおもむろに言葉を発した。
「ここ去んだら、わい早速山仕事してこよかいな」
「おいおい、そない焦らんでもええんちゃうけ、今日は仰山歩いたし疲れ溜まっとるやろ、あいたでええやんけ」と応えながら俺は、弥五は早く稼ぎに稼いで照を身請けしようとでも考えておるのだろうかと思った。
すると弥五は藪から棒わいつらいっすわ、かなんわ、みたいな顔になって「わい、なんや居ても立ってもいられひんわ」と言った。
大抵ならここで「おまえさん、その事情をおいらに詳しくゆうておくんなせよ」とでも言うのかもしれない、しかし俺はそう問いただすことはしなかった。
「まあな、まあね、俺もゆうと、まあ同じようなき持ちやね」と俺は言ったのである。何故か、それはここで俺が「一体全体なんで?どうして?何があって居ても立ってもおられないのかその訳を聴かしちゃあくれねえやろかい?ええ?ええぃ?」などと聞き尽くしてしまうのは兄貴として格好がつかない、兄貴としての面子が廃ってしまう。だからここで兄貴は堂々と「よし、おまえの言いたいことはもう俺にはわかってるんだよ、だから話すこたあないさ、しかしお前が話したいなら聞くから何時間でも話しなさいな、とそんな場合ではないんやな、なら早く山仕事へ向かえばよいさ弟よ」というつもりで兄貴としての矜持を持ち、弥五の気持ちはいざ知らずとてそんなことを俺は言ったのである。すると弥五はそれにこう事を返した。
「ほんまか、兄貴もおんのか、好いとる女」とこう言いやがったのである。しゃあないから俺はそこで「おお?おん、おお、おるわ、おるで?ひとりだけな」と応えるしかなかった。
「ほんまけ、知らんかたわ、兄貴はしらたきのことだけで頭いっぱいなんやおもてたからに」
俺はそれを聞いて悲しくなってしまった。なぜかというと俺は好きな女おる、と答えた瞬間、しらたきの顔が浮かんでしまったからである。弥五の言うとおり俺はしらたきのことでいつも頭がいっぱいなのであって、しらたきと離れ離れになってから俺は遊郭にちょいと行きたいな、などという気持ちもさっぱりなくなったし女とどうたらこうたらという欲望すら飛んでいったのである。しかしここでほんまのことを弥五に言う訳にはいかないであろう、俺の好いとる女はな、しらたきや、などとゆうた日には、弥五郎は俺から去っていくかも知れず。しかし待てよ、とも思う、だいたい弥五はあの日揚屋におったしらたきが実は俺の娘であると言うてもかたきし信じようとしなかったが、弥五はこれいつ俺の娘がいきなしでっかくなっていたということを信じたのであろうか。あの時かな、しらたきが弥五の背中を刺した瞬間かな、普通見ず知らずの男を守るために何も知らない娘があのような殺傷は起こさない。それとも未だにやや俺としらたきの話を怪しんでおるのかもしれない。まあ確かに幽霊の存在ですら見たことがないから信じないと言う弥五郎がまだほんの幼児であったしらたきが突如成人した姿に変わっていたという話を信じるにはこれなかなか難しいであろう。そんなことを考えながら「おやっさん、飯はまだか」と呼びながらちょっと誤魔化したりなんかしながら弥五は酒を飲みたがらず、一人で酒を飲んでいると、聞き覚えのある声に戸の方から呼ばれたような気がした。
俺と弥五郎は首を約45度ほど曲げて同時に左を向いた。そこには開いた戸のところに掛かっている暖簾の隙間から半身を覗かせてへらへら笑ってはいるが異常に二枚目なこと夥し過ぎる男、寅三が俺に向かって「はははは、熊やんおったあ」と言った。
何ゆえにここに、水分村に寅三がおるのか、と俺と弥五はびっくりした。すると寅三は演技がましく「やあやあやあ、あなたさんたち、よくもわたくしを置いて黙って行きさらしておくんなしたわね」と賢そうなその顔立ちでへらへら言うのである。それに合わして俺が「ばっ、ばばばばばば、ばばばばれたかあっ」と言いながらドタッと大げさに椅子から立ち上がり驚愕したそぶりをしながら応えた。その時手が当たって盃がこれ床下に転落してしまい、チャリンッと音立てて勇ましく割れた、その音を聞きつけて勝手方から走ってきた池田の親っさんに叱られた。
落ち着いて寅三の話を聞くと、寅三はもともと最初から水分に行く気はなかったのだが、丁度三日後に伊勢へ行く用事が出来、それまでのたちもり暇が開いてしまったということが分かり、ならば水分という場所にわいも行ってみてもよいかもしれないと思い今朝に着いて運がよければ熊やんと会えるや知れんとぶらぶらと探していたところであった、とこないなわけであった。
それを聞いた俺は「よう来てくれた、よう会えたで、まあ村は狭いがよくぞ会えたよな、な、な、な」と場を盛り上げたいと思ったが、弥五郎は特にこの状況があまり嬉しくもないようであった。
しかしこの後、俺と寅三は博奕に行ったろうかという話しになったとき弥五も一緒に行こうでと言うと少し考えてから弥五は「ほなわいも行こかいな」となり、店を出ようと勘定を池田のおっさんに言うと「ほな、ツケ合わしてと、三円と五十七銭やな」と言われて「ちゃっ、そんな借ィとったかいの、ほんま愛想がええわ」と不服そうに払いながら、三人は池田方を出て、これを近場の博奕場へと向い遊びに行ったのであった。

博奕場を出たときすでに宵は過ぎかけていた、心地のよい暗がりの中で俺は上機嫌であった。二十三円もの銭を勝ってしまったからである。調子がええときはこうゆうもんや、俺は三円ほど負けて悔しがっている寅三に向かって「な?ゆうたやろ?俺勝つときは勝つんにゃ、けど負けるときはなんにゃ威勢良う負けんにゃわ、ははははは」とゆうと寅三は妙に感心した様子で俺の横へ並んで言った。
「ほんまやわ、熊やんこれまで博奕一本でやてきたゆうとったもんなぁ、大したもんやで、わいも見習わせてもらおかな」
「そうはゆうけろ、われ、甘い話とちゃいまんで、今日食う飯稼ぐんに命懸けで博奕してみい、たぶん野良仕事と変わらんくらいィ疲れんで、神経ごっつう使うさかいのお、後へとへとなんにゃ、しんどいで?ほんま博奕一本ちゅうのは」
「せやろね、そう思たらわいは楽な仕事しとるかもしれんなあ」
「えらい仕事でそない遠方まで行くんやの」
「せやね、あちこちでうまい話見つけてくんねん、で今回伊勢参りがてらに行こおもてんねけろ、兄貴一緒にどないやね、兄貴てゆうてもたな、はは、なんやゆいたくなるな、まあええかわいは熊やんて呼ぶかな、熊やんも伊勢ィ行かへん?」
「伊勢かあ、ええなぁ、行てみたいなあ、弥五あいつ行かへんかな」
「弥五やんも呼ぼうや、三人で行たほうが楽しいやんかいさ」
弥五がここにいないのは、博奕をしている最中に「やっぱわいちょこっとだけれも仕事してくるさかい去ぬわ、すまん兄貴、仕事すんだら兄貴ンち行たらええのんけ」と言うので「ほしたら、そやな、今晩は俺ンちィ泊まったらどや」っつうたら「ほたそなさいてもらうわ」ゆうて早々賭場を出て行ったからである。がんばり屋さんやな、弥五郎は、惚れた女の為にそないして遊びもろくに遊ばんとそなして銭を、それも山仕事なんちゅたらはした銭ほどしかなんぼ働いてももらわれんのとちゃうか、知らんけれども、それをああして稼ぎに行く弥五郎は偉いやっちゃ、ああ、それにつけて俺は何なんや、なんかいなあ、情けないなあ。と俺は挫けてしまう。俺も弥五郎みたいになりたかった、弥五郎みたいに働けなんでも寅三のように利口な頭さえ持っていれば仕事もなんなとこなせたのかもしれない。俺は弥五郎のようなからだを動かして働く意欲、持続力のようなものも、寅三のような商売に関して良く回る明敏な頭脳も持ち合わせていない。だから俺は博奕しかできない、だから俺は博奕しかやってこなかった。しかし、俺はしらたきが俺のところに戻ってこれたならば、もう一度俺は仕事と言うものをやってみたい。人目を憚らずしてしっかりと四つ相撲で稼いできた銭で買うてきた食材で晩飯を作って、しらたきと一緒に卓袱台を囲んで食いたいな、そんな毎日が続くことが、ほんまの幸せっちゅうやっちゃろな。できるんかなぁ、俺。できたいなぁ、できたらええなぁ。などと考えて歩いていると横から寅三が話しかけてきた。
「今晩はなんかようさん買うてって熊やんちで盛大にやてこましたらなあきまへんのとちゃいます」
「それって素敵ね、素敵だわ、そうひまひょ、そうひまぴょうよ」と応えると俺と寅三は肩を組んで「ばまりこんだ世界へ行ってきてえー、そこの知らないおうちで盛大なご馳走呼ばれたよー、そこの主が狐か狸か知らずにね、知らずにね、知らずにね、呼ばれた明くる朝ァ、気付けやトンボを追いかけてたわー、はらひれはれー、明日も晴れやねぇ」という誰のはやり歌か知らんがそんな歌を寅三と一緒に歌いながら夜道を歩いた。と歌いながらここに弥五がおればなあと惜しい気持ちになった、それに、しらたきがおってくれたらな、こんな楽しいことはないかな、しらたき、どないしてるやろな、寅三があの家にいないことでなんとなく心配である。
見上げたら月が明るかった。月が明るい晩、それだけで俺は切なくなってしまう。


天の白滝 四十八

女を好きになる心情と、人を恨む心情、これはまるっきり正反対に思える心情で、その二つの対極なる思いに駆られ、さぞや苦しんでおるだろう弥五郎の胸中を俺は惟いながらその晩は照という娘が部屋を去った後も二人報復の話は持ち出さなかった。

明朝、弥五郎に起こされた俺は起きると、あれ?と思った。
すっかり邪気が抜けきったというような弥五の顔がそこにあったからである。にこにことしながら「兄貴、おあようさん」と言う弥五の頬は小児のようにふくふくとさえしておった。これは何事や、と俺は思わなかった、何故なら昨夜の弥五と照の互いに恥らう姿を見て二人の間に大きな人生の途中稀に訪れる果報が参ったことを知ったからだ。しかし、その前に敵を討つとあれほど士気高く気組みしておった弥五が一晩でこんなに変わるものだろうかと、もしやこのにこやかな顔で「兄貴、これから復讐いてこましたら」などと笑って言われたらどないしょうと怪訝しながら弥五の顔をまじまじと見ておる俺に弥五が真面目な顔で信じられないことを言い放った。
「兄貴、今更こんなことゆうのもなんやけろ、仇討つちゅう話、少しわいィ預けたってくれへんか」
俺はそれを聞いて、瞬時にして二つの考えが浮かんだ、一つは純一無雑に弥五のあんなに燃え盛っていた復讐の念を照の存在が一夜にしてふっと蝋燭の灯を吹き消すかのように消し去ったのか、という考え、もう一つは弥五はこんなことを言って実はやっぱり俺に迷惑をかけたくないという気持ちが強まり、または俺が殺すのはやめろと誡めた事で一人で殺るしかないと不退転の決意を成し遂げようとしてこんなことを言っているのではないのかと思ったのである。前者であれば俺は全然良いのである、寧ろその劇変事態を大いに讃して二人で日がな一日狂喜乱舞してひょっとこ踊りをずっとやっていたいくらいなのだが、もし後者である場合俺は悲しい、またそうやって弥五を疑ってしまうこの腹の内もとても悲しいことである。そんな考えが一瞬にして浮かんだ俺はなんと返事をするかと迷っていると弥五郎は本腰になって続けて言った。
「兄貴にはほんますまんと思とる、許してくれ、この通り」と言うと弥五郎は畳に頭を伏せようとしたから俺はすかさず弥五の肩を掴んでそれを止めた。
「待ちや、あんな、俺はわれが仇討ちを諦めたちうならそない嬉しいことはあらひんにゃで、しゃあさかいそれやたらなに謝ることなんかないがな、しゃあろ」
「そうなんけ、兄貴、けどすまん、男として失格や、わい、一度決めたこと覆してもうて」
「阿呆、そんなん気にすんな、俺がええゆうてんねからええねや、それより俺が心配してんはな、おまえが一人で報復してまいよらへんかちうことだけなんにゃ」
「そないな心配いらへんが兄貴、わいもうそないことは考えひんさかい、それは信じてくれや」
「なら安心にゃ、信じとるさかいな、ああ、安心して腹減てきたわ」
「朝飯食うてはよ去のうで」
「せやな、そないしょ」
朝飯を頼んでこれをちゃっちゃっと食らい終わると二人は宿を出て、水分に向かいて道程をずんずん進んだ。弥五は帰るまでには一日は要すると言っていたが水分に着くに半日あれば十分でどこにも寄らないで歩いたらば七時間強はあれば着くぐらいの距離であった。と言っても徒歩で七時間強の距離は気軽に行ったり来たりできる距離とは言えないがさして遠いという距離でもないということがわかった。ゆうても同じ河内と呼ばれる場所であったし、先ほど出た宿からは四時間ほどで着いてその近さに少しく驚き安堵旅の疲労を感じながらも俺と弥五郎両人は無事水分村に到着した。
何箇月振りの故郷であろうか、水分を離れ、一年も経っていないが妙に懐かしく感じるもので生まれ育った場所に久方振りに帰って来た俺はそこでゆくりなく烈しい苦しみにとらわれた。俺はこの国をずっと離れなかった理由を思い出した。俺は何度かこの地を離れて暮らしたいと思ったことがあった。ここにいると目に入るものはすべて俺の一番苦しいことを思い出させるからだ、ありとあらゆるものが俺の苦しみとなった、様々のものが俺に家族を殺してしまった、二度と戻ってやり直すことはできないという悲しみを起こすものとして俺の目に映るようになった。忘れたいとは思っていないからそれでいいのだろうが、そのことで耐え切れなくなった時に幾度も俺はこの地さえ離れたら今より楽になるのではないかと思い離れようかと考えた。しかしすぐ後には何処へ行っても同じであると気づくのだった、何故ならそれはこの地に在るものに限ったことでなく、たとえばこの頭上に広がる空、万物何処にでも起こりうるであろう現象、雨が降る、冬には雪が降る、春には桜が咲いて散る、などのものを見ても俺は思い出すからである、そんなものは何処に行っても目に着くし、空がない場所なんて場所はない、てことはどこへ逃げようと同じなので俺は離れることもしなかった。しかし一旦離れてみて戻ってきた今のこの苦しみは何かというと俺は此処を離れていた時に結構忘れて暮らすことができていたということではないのか、だから帰ってきて懐かしいものが俺に与える苦しみに相当打ちのめされているこの現状に俺は剰え打ちのめされて悲しんでいる。それと俺はしらたきに此処で出遭えたからこの地で生きて行けたのかもしれない。今はしらたきのいないこの水分に俺が立っているという現実が耐えられない、しらたきのいない水分は、俺とこの水分を二者の関係に縛り付けてしまうのだろう、俺はもうその二つの関係性の呪縛された場所では生きてゆけない、恐ろしすぎる、俺はよくここであれから一人で暮らしていたものだ、今考えると考えられない、家から少し歩くとあの血の跡がまだ残っている自家が見えるのである。恐ろしい、過去の自分に向き合おうとすると恐ろしくてたまらなくなる、そしてたまらなく悲しい、あの家の傍はもう通りたくない。そう思った俺はこの道を進んでしまうと自家の前を通らざるをえないので左に並んで歩きながらほふほふした顔の弥五に向かって「ちょうあちから行かへん」といいながら親指を右の脇道の方へと指した。
「おぅっ」と応えて、きっと頭の中は照のことで頭が一杯なのであろう何も訝らず弥五郎は俺の提案に応諾した。一度頭が過去へと向かうと止まらなくなってあの夜の手についた血の色や血でぬるついた手で小刀を握り締めていたあの感触まで生々しく思い出してしまう為に俺はその過去の時間から必死に歯を食いしばりながら現在の俺に戻すように頭の内部で死闘した。道の両側にはもう背の高い薄がゆらゆらと揺れていて、俺はそれを見ながらその薄だけを頭の中に生やすことだけを考えた、薄がゆらゆら揺れてる、薄がゆらゆら揺れてる、薄がゆらゆら揺れてる、と念仏のように心の内で唱えた。
「え?何が揺れてるて?」と弥五が聞いた。俺は知らん間に声に出して薄がゆらゆら揺れてると言ってしまっていたのである。しまった、なんと言おうと思って咄嗟に「ユーレーッテルン」といった。
「え?幽霊が照やて?」と照のことしか頭にないものだから弥五はなんでも照に結び付けたがる。
「ちゃうがな、幽霊、ってるんかな、いるんかな、おるんかなっちゅうたんやんけ」と強引に変えてみた。
「さあー、おらんのとちゃうかあ」といい加減に弥五が応えた。
「しゃあけろ、おるかもしれんやん?」
「そうかなぁ、おんのかなぁ、見たことないさかいおったら見えへんの可笑しいやんけ」
「見える人には見えるちゅうやんけ」
「それやたらわいも見えるようなりたいわ」
「なんでわれ幽霊見えるようなりたいんにゃ」
「なんかおもろそうやんけ、見えたら」
「夜中にうらめしやて出てくんにゃで、くわいことあらへんのけ」
「くわいことはないかもなあ、見てみなわからひんが、うらめしやて出てきたら、われ誰がうらめしいんにゃて聞いたるわ」
「ははっ、ふつうに会話するわけやね、ほて聞いて誰々がうらめしいわちいよたらどないすんにゃ」
「ほたら、よし、わあった、わいが怨み晴らしたるさかい五十円でどやちゅうんや」
「幽霊相手に商売すんのけ、われえらいのお、しゃあけろ幽霊て銭持っとるんけ」
「持ってひんのかなぁ、持ってそうな感じするけろなあ」
「でも銭持てあの世行かれひんてようゆうにゃん」
「あ、ほんまやな、ほな一文無しかあ」
「たぶんそうとちゃうかなあ」
「ほな、話ィならんわ、ははは」
「ほんまやの、ははははは」
するとそのとき俺の右肩にどさっと何かが乗った感触がして、わあぁっと叫んだ。
振り返るとそこには意地の悪い笑みを浮かべた駒太郎が立っていた。
「いひひひ、熊、おまどっか行とたんけ、家覗いても蛻の殻やたさかい夜逃げでもしたんちゃうけて村で噂立っとんど」
「おお駒やん、久方やのお、いやね、夜逃げとちゃうよ、まあ深い訳があての、ちょう家出ることになてね」
「なにゃ、遠くィ嫁ぎにでも行たんけ」
「なんでやねん、まあでもそれィ似た感じかな」
「どゆこちゃ、ほんでここ戻てこんのけ」
「いや、戻てくると思うよ、てか今戻ってるよ」
「ほうけ、話ゆくら聞きたいけろ今時間ないよってまた会たら聞かしたってや」
「おう、わあたわあた」
駒太郎は弥五郎に手を上げてほな、と交わし小走りでひょかひょかと走っていった。
駒太郎っちゅう男は弥五郎と知り合う前の餓鬼ん頃からの仲であるが、駒太郎に限ったことでないが村の者に道でばったり会ったりすると少しく緊張してしまうのであった。それも昔からの話であるが、俺が家族を殺してしまったことをみんなに黙っているからということ以前に、俺はもともと人と話しをすることが大の苦手であって考えてること思ったことをうまく言葉に表して人と話すことができない性格であるから、極力的に村のもんとさえ話すことは避けてきたのである。しかし最近俺は寅三と、この弥五郎と親しくなったがそういえば二人と話すときにはそれほどは緊張しない、言葉もいつもより滑らかに出るような気がする、これはなんでなのだろう、弥五郎と寅三が俺を慕っているからだろうか、俺はそれまで人に慕われるなんてことはなかったように思う、兎にも角にも俺は弥五郎と寅三の前では気兼ねなくいることができる、これは俺にとって実に嬉しき事である、今まではしらたきの前でだけそうしておれたのだが、今はしらたきに会うと変に緊張してなにを話していいのやらと頭の中がてんやわんやとなってしまう、これはなんでかというとしらたきが俺の記憶をすっかりとなくしてしまったからで、しらたきにとって俺はただの他人なんやと思うことで自信をなくしてしまってそうなるのであろう、ああ悲しいな、悲しいことだなあ、早く俺のこと思い出してほしいなあ、と思いながら歩いていると俺の家が見えてきた。
うわ、俺ンちやわ、懐かしいな、と思って歩幅を広めて歩いた。
「兄貴ンちや、兎元気でおるかなあ」と弥五が言うと俺はどきどきした、兎活きてろよ、生きてろよ、と心で祈りながら家の前に着いて、庭の柵の中を俺は覗いた。
そこには俺の知っている生き物とはまったく違う生き物が我が物顔で寝そべっていた。
「誰、こいつ」と俺は言った。
「わはははははは、兄貴驚かしたろおもて言わんかったんにゃ、だははっ」と弥五が馬鹿笑いをした。
「え?マジで?うそやろ?」と俺は目を丸くした。
俺がこの家を離れていた期間は多分四ヶ月かそこらのはずである、その四ヶ月の間にこの生き物は八倍ほどの大きさに成長していたのである。信じられん、もしかして別の兎がここに居座っているのじゃないのかと近くに行って確かめようとしたが、確かめようにも兎の顔なんてみな同じであろう、真ッ茶色の兎と兎が入れ替わったところでどいつがどいつかなどとわかるはずもない。俺は兎を抱っこしようとして掴みかけたら、兎はぶんわぁあっと暴れ倒して腕を引っ掻かいて小屋の中に逃げこんだ、ものすごく凶暴になってる、もうこいつ逃がそうかなと思った、それか小さい兎をまた見つけてきて、それをしらたきにこいつあの兎やでと言おうかなと思った、そんなことをしてもまた四ヶ月経てば同じ大きさになってしまう。俺は諦めてこの暴れ兎、名前、ぼおう、にしようかなと思いつつ、いいづらいな、ぼう、でいいかなと考えつつ一先ず兎は庭に置いといて、ちょう旅疲れを癒してこまそか、と弥五とちょくちょく飲みに行っていた池田専太郎というおやっさんの店へ二人して行ってこましたろうという話しになり、まだ宵前であるにもかかわらず俺と弥五郎は水分の村で浮き立つ足揃え飲みに行ったのであった。